バケモノと鳥
キチキチと鳥の鳴く声が聞こえる。俺はまだ正常でない平衡感覚に脳がくらりと揺れるのを感じながら、相変わらず生命溢れる緑に囲われた樹海を見回した。
「くそ、あの唯我独尊魔王……」
人の命を何だと思ってるんだ。いくら生き返るからって何度も死にたいわけないだろ。
俺は独り言ちながら、小さく息を吐いた。軽く見ただけでも危険は感じられない。これまでとは違い、急に化け物が襲ってくることはないようだ。
まあいくら運が悪いと言え、そう何度もそんな不運に見舞われれば「幸運の指輪」の名前負けもいいところだしな。下地が最底辺だから仕方ないけど。今回はなんとかなったようだ。
とりあえず、魔物に見つからない内に《気配遮断》と《隠密行動》を発動する。文字通り他者から認識されづらくなるスキルと、自分が発する音や匂いが周りに感知されにくくなるスキルだ。特に鼻が利く魔物が多い樹海の中では《隠密行動》は必須だろう。
自分の存在感が希薄になるのを把握すると、そろりと草葉を踏む。もうすぐ夏になる季節なだけあって枯れ葉の一つもないのを抜きにしても、音一つ立たなかった。スキルの効果は間違いなく発揮されている。
しかし《気配遮断》は認識しにくくなるだけで、見えていないわけではないのだ。ここでぼうっと突っ立って、堂々と樹の下を闊歩すれば即座に見つかることは想像に難くない。油断すればまたさっきの二の舞だ。
まずは隠れる。寝床探しも食料探しも、全ては身の安全を確保してからだ。
最悪三日くらいなら活動に必要な栄養素をマナで補えば、飲まず食わずでも、ついでに不眠不休でも問題はないけど。あくまでも緊急手段だから本当に切羽詰まった時だけだ。
ひとまず近くの樹の陰に入ると、周囲に危険がないかを確かめる。
「精霊の残滓。触れるは流る連鎖の糸。我は大気に揺蕩う鼓動を知る。
──Lehren Sie Nymphe」
大層な詠唱だが、単に自分の魔力を周囲のマナと同期させるだけの簡単な魔術だ。効果は一定範囲内の探知。地形、敵の有無、それから隠れられる場所はあるか否か。
何も分からないままでは動きようがない。行動の指針となると思ってまずは周囲の索敵をしてみた、のだが。
「……何もないな」
都合のいい土地はおろか、生物すら見当たらない。危険がないのはいいが、食料を探すにはどっちにしろ会敵は必須なんだ。これじゃあどこに行けばいいのかも分からないじゃないか。
さっきは早々化け物と当たったてのに、運がいいのか悪いのか。いや、悪いんだろうな。間違いなく。
「移動するか」
こんな所にいても何も出来ない。移動して、安全な場所を探さなければ。
何をするにもそれからだと、息を大きく吐きだして──
──ぞわりと、全身が総毛立つような怖気が走った。
何かが突然目の前に現れたわけでも、危険が迫っているわけでもない。
文字通り、空気が変わった。先までの静かな森のはずなのに、恐ろしいほどに冷たく、重い気が一瞬で押し寄せてきたのだ。
「──、」
呼吸が止まる。恐ろしさに息ができない。周りには何もなかったはずなのに、ありえないほどの冷気が首をしめるように這ってくる。
不自然に吹き始めた風に煽られてざわつく木々が、この場へ唐突に訪れた異常さを伝えているようだ。
息を飲むことすら戸惑われる。そんな極度の緊張感の中で、俺は身じろぎすらできずにそろりと視線だけで後ろを窺った。
俺が背にしている樹のすぐ後ろ。そこに、何かがいる。
それがどんなものか、どんな形をしているのかすら分からない。未だ効果が続いているはずの探知魔術でさえ、ぽかりと穴が開いたようにそこだけ何も感知することができなかった。かろうじてそこに生物がいるのだと分かったのは、鋭敏な聴覚が小さな息遣いを聞き取ったからだ。
一瞬にして現れたのはきっと転移魔術と似たような力。周囲のマナすら乱す圧倒的な魔力濃度。そして場の空気すら塗り替える重苦しい威圧感。
化け物だ。
そこにいるのは間違いなく、ありえないレベルの怪物だ。ともすれば、カルウェイドに匹敵するほどの。
空気が揺らぐ。それに合わせてマナが、いや、背後の何者かが動いた。
そいつが動くたびに身体を引きずるような音がする。足がないのだろうか。ずるりと進む音が徐々に近づいて……って、ちょっと待て。こいつ、こっちに向かってきていないか……?
いつの間にか頬を流れていた汗が顎を滴り落ちる。詰めた息を吐き出す余裕もなく、俺はその場から動く事すらできずにいる。
恐怖か緊張か、はたまた他の要因か。凍り付いたように固まる身体と反比例して思考はこれまでになく必死に回転し、そして同じ言葉を繰り返し続ける。
何が化け物だ、あんな巨大な狼ごときで。本物の化け物というのは──
「──ふふ」
その時聞こえたのは、静かな女の声だった。
ゾッと背筋に悪寒が走る。
しとやかな音とは裏腹に、脳を侵食するような不気味な声音。耳元で囁かれたそれに、一瞬遅れて顔から熱が引いていく。
右肩に黒く長い髪が垂れ落ちた。つい寸秒前までは木の後ろにいたはずなのに。首元にかかる吐息が、今、そこにいるのだと認識させる。
「匂うわ」
そっと首に手をかけながら女は言った。しとりと冷たい指が緩やかになぞっていく。
「神様の匂い。うふふ、彼らと同じ匂いがするわ」
女は楽しそうに密めいた。それは穏やかながら、獲物を見つけた蛇のような声だった。
首にかけた手を絞めつけるように動かして、女は静かに舌なめずりをする。
愉しむように、甚振るように。
「あなた……あら?」
だが、唐突に女は掻き消えた。本当に、すぅ、と霧のように消えていった。
重苦しい空気が霧散する。異物が消えたことで、森の中は元の静けさが戻っていた。
それはたった今起きていたことが夢幻だったかのような、いつも通りの樹海だ。確かに夢のような、いや、悪夢のような時間だった。
俺はどっと吹き出した汗を拭うこともなく俺はその場にへたり込んだ。
「っ、ハァ、」
止めていた息を吐き出す。
数秒にも満たない時間だったのに、この疲労はなんだ。一日中走り回ったかのようだ。しばらく立ち上がることもできそうにない。
しばらくそうして息を整えたあと、俺はもう一度大きな息を吐いた。
「……努力しても無理だろ、これは」
人間がどうにかできるようなものではなかった。何でいなくなったのかは分からないけど、あのままだヤバかったということだけは分かる。転移で消えたようには見えなかったけど……まあいいか。
思考を放棄したというより、単に考えたくなかった。もう忘れる。
ホラー映画を観た日の夜のように、俺は楽しい事を考えようとその場で蹲っていた。
しかし。
「キュ」
すぐ傍で聞こえた何かの鳴き声にびくりと肩が震えた。展開していたはずの探知魔術も、さっきの衝撃で解除してしまっていたから気が付かなかった。
すわ襲撃かと慌てて立ち上がる。忘れかけていたがここは危険な樹海の真っただ中なのだ。いつどんな敵が現れてもおかしくない。
そうして身構えた俺の前に出てきたのは、小さな鳥だった。
「キュロ?」
茶色の鳥だ。雀よりは少し大きいが、まだ子供なのかふさふさの毛に丸くて大きい目が可愛らしい。少し大きくてシュッとしたヒヨコみたいだ。
そんな巣立ったばかりの丸っこい奴が、身構えた態勢のまま間抜け面を晒す俺を、首を傾げて見上げていた。
「……」
「キュウ」
つぶらな瞳が見つめる。焦げ茶のやや鋭い目。こんな危険地帯のド真ん中で、しかも親鳥もいないたった一羽でだなんて到底思えないような、本当にまだ雛から卒業したばかりの子供だった。
もしかして見た目に違わずすごい奴なのかもと思ったが、一瞬でそれはないなと思い直した。こいつからは何の圧も感じない。本当にただの鳥だ。いや、ただの鳥にしては少し違和感があるけど、それが何か分からない。気のせいか?
「お前、一人なのか? 近くに親がいるとかいうオチはないよな?」
一応聞いてみたが、鳥は小さく首を傾げるだけだった。当たり前だ。鳥に人間の言葉が理解できるわけがない。
「キキュ?」
「悪いけど鳥の言葉は分からないんだ。ごめんな」
「キュー」
「はいはい。じゃあ俺もう行くからな」
ここもいつまでも安全なわけじゃない。早く移動して休める場所を探さないと。
そう思って立ち上がったのだが、鳥は慌てたように「キュロ!」と翼をばたつかせた。
「何だよ、お前も早く家に帰った方がいいぞ。危ないから」
「キュキュー!」
「だから何なんだよ……俺、鳥の言葉は分からないって」
こっちは見ず知らずの鳥に構っていられるほど暇ではないんだ。
ただでさえカルウェイドの我がままで毎日疲れてるのに、急にサバイバルだなんだと飛ばされ、挙句に一回死んだと思ったらさっきの……いや、思い出すまい。怪談とかは覚えてるから怖いんだ。俺はもう忘れた。忘れたい。……くそ、《記憶力》なんて覚えるんじゃなかったっ。
とりあえず今の俺に心の余裕なんてものはない。
だから置いて行こうというのに、ソイツは服の袖口に噛みつくとくちばしでぐいぐいと引っ張ってきた。意地でも行かせない気だぞこの鳥。
「あーもう分かったから離せ! 家までなら連れてってやるよ!」
「キュキュ!」
「だから連れていくって……ん?」
なおも腕を引く鳥に苛ついて声を荒げようとした矢先、鳥が戻って来いと引っ張っているわけではなく、下に引いていることに気が付いた。
なんとなく「いいから早く座れ!」と言われてる気分だ。鳥のくせに生意気だぞ。
釈然としないながらも座ってやる。鳥は急に動いたことによろけながら、トタトタと降ろした手の元まで歩いてきた。まん丸くてちっこいその姿に少しだけ和む。
そういえばペットって飼ったことなかったな。そんな余裕なかったし、俺の住んでた部屋はペット不可だった。でも俺、大型犬飼ってみたかったんだよな。どうだろう、カルウェイドはペット可だろうか。
ぼーっと鳥を眺めながらそんなことを考えていた。その鳥は真剣な様子で俺の手をじっと見つめている。
そして徐に顔を近づけると指の先をくちばしで少し啄んで、そして噛み千切った。痛い。痛いが、特に何も言わなかった。
鳥が何をしたいのか少し気になったし、そもそも俺は痛みにだけは強いんだ。今更指の一本や二本捻じ切れたところで何とも思わない。指の先の肉くらいいくらでもくれてやる。修復できるしな。
肉を啄んだ鳥はてっきりお腹が空いてたのだとばかり思っていたが、千切った肉には目もくれず、指先の傷にくちばしを突っ込んで血を吸い始めた。血をエネルギーにする生き物なのか。鳥っぽいけど蝙蝠系なんだろうか? いやしかしこの感じ……なんか変なんだよな。触れてみて改めて思ったけど、生物としておかしな構造をしてるというか、本来ならこんなことが起きるはずないというか……こいつ、本当に鳥なのか……?
心中で首を傾げる。鳥は少しだけ血を吸うと、もういらないのかくちばしを離した。そこには何も変なところはない。やっぱり俺の思い違いだったのかな。
「もういいのか?」
とりあえず声をかけておく。鳥は少し首を振った。頷いているようだ。案外言葉が分かってるのかもしれない。
「そうか。じゃあ今度こそもう行くからな」
いい加減この辺りに魔物が来ないとも限らない。用なしになった指先の傷を塞ぐと、今度こそ立ち上がった。
「キュキュ」
「ああ、どういたしまして」
別に大したことはしてないが。少し指を噛まれて血を吸われただけだ。
俺は鳥に「じゃあな」と手を振ると、もう一度魔術を使うために歩きながら魔力を練る。しかし鳥は何を思ったか、俺の後をちょこちょこと追いかけてきていた。
振り返ると首を傾げている。なに? とでも言いたげだ。それは俺のセリフだ。
「なんだよ。何か用でもあるのか?」
「キュー」
「は? 駄目だ。俺にお前まで面倒見れる余裕ないから」
「キキュ!」
「いや今日会ったばっかだろうが。一蓮托生も何もないだろ」
「キュ」
「契約ぅ? 知らねぇよ。そんなのいつ……」
そこではたと気が付いた。
なんか俺、こいつと会話できてないか?
普通そんなことができるはずはない。言葉が違う云々の前に人間と鳥だ。コミュニケーションをとる手段があるとするなら念話やら心眼やらくらいだが、今俺とこいつは普通に話していたのに会話が成立していた。しかも相手の言葉が全く分かっていないのに。
こんな意味の分からない事態が起きるとしたら、その原因はもう一つしかない。さっき鳥が言っていたように魂を結びつける契約を結んだ時。つまり。
「と、鳥! お前、使い魔契約を結びやがったな!?」
しかも勝手に。
焦りで声を荒げる俺に、鳥は「僕は鳥じゃない!」とどうでもいい返事をした。マジでどうでもいい。
「てめぇ、使い魔契約が一生に一度しか結べないもんだって知ってんのか!? 一生に一度だぞおい!」
「キュキュ!」
「知ってんなら尚更だろが! ふざけんな!」
鳥の首根っこを掴んでがくがくと揺らす。鳥はバタバタと暴れているが、許せることじゃない。最悪だ。死刑だ。俺は泣きながらこいつの首を絞めていた。
使い魔。
一般的に、魔術契約によって使役する生物のことを言う。従魔士の従魔や召喚士の契約獣と異なり、自由意志を持って主人に仕えているために使い魔と主人の間には信頼関係が必要で、待遇が悪ければ使い魔に殺されることも多々ある。その反面、使い魔となった生き物には一定以上の知能を与えることができるため、通常の契約で縛られた生物よりも複雑な命令が可能というメリットがある(魔術書参照)。
だが。
「使い魔と主人はただの契約関係ではなく魂の結びつきだ。一度結んだら最後、どちらかが死ぬまで解消されない。しかも一度契約した者は二度と他の魔物と契約できない、人生で一度きりの契約だ。それだけにものすごく慎重に相手を選ばなければならないんだ。決して会って数秒の相手と契約していいものではないんだ。それを、お前って奴は……お前って奴はァ!!」
ふざけるな、どうしてくれる。
言いたいことは山ほどあれど、口から出てくるのは嗚咽混じりの泣き言ばかりで、泣きながら首を絞められている鳥もさすがに悪いと思ったのか無抵抗だ。
しかしその心の内から漏れて来る「たかが使い魔じゃん」という言葉から、こいつが全然反省していないことだけは分かる。
「たかが!? たかがってなんだよ! 使い魔だぞ! 全世界の少年が一度は契約してみたいって夢見る! あの!」
「キュ?」
「しかも人生に一度だけなのに! 俺すげぇ楽しみにしてたのに!! それがこんな……こんなしょうもない鳥と契約することになるなんて……っ!」
「キキュー!?」
しょうもないと言われてさすがに怒った鳥が鳴く傍ら、冷静さを失った俺は周囲の警戒も忘れて大声で喚き立てるだけでは飽き足らず、ナイフで自分の首を掻き切ろうと構えた。
「くそ! 今すぐ契約切ってやる! 俺と契約したことを一生後悔しろばーか!」
「キ、キュキュ!? キュー!」
「やめねーよ! 俺だって傷ついてるんだぞ! 少年の夢を一つ潰しやがって……っ!」
叫んでたらさらに泣けてきた。そっか、俺もうドラゴン使い魔にできないのか……そうか。
「キュ、キュロロ……」
「謝ったって遅いからな。もう契約をなかったことにはできないんだ。俺はもう一生お前以外と契約できないんだ……お前のせいだぞ」
「キュ」
「……泣いてないし」
異世界生活二年目。早くも人生詰んだかもしれない。