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刻印の継承者 その1  作者: 神野 碧
1/1

封印帝国



              刻印の継承者


     


―ティア、起きて―

耳元に囁きかける声が、浅い眠りを引き剥がす。

- 誰……-

不機嫌な思いでシーツにくるまって、寝返りを打つ。

「ティア!」

さらなる強い声が、意識を現実に引き戻す。

「母……さま?」

「すぐに起きて支度をして、早く」

時の頃は夜明け前、真夜中と言ってもいいくらいの時刻だ。

「早くって……こんな時間に何……」

意識の焦点が合わないために不機嫌さを隠せないティアだったが、

「急ぐんだ、ティア!」

「父……さま」

 切羽詰まった口調の父の声を聞くに至り、ティアは、ただならぬことが起きたのだと身構えていた。理由も聞かされぬまま家を出て、海辺の粗末な小屋に投宿させられた時からその予感はあった。周囲の大人たちの張り詰めた空気に、ここに至るまで理由を問うことができずにいたのだ。

 両親に有無を言わさぬ口調で命じられて、ティアは慌てて身支度を整える。緊迫した雰囲気に圧倒されて何一つ質することもできぬまま、ティアは小さな小屋から外に導かれていた。

「こちらです、早く」

小屋の外ではティアたち一家の世話役である男、ヴァレスが松明を掲げて待機していた。

ヴァレスに先導され、灌木をかき分けながらしばらく進むと、潮風とともに波の音が聞こえてくる。茂みを抜けると、闇を切り裂くような波濤の咆哮が直に耳を打つ。岩場の波打ち際では、小舟が、泡立つ波濤に打たれて頼りなげに揺れていた。足場の悪い岩場を下って、一行は小舟に乗り込む。岩場を離れて波をかき分けて進んで行く小舟の前方には、ティアが今までに見たこともない形状の、翼を持った大きな船が浮かんでいた。その異様な姿にティアは身を竦ませ、声も出せずに震えていた。

 一行が小舟から巨船に乗り込むと、操舵席から一人の男が現れ、皆に向かって敬礼の動作を示す。男の丁重な動作に一行は重々しく頷いていた。一人、ティアを除いて。

 居並ぶ大人たちを伏し目がちに見渡して、ティアは、

「何があったの、わたしをどこに連れていくの、教えて、何もわからないでどこかに連れて行かれるなんて嫌」

「後でゆっくり話してあげよう。今は時間がない。もう少し待っていてくれ」

ティアの父、ラウリが娘に凛として告げると、すかさず操舵席の中から男が、

「すぐに発進させます、ラウリ様」

「頼む」

操舵席に向かって合図を送り、さらにティアには、

「椅子に座って体を固定させるんだ、急いで」

何が起こっているのか知りたいという意志は無視され、ティアは半ば無理矢理椅子に押さえつけられて、備え付けのベルトで体を固定されていた。

 駆動装置の回転音が高まると、しばらく海面を滑走して、船はふわりと宙に浮かんでいた。宙に浮かんだ船はぐんぐんと高度を上げてゆく。宙を浮かぶ船、それはティアの常識を覆すものだった。恐怖にとらわれてティアは体を震わせ、

「いやああああ、降ろして!父さま、母さま、助けて、お願い!」

「落ち着いて、ティア。この船は安全に空を飛ぶことができるように造られている。危険なことは何もないからもう少し辛抱するんだ」

ティアと同じように座席に固定されたラウリが、駆動装置の大きな音にかき消されまいと大きな声でティアを励ます。

「私たちがついているからだいじょうぶよ、ティア。がんばって」

母の声が重なる。

 自分はどうすることもできぬと半ば諦め、ティアは恐怖に耐えていた。

 程なくすると船はぽっかりと雲の上に浮かび上がり、滑らかに宙を舞っていた。

「もういいだろう。すまない、ティア、恐い目に遭わせて」

ティアはきっと父を見据え、

「わたしをどこに連れて行くの? 教えて、父さま!」

娘の詰問に苦渋を浮かべながらもラウリは、

「私たちは外の大陸、キルギアに向かっている」

きっぱりと告げていた。

「外の……大陸……そんな!《壁》の向こうには誰も立ち入ることができないのでしょう。それに、外の大陸は蛮族が人狩りをしているような所だと聞いています。そんな場所になぜ?!」

「私たちは外の世界に交渉に行くんだ」

「交渉って……」

「私たちは、愚かな戦争を避けるための交渉をするためにキルギアに向かっている」

ラウリが居合わせた皆に均等に視線を送ると、その場に得も言われぬ緊張感が漂うのをティアは感じていた。

一拍置き、ラウリは娘に向かって、

「今言えるのはそれだけだ。すまない、ティア」

場の空気と共振するように、ティアの心臓は激しく脈打つ。

 と、激しい揺れが船を襲う。立っていられぬほどの揺れに、皆はバランスを失って床に転がっていた。

「くそっ、やはり整備不良か」

 そう叫ぶと、ラウリは激しい揺れによろめきながら操舵室に駆け込んでいた。

「いけるか?」

 ラウリの問いかけに、操舵士は蒼白な顔を向けて、

「だめです、出力が落ちている。これ以上の飛行は無理です」

 船は激しく揺れながら高度を下げて漆黒の海面に迫ってゆく。操舵士は真剣な形相で足元のペダルと脇のレバーを操作していた。胃の腑が浮くような降下の後、船はかろうじて水平を保ち、頼りなげではあったが宙を舞っていた。

「どうだ?」

ラウリの再度の問いに操舵士は、甲高い声で、

「無理です、海面に激突します!」

「そうか」

ラウリは短く応じ、備え付けの浮輪を掴んで操舵室を飛び出していた。

船室で、座席に固定されて怯えたように震えている娘に近づき、固定していたベルトを外して素早く浮輪を装着すると、引きずるようにして壁際の扉脇に移動させていた。壁のレバーを引くと扉が開き、波濤の飛沫を含んだ激しい風が吹き込んでくる。

「嫌、そんな、嫌、嫌、嫌ぁぁぁぁ!」

 父の意図を察したティアの絶叫が、風と波濤の轟きに重なる。ラウリは、迷うことなく娘の体を船外に向かって押していた。

 船に乗せられた理由を知らされぬまま、ティアは暗い海面に吸い込まれていた。身を打つ海水に喘ぎながら、理不尽な状況を呪うことしかできないティアだった。数分後に、父と母が残ったままの船が海面に激突して四散したことにも気づかぬくらいに。




「んー、いい気持ち。天気もいいし。来てよかったね、ライナ」

 先輩であるナディから声をかけられ、波打ち際で波と戯れていたライナは振り向いて、

「はい」

 と、無垢な笑みを返していた。

 緩やかに吹き抜けてゆく海風。空の青を背景に群れなす海鳥たち。束の間のバカンスを楽しむには絶好の日和だった。

「進級試験の成績、ナディさんがトップなんですね」

 後輩の言葉に、ナディは自慢げに胸を反らし、

「まあ、ね。あなたも、あたしのライバルになれるように頑張りなさい、ライナ」

「大丈夫です。ナディさんのライバルになれるのはわたしだけですから」

 後輩の悠然とした返しに、ナディは余裕の笑みで応じていた。

 二人はしばらく波打ち際を歩き、見つけた手頃な流木に腰を下ろすと、彼方にまで広がる水平線を見つめていた。澄みわたった碧空の下方、ナディとライナの視界の正面には巨大な雲の塊が、威圧するように碧空を分断している。それは、ナディたちの住まう大陸であるキルギアと、海を隔てた向こう側の大陸、ザグレスとを隔てている《壁》でもあった。

「あんなに近くにある《壁》を見るの、初めてです」

「そうよねえ。あんなに近くなら向こうの世界に行けそうな気もするわね」

 ナディの言に、ライナは顔を顰め

「まさか、向こうの世界に渡りたいだなんて考えてないですよね」

「そんなに怖い顔しないでよ、ライナ。そもそも、物理的に、何人たりとも結界を超えることは出来ない、結界を消滅させなくちゃ向こうの世界には渡れないんだから。安心しなさい、ライナ、そんなこと、考えてないから」

「その言葉、信じていいですよね。この前の、禁断の召喚魔法実践みたいなこと、しないですよね」

「それは絶対にありえない」

 思いの外強い口調にライナは肩をすぼめる。

「召喚魔法の一件ではいろいろ学んだから。禁を破ることはもうこりごり、それは

あなたも分かるでしょ」

「そう、でしたね、ごめんなさい。わたし、ナディさんを信じます」

 視線を正面の《壁》から外すと、ナディはライナに向かって緩く笑んでいた。

 しばらく見つめ合った後、二人は波打ち際に視線を移す。

 と。二人は強張った表情で再び視線を交わしていた。

「ナディ、さん」

「洒落にならないわね」

 二人の視線の先、波打ち際には、一人の少女がずぶ濡れの着衣を纏って不自然な態勢で横たわっていた。一見して、海から流されて浜に打ちあげられたのだと知れた。それだけなら遭難者として救助すればいいことだが、ナディとライナが深く戸惑っていたのは、少女の肢体にみられる際立った特徴だった。褐色の肌と、遠目にも鮮やかなブルーの頭髪。それは、《壁》の向こうに住まう民族、ザグレス人の特徴とされているものだ。

「どう、しよう……」

「人命救助優先!」

 うろたえるライナを叱責するように、ナディは少女のもとに駆け寄って屈み込み、手首を取って脈を確認していた。

「だいじょうぶみたいね」

 浅いながらも、脈と呼吸があることを確認すると、ナディは大きく息をついていた。

 ザグレス人の漂着は、《壁》がキルギアとザグレスを隔てる絶対的な結界としての機能を失ったことの左証であり、そのことは、ナディたちの住まう大陸であるキルギア全土を震撼させるに足る大問題なのだ。過去数千年にわたって双方の一切の物理的接触を断ってきた《壁》の綻び。それが事実であれば、社会に与える影響は計り知れない。遭遇した出来事は、一介の神学校生徒であるナディとライナには手に余るものだった。

「う……ん……」

 呻き声とともに少女が身じろぎする。どうやら意識が戻ったようだ。閉じていた目がゆっくりと開く。

 そっと目を合わせ、声をかけようとした刹那、少女は表情を凍らせて大きく目を見開くと、

「きゃああああああああああ」

 叫ぶなり、再び意識を失っていた。

 ナディとライナは顔を見合わせ、何度目かの深いため息をついていた。

「こっちの世界に偏見を持ってるようだわね、この子」

「ですね……」

 しばらく思案した後、ナディは身に着けていた上衣で少女をくるみ、そっと抱き上げ、

「この町の聖職者に相談してみましょう」

 ナディの提案にライナは頷き、自分の上衣で少女の頭部を覆う。

「この髪の色、目立っちゃいますよね」

 頷き返すと、ナディは少女を抱えたまま静かに立ち上がる。

 ナディとライナは、この町の聖職者を訪ねるべく歩き出していた。




目の前の建物の立派な門構えに気後れして、ナディとライナは立ちつくしていた。

「ここ、ですよね」

「そのようね」

聖職者を訪ねるべくあちこち探して見つけたのが目の前の建物だった。その重厚な造りと外観、中空に突き出た尖塔と聖なる紋章は、目の前の建物がこの町の教会であることを示していたが、訪れた人に威圧感を与えるような豪華な造りはこの小さな町にはそぐわないものだった。そのことは、気後れと同時に嫌悪感を二人に抱かせていた。

 穏やかならざる思いで建物を見つめていた二人の視界を正装の尼僧が横切って行く。ナディたちの姿を認めると尼僧は立ち止まり、

「何かご用でしょうか」

 優しく笑みを浮かべて声をかけていた。

その対応に気を取り直してナディたちは、

「ご相談したいことがあるんですけれど」

「神父さんはいらっしゃいますか」

二人の問いかけに尼僧は穏やかな表情を崩すことなく、

「神父様でしたら中におります。困った者を助けるのは私たちの努め、ご案内いたしましょう」

二人を促すと、尼僧は建物の中へと歩を進めていた。促されるままにナディとライナは彼女の後に従う。上衣にくるまれて抱かれたザグレス人の少女は、ナディがかけた魔法の作用で静かな寝息を立てていた。

 聖堂で祈りを捧げている神父に来客の旨を告げ、尼僧はその場を去っていた。

 祈りを中断して振り向くと、神父はにこやかに、

「何かお困りとのこと、私どもでよろしければ力添えになりましょう」

 一連の対応にナディとライナは緊張を解き、

「はい。実は……この子の保護をお願いしたいのですが」

そう告げて、ナディが少女を覆っていた上衣をほどく。鮮やかな色彩の頭髪がはらりと解き放たれる。それを目にした瞬間、神父は、

「おお、神よ! なんとしたことでしょう」

先刻までの柔和な態度を一変させて、ヒステリックに叫んでいた。

「悪魔の申し子の保護とはどういう了見なのですか!」

彼のうろたえぶりに、ナディは冷ややかに、

「思ったとおりだったわ。この町の聖職者はろくなもんじゃないわね」

「な……な……な……」

神父は怒りで二の句が継げないようだ。

「ナディさんの言うとおりです。確かにこの子は異邦の者ですけど、事情も聞かずにいきなり悪魔呼ばわりなんてひどいじゃないですか。ザグレスについての巷の言い伝えを鵜呑みにしているのなら、聖職者なんかじゃなくて素人です。ザグレス人が悪魔だなんて明確に定義した歴史書なんてない、きちんと歴史を勉強していれば、そんなこと、分かるはずですから」

ライナもまた辛辣な言葉を神父に投げつけていた。

 と、ナディの腕の抱かれていた少女が身じろぎをする。魔法の効力が失われたようだ。

ナディは、腕の中で小刻みに震えている少女をそっと床に立たせ、屈み込んで目線の高さ

を合わせると、

「ごめん、驚かせちゃったね。だけどだいじょうぶ、あなたのことはあたしたちが守ってあげるから」

ナディの言葉にも、少女は剣呑な目つきで見つめ返すばかりだった。そんな少女に、ナディは辛抱強く、

「キルギア語、分からないのね。それなら」間を置くと、ゆったりとした口調で「わたしたち、あなた、守る、信用してほしい」

 独学で学んだ拙いザグレス語で語りかけていた。

 それでも少女は堅い表情を崩さず、首を振るばかりだった。

「あなた、ここで一人。生活できない。わたしたち、お世話する」

 さらなるナディの言葉で、自身のおかれた状況を認識したようで、仮面が剥がれるように、少女の勝気な表情が崩れていた。

 先刻までの勝気な表情を一変させ、少女は怯えたような視線でナディとライナを、そして神父を見やる。神父は眉間に皺を寄せて、ぷいと視線を逸らせていた。

 ナディの脇で屈み込んでいたライナは、そっと腕を伸ばし、いたわるように少女を抱きしめると耳元で、

「だいじょうぶ。わたしたち、鬼、悪魔、違う」

 少女は、緊張を解いたように体の力を抜いてライナに体重を預けると、

「分かった。あなたたち、信用する」

 か細い声を絞り出していた。

 ナディとライナは頷き合い、

「この子は」

「わたしたちが保護します」

 神父に向かって決然と告げていた。

 神父はうろたえたように数度瞬いた後、ナディたちを見据え、

「あなたたちは、事の重大さを分かっているのですか。ザグレス人がキルギアに渡来したということは、国家的大問題です。あなたたちの手に負えることではない」

「だったら、聖職者であるあなたがどうにかしてよ」

 ナディの言には、

「そ、それは国家が決めることです」

 明らかな責任転嫁の答えに、ライナは、

「それは、神父さんの手には負えないということですよね。それなら、わたしたちが

責任を持ってこの子を保護する、それでいいですか」

「いや、それは……」

 この期に及んでも頼りなげな言葉しか発せられない神父を見限るように背を向けると、ナディたちは教会を後にしていた。




 町はずれの安宿の一室。ナディとライナは見詰め合って同時にため息をついていた。少女の一件で期末休暇の残りの日程のキャンセルし、安宿での宿泊を余儀なくされて気持ちが沈んでいる。そして、抱え込んだ問題はそれ以上に深刻だ。

 簡素な寝台では、少女が安心したように静かな寝息を立てている。

 頼りのない神父に向かって啖呵を切った手前で業腹ではあるが、自分たちにこの一件を処理する権限のないことは承知している。となれば、この件は頼るべくところに任せるしかない。ナディたちが在籍する王立神学校は国家最高峰の魔道士養成機関であるとともに、今日の世界の中核を成す魔道の最高位研究機関として政から独立し、魔道の権威としての存在を国家に誇示している。

「校長先生にお願いするしかないかな」

「そう、ね」

 ナディとライナが口にしたのは、至極当然の結論だった。しかるべくところに任せてしまえば、この一件はナディたちの手を離れる。ナディたちは今一度、無防備に寝息を立てている少女の寝顔を見つめる。

「だいじょうぶ、かな」

「え?」

ライナがぽつりと洩らした声に、ナディは訝りの表情を向ける。その表情を読み取って、ライナは、

「神学校が信用できないわけじゃないの。この子は、何にも知らないキルギアという地で知らない大人に預けられて暮らしていかなくちゃならない。問題は結界が破綻したことであって、この子には何の罪もないと思う。だけど、そうは思っていない大人たちもいる。あの《似非神父》みたいにね」

「この子には、あたしたちが守る、って言っちゃった手前、裏切られたなんて思われたら業腹だわね。まあ、ここは校長先生の裁量を信じるしかないわ」

 微かな隙間風が深夜の冷気を部屋に運んでくる。足元から伝わる夜気の冷たさに身震いして、二人は粗末な夜具を引き上げていた。



                                       続く

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