第一話:没落と真実の始まり
冷たい石畳に打ち付けられる雨粒の音は、かつて侯爵令嬢として生きていたエリーズ・フォン・アウグストの心を、容赦なく過去へと引き戻した。
豪奢なシルクのドレスを纏い、父の広大な屋敷で上質な茶葉で淹れた紅茶を嗜んでいた日々は、今や遠い幻のようだ。
当時の華やかな生活は、この薄暗い木造の家とは、まるで違う世界だった。
今、彼女が身につけているのは、擦り切れた麻の粗末な服。
手には、かつて宝石を散りばめた指輪が輝いていたはずの場所に、幾つものマメができている。
彼女が暮らすのは、王都から遥か彼方、貧しく忘れ去られたような村だった。
暖炉の火に、湿った薪をくべる。煙が目に沁みる。
燃え盛る炎が、彼女の顔を赤く照らし出す。
その炎の向こうに、まぶたの裏に蘇るのは――華やかだった日々ではなく、あの冷たい追放の場面だった。
王都の広場。追放刑が言い渡されたあの日。
「リリアーナ・フォン・グレイシアは、王宮の財宝を盗んだ罪により、王都からの追放を命じる」
騎士団長の声が響き渡る中、白い髪の少女はただ静かに、処刑台のような台の上に立っていた。
彼女の顔は蒼白で、その瞳はひどく虚ろだった。
その隣には、元婚約者のアルフレッド。
そして、彼の腕に優雅に寄り添い、勝利に酔いしれていた自分。
「まあ、リリアーナ様。その服、孤児のようですね」
「もう少し、お立場をわきまえたらどうですの? 私たちの隣に立つ資格があるとは思えませんわ」
かつて、パーティーでわざと彼女のドレスにワインをこぼしたこと。
人々の前で、彼女の無口な性格を嘲笑ったこと。
些細なことではあったが、その一つ一つが、彼女を虐げるための娯楽だった。
あの時のリリアーナの瞳には、悲しみと、そしてほんの少しの諦めのような光が宿っていた。
その横で、アルフレッドはただ苦笑を浮かべるだけで、決して彼女を庇うことはなかった。
なぜ、そんなにも彼女を虐げたのか。今となっては、自分でもよくわからない。
ただ、彼女が持つ「聖女」の称号が、自分にはない特別な光に思えて、それを妬ましく思ったのかもしれない。
彼女が持つ、天賦の魔法の才能が、自分には決して届かないものだったからかもしれない。
あるいは、単純に――若く、地位に驕り、人の心の痛みを知らなかった、ただの愚か者だったのだ。
しかし、そんな日々は、あの事件を境に一変した。
「リリアーナが、王宮の財宝を盗んだだと?」
「ええ、聞いたわ。まったく、あんなにおとなしそうな顔をして、まさか裏で泥棒をしていたなんてね」
王宮中に広まった、根も葉もない噂。
エリーズは、それが自分たちの仕組んだ偽りの証拠に基づくものだと知っていた。
だが、彼女はそれを訂正しなかった。
むしろ、その噂に便乗し、アルフレッドに囁いた。
「彼女を追放すべきです」
「彼女の罪は、国への裏切りです。王太子の婚約者として、毅然とした態度を示してください。
さもなければ、国民はあなたを信じられなくなりますわ」
アルフレッドはわずかに迷う様子を見せたが、結局は彼女の提案を受け入れた。
そして、リリアーナは無実の罪人として王都から追放された。
リリアーナが去った後も、エリーズの栄華は続いた。
アルフレッドとの結婚式の日取りも決まり、彼女は次の王妃となる運命を確信していた。
しかし、その時――
「エリーズ嬢、ご実家が不正取引の疑いで……」
父が不正を働いていたという事実が発覚した。
それは、彼女がリリアーナを追放するために仕組んだ、偽りの証拠であった。
父は逮捕され、アウグスト家は没落。
エリーズは全ての財産と地位を失い、この村へと送られることになった。
「自業自得だ」
王都を去る際、アルフレッドは冷ややかにそう言い放った。
その言葉が、今でも彼女の耳から離れない。
彼は、彼女を追放した時と同じ、冷たい瞳をしていた。
暖炉の火が静かに燃える中、エリーズは冷たい床に座り込む。
この村に来てから数年。彼女は読み書きを教えることで、わずかな日銭を稼いでいた。
村の子供たちは、彼女を先生と呼び、慕ってくれる。
それが、唯一の心の救いだった。
貴族としての知識が、こんな形で役立つとは、過去の彼女には想像もできなかっただろう。
村での生活は過酷だった。日々の食事にも事欠き、冬の寒さは骨身に染みた。
だが、村人たちは皆、助け合いながら生きていた。
分け与えるものが少なくても、笑顔だけは絶やさなかった。
彼女は、かつて見下していた平民たちの温かさに、少しずつ触れていった。
その日も、夕食を終えた子供たちが、暖炉のそばで楽しそうに話している。
「ねえねえ、知ってる? この村の川が溢れそうになった時、聖女様が助けてくれたんだって」
「うん、知ってる! 聖女様が魔法で川の流れを変えてくれたんだって!」
子供たちの声に、エリーズは一瞬、耳を疑った。
聖女様。それは、王宮にいた頃、リリアーナのことを指す言葉だった。
「その聖女様って、どんな人だったの?」
エリーズは、思わず声をかけていた。
子供たちは、きょとんとした顔で彼女を見つめる。
「とっても綺麗な人で、白い髪をしてて……」
「お父さんが言ってた! 聖女様が、僕らの村を救ってくれたって!」
子供たちの言葉が、エリーズの胸を締め付ける。
白い髪。それは、リリアーナの最も特徴的な外見だった。
まさか、そんなはずはない。彼女は追放されたはずだ。この村から、遠く離れた場所へ。
その翌日、エリーズは村の長老を訪ねた。
「長老様、昨日の子供たちの話ですが……」
エリーズが切り出すと、長老は静かに頷いた。
「ああ、リリアーナ様のことを言っていたのだろう。彼女は、王都を追放された後、この村に身を寄せていたんだ」
長老の言葉に、エリーズの心臓が激しく脈打つ。
「ああ。リリアーナ様は、村人たちの命を守るために、自らの力を使い続けた。
彼女がこの村に来てから、不作は一度もなくなり、病に倒れる者もいなくなった。そのおかげで、この村は今、平和に暮らしているのだ」
長老は、遠い目をして語る。
「しかし、ある日、彼女は静かに村を去ってしまった。王都で、彼女を追う者がいると知ったから、とだけ言い残してな。
彼女は、自分を追う者たちから、私たちを守るために、自ら去っていったのだ」
長老の言葉の断片が、エリーズの脳裏で一つの絵となって完成していく。
追放されたはずのリリアーナは、罪を償うどころか、自らを追放した国のために、静かに尽くし続けていた。
そして、彼女を追放した元凶である自分たちを、決して恨むこともなく、ただひたすらに、人々のためにその力を使っていたのだ。
エリーズは、全身から力が抜けるのを感じた。
自分が虐げ、追放した少女こそが、この村を救った聖女だった。
そして、その聖女を追放した自分自身が、今、その聖女に救われた村で、日銭を稼いでいる。
なんという皮肉。なんという滑稽さ。
エリーズは、自分が犯した罪の重さを、初めて心の底から理解した。
彼女の胸を突き刺すのは、後悔の念だけではなかった。
それは、自らの愚かさに対する、言いようのない嫌悪感だった。
自分は、ただの傲慢な娘だった。彼女の光を妬み、彼女の幸福を奪った。
その結果、自分自身も全てを失った。
その夜、エリーズは一睡もできなかった。
枕元に置かれた、故郷の貴族たちが愛用していたであろう、上等な装飾が施された小さな鏡。
鏡に映る自分の顔は、かつての美しさを失い、憔悴しきっていた。
鏡の中の女は、過去の輝きを全て失い、ただの平民と変わらない。
「私が、彼女にしたことは……」
鏡の中の自分に、問いかける。
リリアーナは、自分を恨んでいないだろうか。自分を憎んでいないだろうか。
その答えは、彼女自身の中にはない。
ただ、一つだけ確かなことは、自分は決して許されるべき人間ではない、ということだった。
自分は、この村で得たささやかな平穏を享受する資格などない。
翌朝、エリーズは決意を固めた。
「先生、どこかへ行っちゃうの?」
出発の準備をする彼女に、子供たちが不安げに尋ねる。
「ええ、少しね。やらなければならないことがあるの」
エリーズは子供たちに微笑みかけ、小さな荷物を背負った。
彼女の行く先は、決まっていなかった。
どこに行けばいいのかも、何から始めればいいのかも、わからなかった。
ただ、このまま、リリアーナが救った村で、何食わぬ顔で生きていくことはできない。
この胸に宿った深い後悔と、贖罪への衝動が、彼女の足を動かした。
償罪の旅へ。
それは、誰かに許しを乞うための旅ではない。
自分の罪を、自分自身で受け止め、償っていくための、孤独な旅路だった。
冷たい風が吹き荒れる中、エリーズは、振り返ることなく村を後にした。
その先にあるのは、希望か、それとも絶望か。
彼女はまだ、何も知らない。