〈653年〉雪下
地を蹴る衝撃で土が吹き飛ぶこともあるだなんて地球にいた頃の俺は思いもしなかっただろう。ましてや木から木へ飛び移るだなんて猿でもあるまいし人間にできるなんて思わなかった。
いやもしかしたらプロのアスリートなんかはできるのかもしれないけど、俺のような平々凡々な人間がだ。特にスポーツに打ち込んだ経験もなければ才能があったわけでもない。そんなどこにでもいる高校生が映画に出て来る超人ヒーローのような多次元的に動き回るだなんて思う事すらなかった。
でも今ならできる。俺はもう地球にいた頃の俺じゃない。無力な一般市民でも呪われた可哀そうな子供でもない。今の俺なら──何だってできる気がした。
そんな、高笑いでもしだしそうなほどに宙に身を投げ出して全能感を感じている俺へと横からものすごいスピードで空気の塊が飛んで来ると、それは無慈悲にも地へ叩き落した。
「ぐえっ」
雪のクッションも意味を成さないほどの勢いで地面と衝突した。潰れたカエルのような声。実際に体のどこかしこは潰れただろう。それもすぐ傍に立つ男が一瞬で治したが。
「お前は本当に反省しないな」
呆れた声で男が言う。最初の頃より幾分かは柔らかくなったが、それでも未だに鉄面皮の張り付いている表情からはこちらを小馬鹿にする様子が見て取れた。
「あんたもいつになったら手加減を覚えるんですか?」
「手加減していないとでも思っていたのか? 思い上がりも甚だしいな」
「そうですかそれは申し訳なかったですね」
所々痛む身体を起こして投げやりな返答をする。随分と流暢に話せるようになった言葉は、もっぱら目の前の男への嫌味にばかり使われている。それもこれも厳しすぎる指導をする方が悪い。
しかしいつも通りの生意気な返事をした弟子に構うことなく、師匠ことカルウェイドは俺の左足を見つめて頷いた。
「動きに問題はなさそうだな」
「幸運にもぴったり合う個体がいたんですから、問題があった方がおかしいですよ。……肉球はちょっと気になりますけど」
「なに、すぐに気にならなくなる」
とカルウェイドは言うものの、弾力のある地面を踏んでいるようで落ち着かない。特に冷たい雪を直で踏んでいるはずなのにあまり冷たさを感じないのも違和感を加速させている。
今、俺の左足として動いているのはろくに動かないエルフの足ではない。人狼とかいう、二足歩行する狼の子供の足だ。二週間くらい前にカルウェイドが急に持ってきて有無を言わさず取り換えられたのだ。
ちなみに人狼はファンタジーに出て来るような狼の耳と尻尾が生えた人間ではなく、ただの二足歩行する狼だ。ついでに言葉も話す。あと当然だが、毛深い。
狼の足なのだから仕方ないけど、移植した当初は自分の足がもふもふしている現状に違和感がすごかった。だって毛が邪魔でズボン入らないし、起きたら抜け毛が散らばってるし、おまけに骨格が人間と違うから慣れるまでに二週間もかかったわけだ。
さすがに二週間も体に馴染ませれば毛は薄くなってきたし、カルウェイドの話だとこのまま人間の足のようになるらしい。俺も毛深いままなのは嫌だったからそれはいい。肉球と、あと爪は取れないようだけど。
それから人狼の足を移植したことで手に入れたスキルは《敏捷》。動きを少しだけ早くするものだ。使い勝手がいいだけにそれなりに便利。
ついでに、今の俺のスキル。
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個別名:イッド・シュヴェルグ
年齢:18
種族:混成魔人
別称:魔術師の弟子、混ざり者、異世界人
魔法適性:無、雷
スキル:
魔力増幅Lv.1(new)、物理耐性Lv.4(new)、気配遮断Lv.2→3、隠密行動Lv.1、痛覚軽減Lv.2(new)、気絶耐性Lv.2→4、精神汚染耐性Lv.5→6、火耐性Lv.3、剣術Lv.3(new)、体術Lv.2(new)、聴覚発達Lv.4、敏捷Lv.5(new)、思考加速Lv.1(new)、演算Lv.3(new)、記憶力Lv.1(new)、予測Lv.1(new)、空間把握Lv.1(new)、家事Lv.4→5、幻惑の声、凶運、並列思考(new)、鑑定
装備:幸運の指輪
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異世界に来て半年。年も明けて一月も下旬になったこの樹海では、毎日のように雪が降っている。そんなに寒い地域でもない(夏は本当に暑かった)のにこれだけ降るのは山が近いから、らしい。ここから出たことないから周囲の地形なんて地図上でしか知らないけど。
ともかく、半年間カルウェイドの元で修行して、俺はまあそこそこ強くなった。そこそこな。種族も混成魔人とかいうわけ分からんのになったし。
スキルも増えた。あまりのスパルタぶりと相変わらずの麻酔なし手術のせいで痛覚耐性がLv.10に達し、痛覚軽減を覚えた時はから笑いが出たものだが、順調に強くなっている、と思う。比較対象が化け物しかいないから分からないけど。
そして「修行なんて面倒なことやってられるか」とか言っていたカルウェイドがどうして、急に教えてくれるようになったのかだが、正直それは全然分からない。
あの日、俺が勝手に《鑑定》を使った次の日だ。
恐々と食堂に入ると、すでに待っていたカルウェイドが、急に「今日から弟子だ」とか言ってきたのだ。
てっきりまだ怒ってると思ってたし、何言ってるのかしばらく分からなかった。ペットや実験用マウスではなく? と脳内クエスチョンマークだらけで立ち尽くしてしまったのも仕方なかっただろう。
ともかく意味の分からないまま、魔王の弟子として修行することになったわけだ。
意外なことに剣術の心得まであったカルウェイドに毎日木の棒で叩きのめされ、素手で投げ飛ばされ、魔術を使えばやれ計算が遅いだの術式に無駄が多いだの散々扱かれる日々だが、それなりに充実しているのも事実。俺は結構楽しかったりもする。が。
「どうした、もう疲れたのか?」
カルウェイドが振り返って言う。考え事をしていたせいで、歩くのが遅れたらしい。
「あ、いえ。少し考え事を」
「無理はするなよ」
「分かってますよ」
答えると満足したのかカルウェイドは再び前を向いた。俺はその背を見ながら、うん、と頷いた。
──優しすぎて怖い。
あの日から妙に優しいのだ。怖いくらいに。
一般的に言えば全然そんなことないばかりか、他人からしたら「え、優しい? どこが??」という顔をされること間違いないのだが、最初期のカルウェイドを知っているだけに、急な変化に戸惑いより先に恐怖を覚えたのはまだ記憶に新しい。というか今でも怖い。
だってあれだぞ。今まで俺が必要ないのだからいらないと言って麻酔を使わなかったこの人が、急に「麻酔使うか」なんて聞いてきたんだぞ。
あまりのことに数秒固まってから頭でも打ったんですか? って聞いた俺は間違ってない。そのせいで今でも麻酔ナシだが。くそったれ。
「足は替えた。右目の施術も終わった。魔力路も大分増やした。あとはどれだけ術式を詰め込めるかだな。人体での形状変化が可能な事は立証されてるから、そこからか」
「俺、口も替えてほしいってずっと言ってるんですけど」
「セイレーンの口のどこが不満だ。人間のより噛み砕きやすいだろ」
「野菜が食べにくいところと見た目です」
肉食の生物の歯は野菜を食べるための形状をしていない。そのせいでギザギザした歯というか牙を持て余す俺は、自分の食べる野菜は念入りに細かく切っている。
「見た目なんてどうでもいいだろ」
「……あんたが言うと嫌味にしか聞こえないです」
「生まれ持ったものだ。望んで手に入れたわけじゃない」
はあ~?? なんだこの魔王。まず顔がよくないとそんな事言えないんだよ。そして負け組はイケメンじゃないってだけで人生負けてんだよ。そんなことも分からんくらい、その顔で人生得してきたんだろなあ。くそが。全世界のモテない男の恨みを一身に浴びて死んで……し……死にそうにないな。というかカルウェイドが死ぬところを想像できない。
それによく考えたら俺別にモテなかったわけじゃない(男女問わず人が寄り付かなかった)し、美形に恨みがあるわけじゃないし……ってそうじゃない。口の話だわ。顔は関係ねぇんだよ。
「あと喋りにくいんですよ、牙が邪魔で」
「すぐ慣れる」
「もう半年ですよ」
ざくざくと雪を踏む音がする。今朝降ったばかりの新雪だが、すでに踏み固められていて歩くのに支障はない。この樹海で大量に暮らしている魔物たちが動き回っている証拠だろう。俺はまだカルウェイド同伴じゃないと外で歩く許可が出ていないから魔物に遭遇したことないけど。いるだけで魔物が逃げていくのだから、体のいい魔物避けである。
「ちゃんと話せないと詠唱するにも影響はありますし、せめて歯だけでも取り換えませんか? 口は譲歩するので」
「譲歩も何も、探すのも付け替えるのも俺がやるんだ。俺のしたいようにするのは当然だろ」
「……俺の身体なんですけど」
と言っても拒否権はない。この世界では強者が正義なのだ。法も秩序もあったもんじゃない。
「じゃあ俺がちょうどいいの見つけたら、その時は替えていいですか? 自分でやるんで」
「何百年後になるかは知らんが、その時は勝手にしろ」
何百年後って、俺生きてねぇよ。
魔王の時間間隔には呆れるが、まあいい。言質は取った。覚えてろよ、この樹海抜けたら人間の顎探し出してきてやる。
「ただし、人間だけは駄目だ」
まあ、そう言われる気はしてたけど。
「人間以外だと、エルフとか、獣人とかですか」
「お前があくまでも見た目にこだわるなら、魔物でも上半身が人の姿であるものはそこそこいる」
「魔物ならこの樹海でも探せそうですね」
「お前に倒せるならな」
一言余計なカルウェイドの言葉に唸る。確かに俺は魔物を見たことも倒したこともないけど……意外となんとかなるんじゃないかと思い始めてるのも事実。実際、この半年で俺はかなり……いや、そこそこ強くなった。そこそこな。そこそこ。
でもそこそこな実力でも、魔物の一匹くらいなら倒せるんじゃないかとも思うわけだ。それこそゴブリン相手なら楽勝で行けるだろう、と。だからその旨を遠回しにカルウェイドへ伝えてみたりもするのだが。
「駄目だ」
「何でですか」
「お前にはまだ早い」
過保護か?
俺がそう思ってしまうくらい、カルウェイドは頑なだった。
「基礎技術を身に着けたくらいで慢心するな。お前はまだ半人前でしかない魔術師もどきだぞ。馬鹿な事を言う前に鍛錬しろ。剣を振れ」
「剣って……魔術と関係ないじゃないですか」
「阿呆。敵と戦う時、接近されたらお前は対処できるのか? 魔術は発動に時間がかかる。体術や剣で捌きながら詠唱と術式の構築を同時にできなくては意味がない」
「むう」
言っている事は分かる。カルウェイドが正しいんだろうなってことも。
だけどなあ。俺は不満げに眉を寄せた。
少しでいいからファンタジーの戦闘ってものを味わってみたいんだよな。俺だって年頃の男の子なんだし、冒険とかにも憧れたりするのだ。
「イッド、話は変わるが、髪邪魔じゃないのか」
そして強引に話題を変えるカルウェイド。少しイラっとしたが、ここで反論しても意味ない事はこの半年で学んでいる。
俺はそれについては軽く流し、長くなった髪をつまんだ。この世界に来た時から全く切っていない髪は、すでに襟足より長くなっている。この分だと肩に届くのもすぐだろう。
「まだ邪魔ではないです。もう少し伸びたら結びますけど」
「切った方が楽だろうに」
「いや、目を隠すために伸ばし始めたんで。切らないですよ」
俺の左目には悪魔の目が埋まってる。頭蓋と共に吹き飛んだ目の代わりなのだが、これがもう、ものすごく化け物感を助長させているのだ。だって虹彩の部分が黄色で水晶体が黒だぜ。誰が見ても化け物だろう。
幸いこの目はかなり高性能だから髪で隠したところで視力は落ちないだろうし、それは改良しまくった右目も同じ。眼帯でせっかくの目の性能が使えなくなるくらいなら髪で隠した方がいいだろう、という安直な考えだ。
それに外国だと髪長い男多いし、変ではないだろ。多分。
「前髪だけ長いのはどうかと思いますし」
「外見の良し悪しは分からん」
「……何度も言いますけど、それあんたが言うのは許されないセリフですからね」
はあ、とため息をつく。このくそ美形野郎は。ギリシアの男神たちが跪いて拝み倒してもなお余りある顔をしてるというのに、本人が魔術にしか興味ないガチマッドだからなあ。これが才能の無駄遣いというやつか。顔の造形が才能かどうかは知らんが。
「それで、帰ったらどうするんです?」
雪道を何でもないかのように歩いていくカルウェイドを追いかけながら問いかける。歩くスピードはそんなに変わらないのに、足の長さが全然違うから追いつくのに苦労するのだ。
今日こうして外に出たのは左足がきちんと動くかを確かめる為で、それが終わったら次は武器を身体に仕込むのだと聞いていた。半年前の俺だったら身体の中に後付けで臓器を付け加えるような手術に嫌悪感を覚えただろうが、腐っても俺は魔術師。それくらいの些事で一々騒いだりなんてしない。
というか、半年ずっとカルウェイドの傍にいたせいで毒されたというのが正しいか。
「そうだな、身体の頑強さ自体はわざわざいじるよりも、鍛錬でマナを徐々に取り込む方がいいだろう。武器を仕込む……いや、肉体の方を武器に変化させる所から始めよう」
「…………それ、ちゃんと元に戻りますよね?」
「当然だ。むしろ武器を持っているのが見えていたら意味がないだろうが。理論はできている。間違っていても腕が一本なくなるだけだ」
あー、腕が一本か。まあそれくらいなら、いいかな。どうせ義手だし。
訓練時に何度も手足を切り飛ばされたせいで麻痺した思考は、簡単に己の腕の犠牲を受け入れた。
「あ、雪」
「降ってきたな」
今朝も降ったばかりだというのに、冬場になって葉の落ちた木々の隙間からちらちらと白い雪が降りてきている。俺は白い息を吐いてそれを眺めていた。
「珍しいか?」
「俺の住んでたところは滅多に降らなかったので」
降ってもそんなに積もらなかったが、それでも大騒ぎして遊んだものだ。子供の時の話だけど。
あの時はまだ父も優しくて、一緒に雪だるま作ったっけ。
視線を前に戻すと、黒い髪に雪を乗せたカルウェイドが止まって待っていてくれた。出会ったばかりの頃なら絶対先に歩いて行ってただろうなと考えて、感慨深い気分になる。
「すみません、早く帰りましょうか」
「ふむ、たまには雪の中で散歩も悪くないかと思ってたんだが」
「風邪ひきますよ。今も結構寒いです」
薄手のコート一枚でこの寒さは堪える。カルウェイドは相変わらずローブを羽織っただけだが、魔王と同じ基準で人を見ないでほしいものだ。
俺がそんな気持ちで手をさするのを見て、カルウェイドは少しだけ笑っていた。
「まだまだ未熟者だな」
「半年ですから。これからですよ」
軽口をたたき合いながら帰路に着く。ワーマルド樹海の冬は、しとしとと続いていく。