1 天空の子
分厚い雪雲に、小さな亀裂が入った。
一筋、光が差した。
日射は扉の形を切り取り、大柄な男性の影を逆光で描いた。
あたり一面に金臭さが充満しているが、そんなことは大した障害になり得なかった。
私は知覚する。
純然たる事実として、目の前に狼族の男がいるということを。
男の顔には一文字に切り裂くような古傷が残っているということを。
男の服にはもはや黒ずみ硬化し始めている血潮が付着しているということを。
男の手には使い古された剣が握られており、それはどちらかというと切るものというより鈍器のような重さが感じられたことを。
幻覚剤で溶かされた脳には、もはや善悪を区別することも能わず、そう、事実としてそういう映像が眼前で展開されている、その認識しか持ち得なかった。
夢、なんだと思う。
だって、どう考えても、ありえないから。
目の前に広がるのは、脳内で何度反芻したかわからないくらい、待ち望んだ光景。
私の罪。
私の祈り。
あなたの名前は知っている。
ずっと、ずっと前から。
やっとのことであなたの名前を口に出したけれど、それが単語の体を成していたかどうかは、ついぞわからず。
男は幽霊でも見たような顔をして、私の方にやってきた。訝しげな顔には、長年の苦労からか、深く眉間に皺が彫られている。
しかしその面影は、あの日のまま。
やっぱり、やっぱりそうだ。
私は、最期の願いをあなたに託す。
赤く澱んだ水溜りから、やっとのことで振り上げた腕を、天に伸ばす。
「天空、へ」
違えるはずがない。
目の前にいるあなたは、間違いなく。
私の呵責、なのだから。
***
長く傭兵稼業をやっているが、今回の仕事が一番面倒になる。そう司狼は確信した。
薄暗い酒場の卓に向かい合わせで座る男は、瞳に熱い炎を宿していた。まだ十代も後半だろう。司狼はその無鉄砲さを剥き出しにした輝きに、少しだけ息を詰まらせた。
「おとぎ話が支配するこの国をひっくり返す。今こそ民の目を覚まさせる時です」
青年は興奮を隠しきれない様子で声を震わせた。
「この手で、神を壊すんです」
「……ああ」
司狼は肯定とも否定ともつかぬ返事をした。
酒場の壁が秋風できいきいと軋んだ。ごった返した店内はもとより無法者が集うそれだった。こんな無礼な発言を一つ二つしたところで、ここにいる誰も気にしない。
青年の言う事はもっともであった。
神国、雪嶺。
その歴史はこの大陸の中でも古く、創造神、龍王が最初に愛した地、とすら言われている。
山と谷ばかりの痩せた土地だが、ただ一点、他の国とは違う利点があり、それをよすがに細々と生き長らえている国。
その利点は、通称、雪代と呼ばれる。
この国の子供にはとある特徴がある。何万人に一人という確率で、龍昇という現象があるのだ。
龍昇とは、別の種族だった子供がある日を境に龍族に変化することである。
例えば狗族なら嗅覚が他の種族より鋭い、猫族ならしなやかで運動神経が良いなど、体表に現れた動物の特徴を持つのはどの種族でも共通しているが、龍族になった子供達は他のいかなる種族とも違う不思議な力を有していた。
龍族は龍神の声を聞き、人々に神託を与え、天災を操るのだ。
そのため龍昇が現れた子供は清龍山麓にある寺院、斎龍院に集められ、男女問わず神託の巫女、雪代として奉仕することを定められている。龍昇が見受けられた途端、斎龍院の使いが少年少女の元に迎えに来る。何年かの修行の後、彼らは国を動かす神の機構となる。
雪代の神託は絶対だ。斎龍院の大人たちは龍の子たちが発する神託を解釈し、政治を行う。
そう。言ってしまえばこの国は、子供、及び子供を乗せたり乗せられたりする大人が支配している国なのだ。それをおとぎ話と表現するのは、当たらずとも遠からず。
司狼はたこのできた指で無精髭を擦った。
「しかし、なぜ俺のような無名の傭兵に直々に頼みにくる」
今日初めて会った仲でする会話ではなかった。司狼自身、でかい仕事の話だとは聞いてきたが、ここまで大きいものだとは思っていなかったのだ。
「それは、あなたが遠吠えの民だからです」
青年の瞳には、はっきりと司狼が映り込んでいる。
ひとつ、冷や汗が司狼の頬を滑り落ちる。
「馬鹿を言うな。遠吠えの民は滅びたんだ。今更頼られても迷惑だ」
「そんなはずはないでしょう? あなたにとって龍という言葉は責苦であり、内なる狼を疼かせるものであるはずだ」
司狼は無意識に、刺青の入った胸元を触っていた。
部族を示し、地位を誇示する刺青を。
ありし日にはそれは、確かに勲章であったのだ。
遠吠えの民とは、この国が国という体を成す前から、領土の北方に住まう原住民族だった。ただの原住民族ではない。凶暴で人を食べるとかいう、物騒な噂付きで有名な部族。たしかに遠吠えの民の体表には狼の特徴が顕現し、それに伴う身体能力の高さは備えていたし、男も女も皆、猛ると手がつけられないような屈強な戦士となった。
それゆえに、畏れられ、排斥されるのが常だった。
ある日、龍の神託は遠吠えの民に牙を向いた。滅ぼせ、と雪代が一声上げると、山は焼かれ、一族の民は命を落とした。
よくある話、別に面白くもない話。
そう。とうに黄昏を迎えた部族の、一番血の濃い生き残り。それが司狼だった。
考えるに、青年は司狼をただの傭兵としてではなく、ある種旗印として利用しようと考えているのだろう。
おとぎ話の神が下した神託によって滅んだ、忌むべき部族の末裔として。
司狼は薄く笑った。
「君の考えている事はわかるが、俺の血自体に意味はあるまいよ」
その言葉を否定と受け取ったのであろう。青年は麻袋を机に叩きつけた。これでもかという金属音に、貨幣がぎっしり詰まっていることがわかる。
「これで、十分ですか」
ぎらついた鋭い瞳孔には、必死さが滲んでいる。
本気で国をひっくり返そうとしているのだ。その途方もない夢は、彼にとって向かうべき現実なのだ。
「別に断ろうという気はない。君が思っている働きは期待できないだろうとそれだけのことだ」
こちらは傭兵だ。給料分はきっちり働かせていただくが、それはそうとして、他ならぬ自分に、歴史に名を刻む価値があるとは到底思えなかった。
もう、狼は今の時代にそぐわないものだから。
「ありがとうございます!」
虎の耳をぱたぱたと動かして、青年は司狼の手を取った。
夜が更ける。酒場の喧騒は、二人の獣のやり取りを曖昧にかき消す。
ひたひたと冬の足音が近づいていた。枯葉色づく秋の出来事だった。
結局、青年の思い通りになった。
あれからわずか一年足らずで、司狼は救国の英雄となった。いや、再び英雄にさせられた。
同胞を集わせるためではない。ただ畏れの対象として。神民を失墜させるためのただの歯車として。そしてその役割を、生真面目なまでに全うした。しかるべき時に殺し、しかるべき時に吠えた。傭兵とはそういうものだと言い聞かせた。
暴力の象徴。
それが、音に聞きし遠吠えの民。
確かに司狼にも、当てずっぽうな神託のせいで飢える民を救いたい、という気持ちがないわけではない。しかしそれは、自分が自分であればの話だ。
傀儡の英雄。
他人の掌の上で剣を振るうのはもう慣れたものだと思っていたが、やはり応えるものがある。どこまで行っても遠吠えの民は同じ人間ではないのだ。
叛乱軍「虎穴党」。虎の青年の首領泰牙は、叛乱最後の締めくくりとして、斎龍院に攻め込むことを選択した。
彼が描いた叛乱の絵図の最後は、雪代たちを城の高台に集め、神民に見せつけるように殺すというものだった。
そして、この世にもう神はいないのだと、高らかに叫ぶのだ。
この国は「神」が統治する分だけ、他国から遅れを取っていた。技術も、暮らしも。それを否応でも見せつけるのだ。
斎龍院。最奥。
本隊から離れ、司狼は一人で、雪代が住まうという部屋の前に来ていた。泰牙の考案だが、実際は何か起こった時に司狼を捨て駒にしようと考えてのことだろう。化け物には化け物をぶつけるのだ。いつものように、特段司狼は異を唱えなかった。
やけに、静かである。
泰牙の、というか雪嶺国の人間なら、この扉の先に何十人もの龍の子が暮らしていることは承知している。この扉の先は、毎日日の出と日没に、窓から雪代様たちが謁見なさる建物に繋がっている。一度この地に来た者なら誰でも知っていることだ。
しかし、扉からは物音ひとつ聞こえない。悲鳴も、震える声も。
司狼は顔に付着した血を拭った。
意を決して、経文や装飾で極彩色に彩られた扉に手をかける。
重い扉には、鍵がかかっていない。その境界線は、滑らかに、いかにも自然に開かれた。
無機質な、明かりのない部屋。
しかしそこに広がる光景は、流石の司狼でも生唾を飲み込むような凄惨さを放っていた。
子供たちが血だまりに沈んでいる。
龍の角を生やした何十人もの少年少女が、口から血を吐き出して倒れていた。何重にも着せられめかし込まれた装束は血を吸って乾いている。折り重なる体。皆、同じような顔、顔、顔。しかし傷つけられた跡はない。集団で毒でも飲んだのだろうか。これも泰牙の策の内か? いや、泰牙は目的のためなら手段を選ばないが、目的もなく残虐さを発揮するような男ではない。彼が民への見せしめという最も効率的に人を動かす手段を使わないなど考えられない。おかしい。未来を憂いだ大人の僧侶が飲ませたのか? いや、まさか、自分たちの意思で。
微かに衣擦れの音が聞こえた。
司狼は濡れた革靴を持ち上げて、恐る恐る、その音の方向へ向かう。
一人の少女が視界に入った。
やはり皆と同じように白く澄んだ肌に銀色の髪をしていたが、ただ一点、違う箇所があった。
空色の着物に厚く覆われた胸が上下している。
まだ息があるのだ。
少女は視線を上げた。
胡乱な目で、乱入者である司狼をじっと見つめた。
だらりと垂れ下がる龍の尾。
朝焼けじみた金色の瞳。
酸化し黒くなり始めた血液。
こんな時に不謹慎だが、ゾッとするような神々しさを醸し出していた。
少女の薄い唇が、震える。
「しろう…に………なら、ころされても、いい……」
少女は、たしかにそう口にした。
息を呑む。龍ゆえの霊知か、それとも。
「なぜ」
「しろう、は、わたしの、かしゃく……」
少女が薄く微笑んだように見えたのは、流石に見間違いだろう。
(呵責?)
職業柄人生の大半が暴力に埋めつくされているのだ。他人に対して恨まれる覚えは沢山あるが、特定の個人として攻め倦む対象と捉えられるのは初めてだった。
司狼には思い当たる節など、なにも無い。
そもそも、こんな年端もいかない少女の知り合いはひとりもいない。昔に陥落した神領出身なのだろうか。
少女は空を掴みたいとでも言うように、真っすぐ手を伸ばした。
「てんぐり、へ……」
「天空」
司狼は唇の中でその言葉を反芻する。
懐かしい響き。十年以上は口に出していない言葉。
それだけで確信した。
この少女は元々龍神信仰の中にいる人間ではない。テングリという単語は、斎龍経には一文字たりとも出てこない。
(俺と同じ、北方小民族の……)
血色の感じられない少女の手を取った。
ひどく冷たい、その指先を。
指先を自分の頬に当てて、体温を確かめる。
少女の体に血潮が脈動するのを、頬を通じて感じ取った。
理由はそれだけで十分だった。
それから先は正直、あまり覚えていない。
迷宮のようなこの城を、混乱が充満した戦場を、少女を抱えて司狼は駆けた。
一心不乱に。
この娘を腕に抱くこと、それはあの日の自分を救うのと同義だった。神とか反乱とか民とか、そんなものは元々どうでもいい。ただ、無機質な鉱床に変わりゆく故郷を茫然と見つめる少年を救うために。
神の住まう場所を壊した者から、救うために。
(この娘は、俺の呵責)
司狼はこの時より、虎穴党から離反した。