プロローグ - 2
とその時、木の扉の向こうから足音が聞こえた。誘拐犯が戻ってきたとわかって、残っていた脱出の希望も根こそぎもぎ抜かれた。扉が開いた。開いた扉越しに雷が聞こえた。また静寂が押し寄せてきた。足音が近寄ってきた。だがさっきの誘拐犯とは感じが違った。聴覚が敏感になっている男にはわかった。さっき聞いた足音とは違う、この足音は床の響きにもっと重みがある。
「何してたんだ?」
耳のすぐ横から聞こえた声に男はびっくりした。聞こえた声は誘拐犯の声ではなかった。変声期になったばかりの男の声だった。やっとの思いで理性を取り戻して「助かった」という思いでうめき声を絞り出した。
だが何の反応も返ってこない。幾度か唸り声を出しても相手は無反応だ。何かがおかしいとやっとわかった。何故こんな所に自分より幼い男が現れたのか?こんな状況なのに何の反応もないのが理解できなかった。
「もっと続けるか?」
やっと戻ってきた返事に男の体中に衝撃が走った。今ここに入ってきた奴は自分を助けるつもりはないのだ。ガタっという音が低く響いた。何かを探る音の方に首を傾げた。
「10万円……てっきり金持ちんちのお嬢だと思ったががっかりだ」
何の話かさっぱり分からない男は、一抹の希望を込めてずっと呻き声を漏らしていた。
「うるせーな」
奴は近寄ると男の猿轡を外した。口が自由になった男が荒い息を吐いた。
「そっちも気の毒だが、俺の事情もこんなもんだ。ここに金目のものはないのか?」
「た、助けてくれ……」
もう一言いう前に又猿轡で口を塞がれた。
「全くわかってないな」
こんな状況を見ても何ともないのだろうか?男が狂ったように床に頭を打ち付けた。
数分間家の中を探り回る音が聞こえた。男は幾度もうめいて哀願したが相手は聞こうともしなかった。力尽きた男はとうとう泣きながら頭をうなだれた。すると男が突然猿轡を外した。
「助けてくれ、助けてくれよ!」
また猿轡をされる前にすかさず叫んだ。
「それしかいう事ないのか?」
「ふざけるな!誘拐されたんだぞ、美代が殺されたんだ、だから殺さないでくれよ」
「この女か?こりゃひでえな~」
奴はあたかもたった今、女の死体を見たようにすまして言った。
「俺は関係ないさ、ほかに聞くことはないのか?死ぬ前に言い残したい遺言とかさ」
「うるさい!ここがどこかわからないのに死ねっていうのか?」
男が唇を噛んだ。
「ここがどこかわからないって?ここはあの女の山荘だ」
「なんだって、美代んちの別荘?」
「数日間この女を尾行してこの山荘があるのがわかったんだ……まさかここで死ぬとはな」
「そんな馬鹿な…俺と美代は確か公園にいたんだ……」
男は信じられなかった。お台場公園から美代んちの山荘は数十キロも離れているはずだ……。どうやって誘拐したのか?男は誘拐犯を知っている。自分の膝枕で寝ていた奴の声をしっかり覚えていた。どう考えてもありえないことだ、あんな奴に誘拐されたなんて信じられない。そんな複雑な思いにふけっていると、奴はまた男の口に猿轡をした。
「質問に答えてやったからもう心残りはないだろう?」
〈このクソ野郎!〉
「多分お台場公園で誘拐されたんだろ?」
〈そ、それをどうして……〉
「どうしてわかったかって?お台場公園の横には物流センターがある。警察にばれないようにトラックに乗って来たんだ。何時間も荷台で揺られて背中がガチガチなのに手に入れたのはこれっぽっちか……まったくな」
男は泥棒の話を聞いてふと思い出した。お台場公園の横には全国に配送する物流センターがある。そして美代んちの山荘付近には宅配運送会社があった。
〈じゃあ業者と倉庫を行き来するトラックに乗ってここまできたのか?〉
男は泥棒がどうやってここまできたか分かった。
「へえ〜、こいつめちゃ用意周到だな」
泥棒が何かを見つけて興味深く反応した。
「この机に遺書がある。内容は……僕が彼女の財産目当てに彼女を殺した。ところが罪悪感に襲われてこの遺書を書いて自殺したという風に書いてある」
つじつまが合わない遺書の内容に男は呆然とした。
「用意周到というのは取り消しだ。正気なのか?こんな嘘だらけの遺書を警察が信じるわけないだろ」
瞬間、男の脳裏に誘拐犯が言った言葉がよぎった。
― 暇だったからだよ ―
奴にはこの起きたすべての事がつまらさなを紛らわすただの遊びに過ぎなかった。
男がぶるぶる震えるのをみた泥棒は無表情に笑った。
「ともかくこれは面白い発見だ。この遺書は俺がもっていくぞ」