2 目覚め
まぶたを上げた時、最初に視界に映ったのは灰色の空を切り取る白い木の枝たちだった。
思考に靄がかかっているようだった。ふわふわした意識では何も考えられず、ただ少女は金色の瞳で白樺の枝を見つめた。仰向けで寝かされているようだが、どうにも体が動かせない。そもそも、体の感覚だって鈍い気がする。熱があるのだろう。寒気と共にぐわぐわと体の底で地響きが起こっているような感覚に襲われる。
(ここは、どこ……)
風で木の葉が囁く、ザアザアという音だけが響いている。森の中だということはわかるが、それ以上は判別がつかなかった。
そもそもなぜここに寝かされているのだろう。深く考えようとするたび、頭に割れるような痛みが走る。
(私は……誰?)
わからない、ということを自覚した時、少女の体に恐怖が走り抜けた。自分が何か、ここはどこか、何もわからないまま寝かされている。それはつまり、何に襲われても打開策がないということだ。
その時だった。地面に積もった木の葉を踏み潰すような、ザッザッという音が聞こえたのは。
誰かが近づいてくる。そう思った瞬間に恐怖は最大値に達した。近づいてくる人影を何とか視界に入れようと、目線を動かし首を回そうとするも、その瞬間にぐらりとめまいが襲ってきて世界が一回転した。
「うう……」
吐き気が止まらないまま、何とか視界に目標物を入れた。
男だ。かなり大柄で、弓を背負っている。手には何か、白い小動物をぶら下げている。
強面、と形容されるような顔だ。肉食獣を思わせる、獰猛さが滲む目つきに、狼の耳を生やしている。食べられる、と直感的に思った。
男は少女に気づくと、急いで駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫か」
「えあ……」
返事をしようと思ったのに、うまく声が出せなかった。
男の声色は思ったほど怖くもやさしくもなかった。ざらりとした低い声。諦観めいた冷静さがあった。
男は腰に提げた革袋の栓を外すと、少女の口に水を流し込んだ。少女は咳をしないように、喉元に神経を集中させて飲んだ。
「無理はするな、辛いなら寝てろ」
少女の隣に腰を下ろすと、道具入れから火打石を取り出した。薪が作ってあったのだろう。煙の匂いが鼻先を掠めた。幸いにも、少女を傷つける意思はなさそうだ。
少女は安堵し、また眠りの底に落ちていった。
次に目を開けた時、視界に映ったのは夜空だった。
頬が熱い。熱源が隣にあるのだろう、その方向から橙色の光が注いでいた。
「あ……」
無理やり声を出すと、視界の外からまた男の声が響いてきた。
「起きたか」
短いつぶやきだった。また木の葉を踏み潰す音がして、今度は椀を持った男が視界に覆い被さった。木から切り出した匙を、少女の唇に当てた。
何かドロッとした汁だった。味覚も曖昧になっているのか、温かくて塩気がある、くらいの認識しかできなかった。
「粟粥だ。薬草と兎肉を細かくして入れておいた。胃に入れるのは辛いだろうが我慢してくれ」
言い方はぶっきらぼうだが、男の声音は優しかった。
少女は最小限の動きで、それでも頑張って顎を動かした。味とか何かよりも、全身の渇きを満たしたくて、匙が運ばれてくるまま喉に流し込んだ。
「よく食べたな」
嚥下に夢中になっていたらいつの間にか椀が空になったのだろう。男は少しだけ口角を上げると少女から離れていった。
「あ……」
精一杯、少女は声を出した。
「あいがと……」
舌がうまく回らなくて、悔しくて涙が出た。
「ああ」
視界の外から、その返事だけ返ってきた。やはりそっけない声だった。
「ん……」
まぶたから差し込む光で、目を開けた。
雲の切れ間から覗く光は、紛れもなく朝日だった。
熱が引いたのだろう。今度は簡単に体を起こすことができた。体にはいつの間にか分厚い毛皮がかけられていた。
ふと、隣を見る。
昨日の男が静かな寝息を立てていた。体温を保持するためだろう。少女に体をくっつけて眠っていた。
大きな狼が体を丸めて寄り添っている。少女はそんな印象を抱いた。
「あの……」
ペシペシ、と男の頬を叩く。
「んあ……起きたのか」
男は起き上がると、ボキボキと肩を鳴らしながら伸びをした。
まじまじと男の顔を見る。
無精ひげは雑に伸び、肌は乾燥しきっている。雪雲のような灰褐色の瞳。短髪は耳の前で編み込んである。これは確か、北方の習俗だった気がする。なぜそんなことを覚えているのだろうか、と少女は不思議に思った。体中どこもかしこも傷だらけであったが、一番印象的なのは顔面を一文字に割くような深い傷跡だった。随分と前につけられたものだろう、乾ききりすでに肌の凹凸と化していた。
「どうだ、体調は」
男はやはりそっけなく尋ねた。
「大丈夫。ここは……?」
「清龍山の北岳あたりだ」
そう言われても少女にはピンとこなかった。
「せいりゅ……?」
どうも記憶にムラがあるようだ。
ぼんやりした少女の様子を見て、元から起伏の少ない男の表情がいよいよ固まった。
「まさか、覚えていないのか」
「わからない……」
「雪代は? 斎龍院は?」
「わ、わからない……」
冷たい風が二人の間を通り抜け、積もった枯葉を舞い上げていった。
男は少し考え込んだ後、試すようにひとつの単語を口にした。
「……天空、は?」
「それは……、死者が帰るところ……神様の国……」
それから男はしばらく黙り込んでしまった。
その響きからなんとなくそんな気がした、というだけであった。口を閉ざした狼に、なんだか悪いことを言ってしまった気がして少し焦る。
「あの、司狼」
口を突いて出た。
(なぜこの人の名前を知っているのだろう)
少女は自分が怖くなった。知らない記憶だったが、確信めいたものがあった。この人は、司狼だ。
「自分が、誰だか、わからなくて……」
「すまん。俺もお前が誰かはわからないんだ。傭兵家業の途中で拾っただけだからな」
「ごめん……」
「謝るな。あんな思いをしたんだ。忘れて当然だ」
(あんな思い?)
そう言われても、心当たりがなかった。
彼の口調から、自分の身に酷いことが起こったのだろうということはわかった。記憶の混乱もそこからなのだろうか。深く考えようとすると、また頭痛が襲ってくる。
「だがずっとお前じゃ困るな。お前のことはなんと呼んだらいい?」
微かに柔らかい声音で言われて、少し考え込む。自分に馴染む名前、馴染む音。それは案外すぐ思い当たった。
「あ、あの」
逸るように、その名前を口にだす。
「雪って呼んで」
「わかった」
男が微かに口角を上げたので、雪はほっと胸を撫で下ろした。自分に言い聞かせるように、頭の中で雪という名前を反芻する。
「俺は雪を家に送ろうと思っている」
呟くように、男は言った。
「単刀直入に聞くが、自分の家がどこだかわかるか?」
雪はゆっくり首を傾げた。
「わからない、のも無理はないな」
「わからないのに送り届けられるの?」
「ああ。鍵となるのは天空という言葉だ」
「天空? なぜ?」
「天空、というのはさっきお前が言っていた通り、一部の地域で神の国を指す言葉だ。だがこの言葉は、例えば今いる清龍山脈では使われない。天空という言葉が使われているのは、この山脈よりもっと北、狄地と呼ばれている地域だ」
狄地、という言葉を口に出すとき、司狼は少しだけ眉をひそめた。
「この地域は種族で分かれて主に六部族が暮らしているんだが……」
「私の種族の場所に行けばわかるかもってこと?」
「いや、残念ながら六部族に龍族はいない。馬、熊、鹿、猛禽、兎、海獣で六部族だ。あと篆とか狐とか小部族がいくつかあるが龍は一つもない。だが、天空という単語を知っているということは、現地人である可能性が高い」
「……司狼は? 狼は入っていないの?」
純粋な疑問だった。こんなに内部に詳しいのに司狼が関係者じゃないとは考えにくい。
「今は、な」
司狼は曖昧に返した。あまり詮索されたくないのだろう。
「とりあえず、狄地に行くにはこの山脈を超えて河を渡らなければならないんだ。そのために一旦、嵯峨湊に行く。そこから伝手を使って、狄地に渡る。雪の家を探す」
「家……」
その単語がしっくりこなくて、胸の辺りをさする。
「家なんて、あるのかな」
「大丈夫だ。絶対見つけ出す」
やけに確信めいた目で司狼は言うが、雪の心には不安が渦巻いていた。




