プロローグ ー三十五歳年末ー
バー斎藤は、四条室町を過ぎた路地奥にある。雑居ビルのワンフロアー全体が店で、カウンター八名、テーブルが一席。大きくも小さくもない無機質な内装のバーだ。エレベーターをあがると、すぐマスターが出迎えてくれる。
マスターはアラフォーで、オールバックが似合うシュッとした細身の男性だ。ノンケだが柔らかな女性言葉で接客をしている。最近は店が落ち着くと、健康を気遣い、酒ではなくブラックコーヒーを片手になじみの客と談笑するようになった。
「もう客来ませんかね」
「そりゃ、そうよ。九時過ぎにはエレベーター停止させていたし」
店は十八時半から開店していて、俺は十九時半頃到着した。そのときはダンディ京本さんが楽しくやっていたが、二十時には『今日は娘が帰ってくるから』と足取り軽く帰っていった。それから二時間半、マスターとの独断場になっている。
窓の外は薄暗く、年末の夜空が見える。この界隈はこの辺のサラリーマンに有名な飲み屋街で、いつもなら向かいの豚串店の電飾で空が赤々としているのに、もう年末年始の休みに入ってしまっているようだ。
カチャ。
ライターの着火音が背中側でして、マスターが自分のタバコに火をつけているのがわかった。俺は窓の外を見るのをやめ、自分のタバコを手元に引き寄せる。
「はぁあ。今年も無事に終わって、ほんとよかったわね」
「そうですね。なんだかんだあっという間ですよね」
「だってほら、十九歳までの時間と、そこから八十歳までの時間、体感にしたらおんなじくらいって言うし。ほんと、年々、一年が早くなるよねぇ」
「ジジくさいです、その発言」
暖房の送風で揺らめくライターの炎を見て、俺は手でガードしながらタバコに火をつけた。
「あぁら。そういうあんたもジジィじゃない。僕とそんな年違わないし」
「まあ、そうっすね。あと五年で四十やしなぁ。介護保険、払わなあかんくなる」
「さすが、会計士ね。そんな社会保険の話しなんか持ち出しちゃって」
「いやいや。どちらかといえば社労士…」
そう。俺の職業は会計士だ。いわゆる士業だし、ハイスペックだってもっとチヤホヤされてもいいように思うが、監査法人に入所して六年弱、このアドバンテージでモテたことはない。まあ俺は、どんくさくて根暗な奴だし、このステータスがなければ冴えない中年…、もとい。マスター曰く「普通にしていれば、女は寄ってくるように見える」らしいから、謙虚さと卑屈さをはき違えている可能性はある。
「昔は挑戦とか冒険とかしたいって思っていた時期もあったけど、安寧が一番。来年も平和な年でありますように」
マスターの吐いたタバコの煙が、一定のリズムを保ってゆらゆらと立ち上がっては消えていく。その煙と並んで、俺が吐いたタバコの煙も一定のリズムで立ち上がっては消えていった。
「そうですね、来年もよい年になればいいなぁ」
「実家帰るの?年末年始」
「はい、明日帰ります。盆と正月くらいは親に顔見せないと」
「そうねぇ。あらグラス空いている。もう一杯どう?」
「じゃあ」
汗をかいたグラスが引かれ、冷凍庫から大きな氷の塊が出てきた。
「そういえばさぁ、この前ケガしていたけど。あれ大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ、覚えてたんですね」
「そりゃ。あんなとこ、包帯ぐるぐる巻いてたら、びっくりしちゃうじゃない」
「まあ…」
「何があったのよぉ。尋常じゃないわよ」
「まあ…いろいろあって。ここで言うほどのことでも」
俺は灰皿でタバコの火を消しながら答えた。
「ええ。けち。面白い話聞けそうだなっと思ったのになぁ。ほら今二人しかいないし、ね?」
氷を砕く子気味の良い音が店に響いて、ジャジィなBGMの良いアクセントになっている。
カウンターの壁越しに、等間隔で並べられた酒瓶たち。マスターはそのコレクションから、マッカランの十二年を取り出した。
「シェリーオークはあんたにはまだ早いから、やっぱりこれね。オーソドックスだけど、おいしいのよ。フルーティで飲みやすいのだけど、たまにスパイシーなアクセントがあって」
すっと伸びた指先から、ゴールデンオークの液体が入ったグラスが差し出された。そこに浮かぶ、美しい新円を描く氷。グラスを傾けると、氷がぶつかって音を立てながら水になり、ゆっくりシェリーゴールドに交わっていく。
「墓場行きですよ、この話。俺の話は終わり。最近彼女とどうなんですか?」
マスターはフッと笑った。
「そんな言い方されたら、ますます気になるじゃない」