使い魔妖精
六月某日。ワーマルド樹海のとある地にて、突然強大な生体反応が検知された。
樹海全域を揺るがしたその生き物はすぐに消え去ったが、その地に住む者たちにはそれで済ませられる話ではなかった。数年前から樹海の一角に住み着いている化け物のせいで慣れているとはいえ、その生物が敵に回らない保証はないのだ。
それに──彼女らにはもう一つ、懸念すべきことがあった。
「ノーラ様」
小さな少女の呼ぶ声に、薄く透けるような緑の髪をした美しい少女、ノーラはそちらへ飛んで行った。
背中に生えた羽をぱたぱたと羽ばたかせる度に、細かい鱗粉がキラキラと光りを残す。宙に光の道を描きながら飛んできた上司に、同じく羽を生やした少女が地面を指して言った。
「ありました。転移魔法の痕です」
そこは不自然に魔力が集まって淀んでいる。大きな魔法の起点によくある特徴だ。状況から考えて、ここで転移魔法が使われたことは明らかだった。
「少し離れた場所にもう一つ転移の痕跡がありました。やはりこの地を中継して別の場所へと向かったようです」
「そう。なら危険はなさそうね」
この樹海が目的地でなかったのなら、警戒する必要はない。大きな力を持つ者は少なからず存在している。その全てに怯えて生きるなんて馬鹿なことはするだけ無駄だ。
それより、とノーラは言った。彼女たちがここまで調査に来たのは、敵対行動の有無を確認しに来ただけではない。
「妖精の方はどうかしら」
むしろこちらの方が本命だ、とノーラは緊張気味に訊いた。その固い声に、二人のやり取りを聞いて集まってきていた他の少女たち(少年の姿をした者もいるが、少女と比べて少数)も固唾を飲んで返事を待っている。
そんな視線を一身に浴びた少女は、期待に応えられないことへ申し訳なさそうに目を伏せた。
「それが……あれだけの魔力反応があったにも関わらず、周囲にマナ溜りが一つも確認できない事から、その……」
「……生まれているのね?」
「はい……」
萎んだ声がその事実を伝える。周りの少女たちが息を飲んだ。
ノーラは額に手を当てると、なんてこと、と呟いた。それは想像したくもなかった最悪の事態だ。
しかももう既にここにいないとなると、この広い樹海の何処へかと行ってしまったことになる。いくら彼女たちの支配する土地と言えど、その中に紛れてしまった虫を一匹探し出すのは無理があった。
「ノーラ様、どうしますか?」
傍にいた少女が不安そうに訊いてくる。
そんなものは私が聞きたいとノーラは思ったが、彼女はこの隊を率いる隊長であり、教え導く立場にある年長者だ。年若い者たちが集められた寄せ集めの隊とてその責が変わることはない。
これも責任ある地位についた者の定めとしばし逡巡した後、ノーラは苦渋の決断をした。
「エスメラルダ様にご報告して、捜索の手を増やしていただくわ」
「そ、それは……」
初めに魔力痕を見つけた少女が声を上げる。その選択は解決には近くとも、自分の身を削る諸刃の剣でもあった。
少女たちは不安そうにするが、これは仕方のないことなのだ。ノーラは冷静に判断を下し、この決断をしていた。
「この事実を隠し通したとして、私たちだけで妖精を見つけ出すには無理があるわ。そうしたらどっちにしろ、いずれエスメラルダ様のお耳に入ることになる。それなら隠すより先に報告してしまった方が心象は良いはずよ。事態の解決には結局必要なことだし」
「それは、そうかもしれませんが」
「安心して。報告は私がするから。その間の隊の指揮はコルドラ、あなたに頼むわよ」
「……ええ、はい。分かりました、ノーラ様。お任せください」
首を横に振って副隊長の少女が答えた。苦い顔だ。隊長一人に責を負わせてしまうことが心苦しいのだろう。
しかしノーラはそんな彼女を叱責するように、大きく声を張り上げる。
「いいわね、あなたたちがすべきは、妖精を見つけ出し速やかに駆除すること。それだけよ。その為には手段は問わない。さあ早く行きなさい。これ以上エスメラルダ様を失望させない内に!」
「「「はい!」」」
隊長の声に答える隊員たち。彼女たちは号令のあと、早々と飛んで行った。まだ遠くへは行っていないだろう妖精を探すために。
一人残ったノーラは彼女らを見送ると、苦々しい顔で爪を噛む。
「すぐに見つけてやるわ、ゴミ蟲風情が。私たちの庭に踏み入ったことを後悔するのね」
憎しみに満ちたその顔は、遥か昔からの怨恨を想う彼女たちの心をありありと表していた。
◇◇
「妖精、ね」
俺はその辺で拾った野草とキノコにノクの実を潰したソースをかけた炒め物を食べながら、目の前の鳥の情報を見て言った。
当の鳥、もといキュロは得意げに翼をばたつかせている。うざい。
──────
個体名:キュロ
年齢:0
種族:妖精(概念体)
別称:魔獣の一族(偽)
魔法適正:闇、火
スキル:
魔法耐性Lv.1、飛行Lv.1、自然治癒Lv.1、幸運、悪食
──────
概念体だとか魔獣の一族だとか気になるところはあるが、とりあえず言いたいことがある。
「お前、幸運持ちだったのか」
幸運スキル。カルウェイドの持つ豪運スキルには及ばずとも、自身の行動によって起こる事象がいい方向に働くスキルだ。凶運とは比べものにならないほどの良スキルである。なんか負けた気分だ。
でも確かに、この場所を見つけるのがやけにスムーズだった。俺の不運では絶対魔物に一匹も会わずに、ほんの一時間で寝床となる場所を探し出すことなんてできなかっただろう。そういう意味ではこいつと契約してよか……よかっ…………よ、よくない。全然良くないから。
ブンブンと頭を振る。例えどれだけ見た目がかわいい鳥で幸運持ちで俺に利があるとしても、コイツは出会いがしらに使い魔契約をしてくるような、青少年の夢を壊す悪逆非道な妖精なのだ。決して許しはしない。
そう決意を固める俺の前で、幸運スキルを持って生まれた最高に幸運なはずの鳥は、不満そうに俺を見てぶー垂れている。
「キュー」
「名前が不満? いいだろ、付けてやったんだから。俺は鳥のままでもよかったぞ」
どうも生まれたばかりでないと言うから名前を付けてやったのだが、それが気に入らないようでさっきからずっとこの調子なのだ。
まったくわがままな妖精だ。キュロは抗議するように半眼で睨みつけて来る。鳥のくせに器用だなとは思うが、知ったことか。俺はまだ使い魔の件を許したわけじゃない。
少々味の薄い野菜炒めを頬張りながら、俺は抗議の視線を無視した。
しかし魔力生命体か。通りで変だと思ったんだ。
普通の鳥にしては魔力が多すぎるように視えたし、こいつが血を吸っている時もくちばしから感じる魔力の気が多すぎたのが不可解だったんだ。そりゃあ身体全部魔力でできてるんだから当たり前だ。
だが、そうか。今になって思えばあの時コイツは血を吸っていたわけじゃなくて血に流れる魔力を吸っていたのか。そしてくちばしを形成する自分の魔力を俺の体内に送り込んだ。
互いの魔力を一定量交換すれば契約は成される。何も考えずぼーっと眺めながらペット飼ってもいいかなあなんて考えてた俺の目の前で、使い魔契約は結ばれていたということだ。なんかムカつくな。
「キキュ!?」
突然蹴られたキュロが「なにすんだ!」と叫んでいる。無視だ。俺はそのままゲシゲシと鳥型妖精を蹴り続けた。
「てかお前、肉しか食わないとか贅沢言いすぎじゃね? 見た目鳥でも鳥じゃないんだから、そこは妥協しろよ」
「キュゥ……」
「いや俺だって肉食べたいけどさ、その為には魔物と戦わなきゃいけないだろ。それやるのお前じゃなくて俺だからね。分かってんのか?」
「キュロロ!」
「いや別に誰もそんなこと言ってないだろ。事実だけど」
「誰が役立たずでうるさいだけの使えない鳥だよ!」と一人で怒り出したキュロ。
まったくもってその通りだ。自覚があったようで何より。
だけど一応これ実践訓練だからな……引きこもって三日終えたら後でもう一回とか言われそうだし、コイツの言葉に従うのは癪だけど食べれそうな魔物でも探すとするか。でも今日は疲れたから明日ね。
ズーっと、これまた味の薄いスープを飲み干すと、魔術で生み出した水を飲み干す。あとは使っていた皿を土に戻して寝る。おやすみ。
「キュキュ(僕のご飯は?)」
「明日な。結界掛け直すから夜になったら起こしてくれ」
「キュー(水だけじゃ魔力補給できないじゃん。そもそもなんで平皿なの? すごい飲みにくい)」
「ペットといえばそれだろ」
「キュウ……(僕ペットじゃないし……)」
契約する相手間違えたかな、という感情が契約のパスを通じて伝わってくる。今更だ。精々一生後悔してろばーか。
というかこいつ、生まれたばかりのわりに皿とか色々知ってるよな。どこからそんな知識を……妖精の特性か何かか?
ていうかそもそも妖精ってなんだろう。生まれたばかりというが、俺が出会った時にはすでに雛を卒業し終えていた。やっぱり魔力生命体とか言ってるし、普通の魔物とは発生の仕方が違うのかもしれない。
帰ったらカルウェイドに聞いてみるか。ついでに使い魔契約の破棄の仕方についても。
寝転がってひと眠りしようと目を閉じる……と、何かが近づいてくる気配を感じた。
すぐさま目を開く。そして右の目、俺の元々の目が埋まっている眼球の映像を切り替えた。
左目は変わらず周囲の景色を映しているが、右目の視界にはさっきとは違い、青くぼやけた輪郭の光だけが映っている。
カルウェイドが俺の目に施した魔術措置、というか改造で主に強化されたのは視力だが、他に追加された機能がいくつかある。望遠、暗視、拡大、さらには過去視未来視延視とかこんなんどこで使うんだよってのがこれでもかと盛られているのだ。最初は気を抜くと視界がすぐ切り替わるから使いこなすのに大分苦労した。
そしてそんなびっくり魔眼の内の一つ、「魔力を視る」のがこれだ。
通常魔力を持つのは生物だけだから、これだけで近くにいる生き物の姿かたちを知ることができる便利な機能である。少なくともカルウェイドの趣味で付け加えられまくった中ではまだ使い道がある。
「キュ?」
「ん、いや、何か近づいてくるから一応な。結界には気づかれてないみたいだ」
外からでは何かがあることも認識できないようになっているから、並みの魔物なら素通りしてくれる。そして今外にいるのは、まさしく並みの魔物だった。
後ろ足だけが異常に発達した狼のフォルム。他の仲間とはぐれたのか一匹だけで、近くに俺たちがいるとは微塵も思っていないのか、地面の匂いを嗅ぎながら歩いている。緊張感といったものは感じられない。
そのことをキュロに伝えながら、魔力視を切った。
「何もないならいいんだ。わざわざ出てくのも面倒だしほっとこうぜ」
危険がないのなら無視するにこしたことはない。
そう言って再び転がったのだが、もう一匹の方はそうは思わなかったようだ。
「いっ、痛、おいやめろ!」
頭を狙っての執拗な突き攻撃。いくら俺が痛みに耐性があるからと言って、何も感じていないわけではないのだ。しかも人体の急所たる頭部を攻撃されているのだからなおさら過敏にもなる。
「何すんだよお前! 文句あるなら口で言えよ、口で!」
「キュキュウ!」
「くちばしは口じゃないだろがッ!」
とんでもない奴だ。俺が普通の人間だったら頭に穴開いてるとこだったぞ。
妖精というファンタジーな空想が尽く打ち砕かれていくのを感じながら、俺は渋々と胡坐をかいた。もはや羽の生えた小さい少女の偶像は夢幻でしかない。
そして当のキュロといえば、俺が嫌がりながらも言うことを聞いて満足気だ。その様子には俺が自分の言葉を聞くのは当然といった心情が透けていた。どうもこの鳥は主従関係をはき違えているように見える。とことんムカつく奴だ。
一度コイツが結んだ契約関係を整理した方がいいかもしれない。鳥にこき使われるのなんて屈辱すぎるし、このままだとずっと侮られ続ける気がする……けど、この鳥と余計な会話をすること自体が面倒だ。
それにどうせあと数日だけの契約。カルウェイドのところに帰ったら破棄するんだしな。うん。これくらいは我慢してやろう。
あのカルウェイドに限って、やり方を知らないなんてことはないだろう。きっと。たぶん。
「それで? 意味もなく人の頭をどつき回したわけじゃないよな」
「キュ、キュロロ(僕もう魔力なくなりそうなんだよ。それなのに、食料がそこにいるのに、それで無視とかありえないでしょ。戦えないボクに代わって君がそこの狼を獲ってくるべきだ)」
「は? ふざけてんのかお前」
「キュキュウ。キュー(ふざけてはないし、君こそ正気? こんないつ抜けられるかも分からない危険な樹海の中で、運よく一匹だけの大して強くない魔物がすぐそこにいて、しかも僕らに気づいてないんだよ? これで無視とか、逆に君の神経を疑うね)」
自信満々に言うキュロ。しかし、それを聞いて俺はきょとんと呆けた。
何言ってるんだ、この鳥。何でそんな突飛な発想になるんだ?
確かにこの樹海は危険地帯らしいし、さっきもとんでもない化け物に会ったばかりだが、生き残りたいというのなら外に出て戦うよりも結界を張った拠点に引きこもった方が確実に決まってる。それがどうして、外に出て食料を獲りに行く話になるんだ。
魔力が足りないというのなら俺のを渡してやれるし、俺は数日くらい何も食べなくても死にはしない。いくら相手が一匹だからって、疲労が溜まってる今相手する必要はないはず──
と、そこで、俺とコイツでは、全く現状の認識が違うことに気が付いた。
「……ああ、そうか」
そういえばコイツから話を聞くだけで、俺の方の事情は全く話してなかった。というか自己紹介すらしてなかった。
そりゃあ「三日間樹海の中で生き抜けば安全地帯に帰れる。万が一死んでも生き返れる」なんて前提条件を知らなければ、今俺たちは自分より遥かに強い魔物が犇めく広大な樹海の中で、大して強そうに見えない契約者と生き抜くため決死のサバイバルをしていると思っても仕方ない。
そりゃあ、日々の食料にも必死になるよな。おまけにコイツは俺が魔力だけは桁外れに多いことを知らないんだから、自分の魔力が尽きたら補充してくれる相手がいると思ってない。俺と契約を結んだのも助けてくれるなら誰でもよかったのだろう。
キュロは俺の気の抜けた返事を聞いて苛立たし気に翼をばたつかせている。コイツからしたら俺は、目先の恐怖に怯えて先が見えていない臆病者なのだろう。
そう思うと少し嫌な気分だが、コイツも何も考えてないわけではないのだということは分かった。
「キュー!(そうか、じゃないよ。そうでしかないよ! ほら、何ぼさっとしてるのさ! さっさとか弱い僕の代わりに美味しいお肉を持ってきて!)」
……しかし、もう少し言い方というものがあるだろ。これが人にモノを頼む態度か?
「キュロ、その話なんだが、言い忘れてたことがあるんだ」
「キキュウ?」
訝し気に濃い茶色の瞳を瞬かせる妖精。その目は雄弁に、今必要な話か? と言っている。
「実は──」
そうして俺の話を聞き終えたキュロは、間抜けな顔をして目を見開いていた。
鳥に表情もクソもないと思うのだが、随分と感情豊かな鳥顔だな。
「キ、キュキュ!?(え、つまり何、このまま何もしなくても僕は死ななくていいってこと? ていうか、君この樹海から出ないの!?)
「ああ、まあここに家もあるし……師匠もいるし」
少しカルウェイドとの間柄について悩んだが、無難に師匠と言っておいた。実際俺はあの人の実験道具として拾われたはずなんだけど、いつの間にか内弟子になってたし間違ってはいない。
それを聞いたキュロは思案顔……ぽい様子で俯いた。さすがにそんな細かく鳥の表情までは分からない。
「……キュキュウ?(その師匠って、君より強いの?)」
そして何をいうかと思ったら、マジで何言ってんだお前。普通弟子より弱い師匠なんていないだろ。
「当たり前だ。俺なんて一億人いたって敵わないぞ」
「キュウゥ……?(一億は盛りすぎじゃ……いや、とりあえずその師匠は強いんだね? この森の……ええと、どんな生き物にも負けない?)
「むしろあの人が負ける所が想像できないな」
「キュ……(そっか……)」
キュロはしばらく、そうかと噛みしめるように呟いていたが、やがて晴れ渡るような笑顔──を浮かべているだろう雰囲気で顔を上げた。
「キュキュウ!(いやあなるほどぉ! そっかぁ、それは安心だ! なら安心してあの狼を倒しに行けるね!)」
一瞬俺は、コイツは頭がおかしいのかと思った。
「……いや、前後の話飛躍しすぎじゃね? なんでそうなんだよ」
「キュロロ、キュ!(君こそ、なんで死んでも生き返らせてもらえる状況で、しかもこんな好条件なのに挑戦しようとしないんだよ! 倒せばお肉が手に入るというメリットまであるのに!)」
「お前肉が食べたいだけだろ」
ジト目で反論すれば「えへへ、バレた?」と少しも悪びれない妖精が返してくる。こいつ、反省という言葉を知らないのだろうか。
だが、確かにキュロの言い分にも一理はある。どうせ生き返るならこの機会に戦い方を学ぶのもいいかもしれないな。
「まあ、仕方ない。折れてやるよ。元々実践訓練なんだし」
「キュ!」
ため息をつきながら立ち上がると、キュロは俺の肩にまで飛んできた。なんだかんだ言って付いてくるつもりらしい。
「キュロ(それから、僕君の名前聞いてないよ)」
「そうだったな」
普通は契約する前に名乗るものだろうけど、出会いが最悪だっただけに今までその機会がなかった。それに、まだその名前で呼ばれる機会が少ないから少しだけ違和感を感じるのだ。
一年前、この世界に来た日にカルウェイドからもらった名前を思い出す。当初こそ「おい」とか「お前」としか呼んでくれなかった我が師匠だが、最近ではちゃんと名前で呼んでくれるようになってきた。
そんな感慨深い想いを抱きながら、人の肩の上で悠々と毛づくろいをしている妖精へ自身の名を口にする。
「イッドだ。イッド・シュヴェルグ」
「キュ……?(シュヴェルグ……?)」
それを聞いたキュロは、何か引っかかったような感情を伝えてきた。しかし、それもすぐに霧散する。
「キュキュ(ふーん、イッドね。変な名前)」
「……あの人がくれた名前だぞ。馬鹿にするな」
「キ、キキュ(え、怒らないでよ。ごめんって。沸点分かりにくいなあ)」
キュロの心無い謝罪を聞きながら、俺は結界の境界で立ち止まった。その先では少し離れてしまったが、一匹オオカミがきょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。
俺は《気配遮断》と《隠密行動》を自分と使い魔にかけてやると、そっと結界を抜けた。狼に気づいた様子はない。
「……そういえば、お前オスとメスどっちなんだ」
「キュゥウ?(はあ? 妖精に性別なんてないよ。そんなことも知らないの?)」
一々癪に障る物言いの鳥を指ではじく。痛いという感情と悲鳴が横で上がる。俺は構わず歩を進めた。
相手との距離を測りながら魔力を練っていく。
キュロはギャーギャーと耳元で騒いでいたが、狼との距離が近くなるにつれて静かになっていった。
そしてもう少し。魔術に詠唱に入ろうかという距離で小さく呟いた。
「キキュ(まあ一生の付き合いだし、よろしくね、イッド)」
その一生の付き合いはもうあと数日で解消する予定だけどな。
そう思いながらも、何だかんだ呼ばれた名前には悪い気がしなかった。