第1章 殺戮同居 - 2
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エレベーターが止まって降りた。明宏が住んでいる家は廊下の端から四番目。玄関に寄って頭を上げて門の隙間を見上げた。朝掛けておいた釣り糸がその位置にそのままあるのが見えた。誰かが勝手に家に入ったなら門の隙間に掛けて置いた釣り糸が落ちているはずだ。問題がないことを確認して鍵を開けて入った。
15坪程の部屋には台所とバスルームがあった。パソコン、机、テレビ、ベッドなど。生活に必要な物はほとんど揃っていた。もちろん全部盗んだ金で取りそろえたものだが……。
濡れた制服と下着を脱いだ。なかなか鍛えられた頑丈な体つきだ。湯船に湯をためて湯に浸かった。白い湯気が立ち込めた。路地に倒れていた少女が思い浮かんだ。あいつが会社員を殺したんだ。後ろから近寄って一気に刃物で首に切りつけたのだ。会社員はたぶん自分が死ぬとわかる前に息絶えたはずだ。
明宏がニタっと笑って、あたかも刃物を握ったような仕草をした。そして自分の左の首に当てた。切りつける真似をしてみる。刃を向ける直前の気分と切りつけた時の苦痛をリアルに連想した。まじに自分の首を切りつけたような気分で心臓がドキドキして顔が青くなった。あの会社員もこんな風に苦しんで死んだのか?首から噴き出す血が全身に滴り、目に見えない存在に力ずくで命を奪われるように倒れたのだろう。
明宏は幼い頃から死に敬意を表していた。30年余り生きてきた会社員の首にできた浅い切り傷一つでほんの数秒で死んでしまった。人は生きる事よりも死にもっと近い存在だ。こうして会社員は自分が生きてきた30年の歳月より、もっともっと長い歳月を死んだ状態で過ごすのだ。
だとしたらどちらが真の現実なのか?
生きている時?死んだ後?
より長い時間を過ごす方が現実ならば、真の現実は死ねば得られることになる。湯船から出て、水滴で覆われた鏡の前に立った。
いま自分は生きているのだ。しかし首を刃物で切れば一発で死ぬことになる。刃物で切らなくても方法はいろいろある。明宏は両手で自分の首を絞めた。息が途切れて体の力が抜けた。唇が冷たくなるのを舌で舐めて感じた。確かに苦しんで死んでいくのに鏡の中の自分はなぜ笑っているのか?どうでもいいさ。このまま数分したら死ぬのだ。そうしたら真の現実を得ることができるのだ。死ねばそこが現実なのだから。遠ざかる視野が狭くなっていき体がよろめいた。
― 人を殺してはダメ! ―
脳裏に深く刻まれた女の声に明宏が目を開いた。その声は幼い時からずっと自分を妨げてきた。必ず決定的な瞬間に現れては自動ロックのように明宏をとどまらせた。
しばらく静けさが流れたその時、
ピンポーン〜
部屋に響くベルの音に明宏は絞めていた手を離した。深呼吸して口元からだらだら流れる唾を拭いて咳込んだ。
ピンポーン〜
浴室から出てインターホンに向かった。受話器を持って玄関に設置したインターホンの画面を見た。インターホンには何も見えず廊下しか見えなかった。
「誰?」
つっけんどんに聞いた。その時画面の下から突然飛び出した不気味な目が画面全体を埋めた。さっきまで雨の中にいたようで目の周辺は水気で濡れていた。明宏は首を半分ぐらい傾けて瞬きもせず見た。
「あの……おじさん……」
感情がこもっていない女の子の声が聞こえた。
「助けて。悪いおじさんが追いかけてくるの」
助けてという割には緊張感が感じられなかった。明宏は緊張をほぐさず薄目を開けた。
「ここは4階なのに……?」
怖いおじさんに追われているのにどうやって4階まで上ってこようと思ったのか?まっすぐ見ていた瞳が画面から消えた。
ピンポーン〜
明宏は受話器を置いて玄関に向かった。ドアのノブを握ってしばらく待った。
〈1秒、2秒、3秒、4秒……〉
頭の中で正確に秒を数えた。10分が過ぎてもベルの音もノックする音も聞こえてこなかった。明宏が外を確認するまで待っているようだった。普通の人なら絶対しない手口に明宏の口元が若干上がった。