たった一歩、届かない
ゼルは町を離れようとしていた。
誰にも何も告げずに。
けれどその背中を、リオナはついに見送らなかった。
「待って。行かないで」
店の裏、朝霧の中で。
ゼルが振り向いたとき、リオナは心臓の音が自分にも聞こえてしまう気がした。
「わたし……また何も言わないで、あなたを見送るのが怖かった。
強くもないし、賢くもないし、役に立つことなんて、たぶんそんなにない。
でも――あなたが、好き。
ゼルじゃなきゃ、嫌なの」
ゼルは目を見開いたまま、少しだけ笑った。
「言ってくれるまで、どれだけ待ったと思ってんだよ……」
ゆっくりと歩み寄ってくる。
この距離がもどかしくて、泣きたくなるほど、愛おしかった。
「俺も、お前が好きだよ。だから離れたかった。
このままじゃ、ぜんぶ欲張っちまいそうだったから」
手と手が触れ合い、顔が近づく。
息を呑む距離。唇が触れそうになった、その瞬間――
「リオナさーん! ゼルさーん!大変です!裏山で、怪我人が!」
二人は凍ったように動きを止めた。
目を見合わせ、同時にため息をついた。
ゼルがわざとらしく空を仰いだ。
「……神様ってやつは、本当に、空気読まねぇな」
リオナは吹き出しそうになって、でもこらえた。
「あとで続きを聞くから」
「逃げんなよ?」
「あなたこそ」
二人は顔を赤くしたまま、急ぎ足で裏山へ向かった。
気持ちは届いた。けれど“あの一瞬”は、まだお預け。
けれどそれがかえって、心の火を強くした。