9 目覚めないエル
続きです。
宜しくお願い致します。
エルが納屋に隔離されてから何日が経ったろうか。ヴァルロッティー家からはほとんど笑い声が聞こえなくなり、家の中の空気も少し重たく淀んで感じられる。そんな空気が領民達にも伝播したのかは解らないが、領民達の表情も硬くどこか喪中の雰囲気の様に感じられる。
そんな家内や領内の空気に耐えかねたかの様に、エルの父グラードと長男ドルベルグと次男エリクセンは今までより更に仕事に打ち込んだ。森に分け入ると黙々と木々を倒し根や岩をを掘り起こし、徐々に更地を広げてゆく。領民達からも明るさが消え、グラード達に倣い黙々と開墾作業を続ける。
(エル坊っちゃんが未だ死んだ訳でも無いのに皆元気を無くしちまって、かと言ってオレ(私)も見守る事しか出来ないから同じか…)
そんな沈んだ雰囲気のヴァルロッティー領内を、一人黙々と歩く人物が居る。領主の館へと向かうフィスカ婆さんである。エルが納屋へと隔離されてからも一日に一度領主の館へと赴き、エルを診察しているので有る。エリーナとジゼル、そしてフィスカ婆さんの頼みをグラードが聞き入れる形で、今まで通りエルを診察する事を許されたので有る。
「お邪魔しますよ」
そう言ってフィスカ婆さんはエルが寝かされた納屋へと入って行った。納屋の木窓の横に置かれたベッドの上にエルが寝かされている。数日に一度シーツを、取り替えて居るので不潔さは無い。天気の良い日には木窓を開け放つので、適度に陽に当たる事も出来る。
しかし、不思議だ。フィスカにはそうとしか表現のしようが無い。エルが倒れて三十日以上が経過しているのにも関わらず、エルの外見に全く変化が無いのだ。唯一有るとすればそれは顔色が良くなった事ぐらいだろうか。艶の有る柔らかい銀髪、長い睫毛に柔らかい頬っぺた、そして桜色の口唇。ゆっくりと上下する胸元に落ち着いた呼吸、どう見ても寝ているようにしか見えないのだ。
時折喉が渇くのか口をパクパクとする時が有るが、その時に水を含ませた布を吸わせるとゆっくりと吸っているし、口に水滴を垂らすとそれを飲み込むのだ。
気温が少し高い時には額に汗をうっすらとかく事も有るし、スースーと寝息を発てる事も有る。寝たふりではと思い、ジゼルが脇や足の裏をくすぐった事も有った。しかし、反応は有るものの、決して目覚めることは無かった。
そしてもう一つ決定的に可笑しな点が一つ有った。それはエルの家族には伝えていないし、エルの家族も気付いていないのかもしくはそこまで考えが至っていないのかは解らないのだが、エルは排泄を一切していないのだ。
普通寝たきりになってしまったとしても、生きるためには口から栄養を摂らなければいけない。栄養を摂ると言う事は、身体に吸収されなかった残りを出さなければならないのだが…エルは排泄を一度もしていないので有る。
口から入れた物を全て身体が吸収しているかの様に…それは有り得ないし、有る筈が無いのだが…フィスカの目の前にはあり得ない存在が横たわって居るのだ。
「エル坊っちゃんはどうなっちまったのかね。こんな事誰にも言えないし言ったって誰も信じやしない…早く婆に元気な笑顔を見せて下さいませ…」
一通り診察と言う名の観察を終えたフィスカ婆さんは、エルの元を後にした。
「奥様、お邪魔しております」
納屋から出たところでエリーナがこちらに向かって来ているのが見えた。
「フィスカさんお疲れ様です。何時もありがとうございます」
二十代後半で辺境一帯でも一二を争うほど美しかった筈の外見は、心労からか疲れ窶れ一気に十歳近く老けたかの様に見えた。髪の毛にも艶が無く肌の張りも無くなってしまっていた。しかし見た目は窶れていても、立ち居振舞いには気丈さが見て取れた。
「いえ奥様、ありがとうございます。エル坊っちゃんの今日の診察は終わりました。何時もとお代わり無く寝ている様にしか見えません」
「…そうですか…あの…フィスカさん…」
しかしエリーナの気丈さもそれは繕えられた物。お腹を痛めて産んだ我が子が心配で不安なのだ。しかし、領主の妻で有るからには、その役をを演じなければならない。
「はい奥様、何でしょうか」
「エルは…エルは目覚め…いえ、何でも有りません、…ありがとうございました」
エリーナはフィスカ婆さんにお礼を告げると、足早にエルが眠る納屋へと向かって行った。
エリーナの心配や不安をフィスカも経験した事が有るし、多くの母親が通る道だ。医療技術がそれ程発展していないし、栄養も十分に行き渡っていないのが辺境のど田舎なのだ。産まれてきた子供が全員成長する訳も無く、約半数は生後十年以内に死んでしまう。それが現実なのだが、それが偶々ここの領主家には当て填まらなかっただけなのだ。
このヴァルロッティー領内でも子供の生存率は低いし、近隣の他領でも同じだ。更には近隣領主家でも三、四人に一人は生後十年以内に死んでしまうのが現実だった。その為にどの家も多産になるし、運良く子供達が成長すると今度は家を継ぐ子供以外は、口減らしの為に他所に出してしまう。
今まで運が良かったと言えばそれまでだが、これが現実なのだと受け入れる他無いのが実情なのだが…村人全員に可愛がられていたエルを喪う事はフィスカにも少なからず衝撃で有ったし、自分では手の施しようも無い事も知っていた。だがら毎日エルを診察する事で、何かエルの目を醒ます為の糸口が無いかとの思いも有ったからなのだが…。
「母様ここに居たのね、エルの様子に変わりは?」
エリーナが何をする訳でも無くエルを見つめて居たら、ジゼルがやって来た。ジゼルも元気が無く、天真爛漫な笑顔は鳴りを潜めていた。
「ジゼル…エルに変わりは無いわ、いつもみたいに寝ているわ…」
エリーナは笑おうとしたが失敗して、引きつった笑みになってしまった。
「母様私が代わりますから、少し寝て下さい」
「ありがとうジゼル。でも私はエルと一緒に居たいからこのまま居させて…」
どちらもがエルを大切に思っている事には変わりは無い。違うとしたらお腹を痛めて産んだ母親としての愛情か、年上の姉弟としての愛情かの差だろうか。
「でも…母様もお疲れでしょう。少し休んだ方が…」
「ジゼル、貴女も疲れて見えるわよ。私は大丈夫だから貴女が少し休みなさい」
だがどちらも引かないし引く気も無い。二人のエルへの愛情はそれだけ大きな物なのだ。それにエルが倒れて既に1ヵ月以上が経過している。口にしたくは無いがもしエルが死ぬ様な事になるのなら、彼の最後の時には一緒に居たいと言う思いも有ったのだ。だから時間が有れば、少しでもエルと一緒に過ごす事にしていた。
「母様、姉様やっぱりここでしたか。夕食の準備が出来たので夕食にしませんか?」
エリーナとジゼルが静かにエルを見守って居ると、エルが寝かされている部屋の入り口からリスターが声をかけてきた。エリーナとジゼルが納屋に来てから随分時間が経ったのだろう、木窓から射し込む陽も傾き始めていた。
「エルは相変わらず寝ていますね…」
リスターはエルの寝顔を覗き込みながら呟いた。エルが倒れた時に一番近くに居たのは自分だった。しかしリスターはその時の記憶が曖昧になりぼやけてしまい、はっきりと思い出す事が出来ずに居た。その事を家族に報告はしたが、エリーナとジゼル以外には信じて貰えなかった。それはエルの数々の変わった行動が多かったので、それにリスターも感化されたのでは無いかと言われてしまう始末であった。
常識的に考えると確かに有る筈の無い事なのだが、思い出せない物は思い出せないのだ。
しかしその事を証明する手段も方法も、リスターは知らない。所詮は他の子より少し要領が良いだけの子供なのだ。今はただエルが目を醒ますのを祈るしか出来ないのだった。
「エルごめんね、母様と姉様を少し借りるね」
暗くなり明かりを灯す為の燃料代が勿体無いので、夕食は明るい内に摂る事が一般的だ。暗くなると早めに寝てしまい、明るくなると起き出して一日が始まる。それが田舎の一日なのだ。
それに食事は家族全員で摂る事が普通で、特に領主家であれば食事中に簡単な打ち合わせや食後に家族会議を行う事も有る。
「…解りました。ジゼル、夕食にしましょう」
「はい、母様」
エリーナは館で夕食を摂るためにジゼルとリスターを伴って、納屋の部屋を後にした。
(…夕食?…良いな…お腹空いたな…)
その時エルの口が微かに物を食べる時の様にパクパクと動いたのだが、その事には誰も気が付かなかった。
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