第二話:国王の孤独と国の危機
玉座に座るアルフレッド・フォン・グレイシアは、その重厚な椅子がまるで鉛でできているかのように感じていた。
王位を継いでから、もう数年が経つ。
かつて王太子だった頃は、この国の未来を一身に背負うことに、若さと野心に満ちた誇りを感じていた。
だが、今、彼が感じているのは、重圧と、そして言いようのない孤独感だけだった。
その孤独は、広大な執務室を支配し、豪華な調度品さえも虚ろなものに見せていた。
彼の視線の先にあるのは、見慣れた王都の活気に満ちた景色ではない。
窓の外に広がるのは、枯れ果てた畑と、不穏な空を覆う黒い雲。
かつて豊かに実っていた穀物畑は、今やひび割れた大地を晒している。
遠くの山脈からは、時折、封印されていたはずの魔物の咆哮が聞こえてくる。
その声は、彼の耳に、まるで自分を責めるかのように響いた。
「陛下、今月も各地から凶作の報告が相次いでおります。
南部の村々では、既に食糧が底を突きかけており、このままでは冬を越せないかと……」
「北の国境では、魔物が出現し、村が一つ壊滅したとのことです。
騎士団の派遣を急がねばなりませんが、他の地方でも魔物の目撃情報が多発しており、手が回りません」
次々と届けられる報告は、どれも絶望的なものばかりだった。
アルフレッドはただ静かに耳を傾けることしかできなかった。
かつて、彼が王太子だった頃には、このような災厄は起きなかった。
いや、正確には、起きてはいたのだろう。
しかし、それはいつも、誰かによって未然に防がれていた。
「リリアーナが、国のために尽力している」
そう言って、彼女の功績を誇らしげに語っていたのは、他ならぬ自分自身だったはずだ。
だが、その功績を、彼はいつしか当然のことだと思い込み、感謝することを忘れていた。
そして、彼女を追放した。
彼女の存在が、この国の安寧そのものだったと、彼が気づいたのは、全てを失ってからだった。
「リリアーナは、なぜこの国のために、あれほどの尽力を続けたのか……」
アルフレッドは、机の上に置かれた、分厚い古びた書物を見つめた。
それは、リリアーナが王宮を去るまでにつけていた、魔物の生態や魔法技術に関する研究記録だった。
革の表紙は年季が入っており、彼女の指の跡がいくつも残っている。
追放が決まった時、リリアーナは何も言わずに、この記録を彼に託していった。
「もし、万が一のことがあれば、お役立てください」
そう言って、悲しげに微笑んだ彼女の顔が、今でも鮮明に蘇る。
その瞳に映っていたのは、もはや彼への愛情ではなく、ただただ、この国への深い憂いだった。
あの時、彼は彼女の言葉の意味を理解しようとしなかった。
ただ、彼女が去っていくことに、安堵しただけだった。
「ようやく、エリーズと自由に……」
そう、愚かにも、彼はそう思っていたのだ。
エリーズと共に、彼女を排除した「勝利」に酔いしれていた。
書物には、彼女の誠実さが詰まっていた。
「氷の魔物は、熱に弱い。この魔法陣を使えば、熱の力を増幅させ、効率的に討伐できるだろう」
「この地方の不作は、土地の魔力が枯渇していることが原因だ。
地脈に魔力を供給する魔法具を設置すれば、作物は再び実るはず」
一つ一つの記述は、緻密で、情熱に満ちていた。
そして、そのどれもが、この国の危機を救うためのヒントだった。
アルフレッドは、これらの記録を読み解くうちに、一つの事実に気づく。
「彼女は……私たちが彼女を追放した後も、この国のことを案じていたのか」
書物の最後のページには、彼女の筆跡で、こう書かれていた。
「この国が、どうか平和でありますように。
王太子殿下と、エリーズ様が、どうか幸せでありますように」
憎しみも、怒りも、そこには微塵もなかった。
ただ、故郷を愛し、愛する人々の幸福を願う、純粋な祈りだけがあった。
その文章を読んだ瞬間、アルフレッドの心に、激しい痛みが走った。
自分の愚かさが、彼女の深い愛情を、無残に踏みにじってしまったのだ。
「国王陛下!」
突然、執務室の扉が勢いよく開かれ、一人の騎士が駆け込んできた。
「緊急事態です! 王都の南で、大規模な魔物の群れが出現したと!」
「なっ……」
アルフレッドは、椅子から立ち上がった。
「なぜだ! 国境の封印は、まだ保たれているはずでは……」
「それが、どうやら封印が、何者かによって破られたらしく……。
魔物の数は、過去に例を見ないほどで、このままでは王都にまで及ぶ可能性が……」
騎士の言葉に、アルフレッドは青ざめた。
封印。
それは、リリアーナが、自身の生命力を削って維持していたものだ。
彼女がいなくなってから、その封印は徐々に弱まっていた。
だが、まさか、破られるほどに弱くなっていたとは。
「彼女が、どれほどの重荷を背負っていたのか……」
この時、初めてアルフレッドは、リリアーナがどれほどの苦労をしていたのかを理解した。
そして、その苦労を、自分たちが無意識のうちに踏みにじっていたのだ。
アルフレッドは、決意を固めた。
「騎士団長を呼べ。そして、魔法研究会の者たちを、ここに集めろ。
リリアーナが残した記録を、今すぐ解析させる」
彼は、もはや自分の過ちを後悔している暇はなかった。
この国の危機を救うこと、それが、今の自分にできる唯一の償いだと信じた。
だが、その心の中には、深い後悔と、そして、リリアーナがなぜ自分たちに報復しなかったのか、その真意を知りたいという、切なる思いが渦巻いていた。
リリアーナの偉大さに触れるたびに、国王としての孤独と、個人的な償いを果たさなければならないという重圧が、彼の肩にずしりと重くのしかかる。
アルフレッドは、再び、一人、玉座に座り、ただ静かに、国の未来と、そして彼女の面影を思い浮かべるのだった。