二千年後の君へ
その年は、酷く蒸し暑い年だった。
朝夕の駅前ともなればそれなりに人通りも多く、行き交う人々は手元のスマートフォンをつまらなさそうな表情で弄り倒す中高生から、昨夜恋人と喧嘩でもしたのだろうか苛立ちを滲ませて鬱陶しげに髪を掻き上げるOLに、朝刊を片手に険しい顔をしながら滴り落ちる汗をハンカチで拭う中年男性、白髪混じりで額がかなり後退した初老など、実に様々な年齢層の人々が日常に追われている。そんな彼らの日常を一通り眺めた後、窓の外の景色に目を遣る。
空は雲一つない快晴だ。
その青はどこまでも広く、遠く、深い。
そんな青空を見つめては『きっと、この手は届くことはないのだろう』と蒼穹の彼方に核心めいているものを感じずにはいられない。
ガタンゴトン――――
ガタンゴトン――――
車両が線路の形によって揺れる。
乗っている人々も一緒に揺れる。
視界も揺れたが目に入ってくるものはさっきと変わることはない。
揺れが収まると今度はその振動が後ろへと続く。後ろにいる人たちも、先ほどの自分らと同じように揺れた。それでも、背もたれもなく吊り革も掴まない若者は車両が揺れようともバランスを保ちながら手元の本を読み続けている小柄な少年もいれば、その少年の近くで肩から大きなショルダーバックを下げた体格のいい少年もまた、自分と同じように窓の外に目を向けながら電車に揺られていた。
都心の一角から少し離れた所で一人暮らしをしている。だが別に何か目的や夢があって親元から離れているわけではない。親は生まれてすぐに死んだし、今現在仮に『居る』とすればそれこそあの、蒼穹の彼方の『先』にいるのだろう。
こげ茶色の古びたキャリーケースはさほど大きくもないが、上手く仕舞うことが出来ればかなりの量の荷物を積むことが出来る優れものだが、あまり個人的な所有物がない自分にとっては大した代物でもない。
それでも、あれもこれもとケースに詰めればそれなりにスペースは埋まった。――――上手く出来ているものだな、と一人静かに哂った。
自宅から最寄駅までは徒歩十二、三分くらいで近くもなければ遠くもない。これから向かう先はここから電車で揺られること三十分。そこでまず一つ目の乗り換えがある。それから一時間十七分後にまた乗り換えがあり、その次は二時間三十三分かけて電車に揺られる。乗換時の待ち時間も含めれば所要時間はおよそ五時間弱といったところか。
ようやく辿り着いた目的地のホームに足を下ろせば、駅の裏にある山にいるアブラゼミ達の大合唱が左右の鼓膜を襲った。
――――毎年のことながら、彼らの歌声は熱く、激しい。感心しながら降り立ったホームは前回この町に来た時と何ら変わらない。むしろ、ここを出たあの頃とも、何一つ変わらないでいる。
それがまた嬉しくもあり滑稽にも思えたのに、酷く懐かしい感じもした。
日の光が燦燦と降り注ぎ、数メートル先の景色はぐにゃりと歪んでゆらゆらと揺れている。身体の表面にはじわじわと焼け焦げていく感触が這いずり回り、頭の先から足の先まで身体中の水分という水分が抜き取られていく錯覚を覚える。
「あつい、なぁ……」
緩慢に上を見上げると、そこには雲一つない晴天がただ広がる。
―――雲一つない晴天が、ただ、ただ、広がる。
それを見つめていると自然と眉間に皺が寄り睨み付ける形になってしまう、そう教えてもらったのはいつのことだっただろう。それも、随分と昔のことのようだと感じると、自然と溜め息が零れた。
キャリーケースを握る掌がじんわりと汗ばみ、左肩にかけた鞄がズレ落ちそうになるのをかけ直して、視線を改札へと向けた。良い所なんて一つもないと思っていたこの町で唯一好ましいと思えることは、昔からどんな時でも必ず人の手で切符を切る改札があることだった。
「……ご無沙汰しております」
深く被った帽子から零れる長い前髪から覗く細く鋭い一対の眼差しに、大きく垂れ下がった団子鼻。頬の肉は削げ落ちており、口周りには線路の脇で青々と生い茂る雑なのに、その寡黙な駅員は、自分に気づくと幽かにわらったように見えた。
「どうも」
改札口まで来て切符を取り出し……ほんの少しだけ、驚いた。
それを受け取った駅員の背丈が自分の肩に来るか来ないかほどに、小さかったのだ。
いや、体格自体は大きい。よく言えば恰幅がいい。だが、身長はこんなにも小さかっただろうか。
感傷に浸ることなど皆無だと自負していたが、さすがにほんの少しだけ、時間の流れを感じずにはいられなかった。
「お元気ですね」
「…………えぇ、これが……仕事なもんで」
思わず声をかけてしまったが、駅員はさして気にした様子もなく答えた。
「……そうですか」
それ以上お互いが発することはないと背を向ける。それは駅員も同じのようだった。
ただ、改札を抜ける間際、駅員はその帽子をわずかに持ち上げ小さく会釈をする。
――――それは次の二千年後までの別れを意味していた。
駅を出ると、目の前に広がるのは青々とした草原のような田畑。畑の隅には枯れ木とぼろ雑巾と雨風で萎びた麦わら帽子で作られた案山子が時折風に吹かれてゆらゆら揺れている。辺り一面に人工的に発せられている音はない。アブラゼミの大合唱が少し遠くなったような感じがする。その合間を縫って砂利道の上で転がるキャリーケースのローラーが削れていく音が紛れるくらい。本当にただの田舎道だった。そこをただひたすらに歩き続ける。
しかし、当てもなく歩いているわけではない。
《そこ》に辿り着くまでにはいくつかのプロセスと時間が必要だった。
今まで歴史の中でも『何かを新たに始める』時には、リターンに想いを焦がし憧れ過ぎて眼前のリスクを忘れ、結果手にするはずだった未来を棒に振ることもしばしば珍しくはない。
だとすれば、人が向かう道は何処に続いているのだろうか。
その道は何処へ流れ着くのか。
道の最果てたる終りを見つけた時、人は如何するのか。
先がないことに絶望し、終りを受け入れ滅びるのか。
それとも、その場所にさらに新たな『道』を創り、歩みを止めずさらに見果てぬ先へと進もうとするのだろうか。
ある学者は云う。
『生命は常に環の中に在り、巡り廻ってまた原点に回帰する』――――のだと。
ならばその環とは何処にあるのだろうか。
さらに言えばその原点とやら何処にあるのだろう。
世界中のあちこちを歩き廻ってみたが、未だにその場所には辿りつくことはない。
いくつもの時代を越え、
何度も違う君に出逢い、
いくつもの別れが訪れても、
この歩みを止めることだけはしなかった。
「…………常に、巡り廻る――」
いつの間にか握りしめていた左手をそっと開き、その手の中を見る。
もちろん、何も入っていない。
そうだ、この手の中にはいつも何もない。
君を造り出すことは出来ても、
君を守り続けることは出来ない。
生まれ、育み、老いて、逝く。
そうして君も、何度も、何度も、繰り返すのだろう。――――果てることのない、生と死の輪廻を。
其の度に、この手から生れ落ち、離れて往く。
「君が戻るのは、いつだって全てを終えて、『次』に進む時のひと時だけだね」
だから、君を厭う。
――――この心に、いつも寂しさを遺していくから。
だけど、君を愛おしくも想う。
――――限りなく長く永い時を待っていれば、いつか必ず此処に還ってきてくれるのだから。
そうして幾度も、幾千も、越えて。
「…………ただいま」
深い、深い、森を抜けると、其処は開けた草原でその中央に一つ佇む大樹以外何一つない。
大樹の根元までくると、荷を下ろして堅苦しかった上着を脱いだ。キャリーケースを持っていた右手で今度は大樹の幹に触れる。
「――――『人』として生きるのは、存外楽なことではないな」
ふう、と胸の奥に閊えていたものを吐き出すかのように息をつく。すると自分の足元からふわりと草が揺れ、地平の彼方へと続き流れていった。
神は願った。
自分と共に、自分と等しく在り続ける存在を。
神は願った。
たった一つの心を、自分の許に留め置きたい――――と。
しかし、そのどちらの願いも、叶うことはなかった。
「さて、少しだけお邪魔させてもらうとするかな。…………少しくらいなら、構わないだろう?」
愛おしむように幹を撫でると、大樹の根本に腰を下ろす。目を閉じるとどこからか吹き抜けてくる風が、まるで自分を歓迎し、これまでを労わり、そして大きく包み込んでくれる揺り篭のような暖かさ感じた。
《――――》
少しだけ目を開き、微笑んで、また目を閉じる。
そよぐ風の合間に、懐かしい声を聴いた気がした。
もう君がどんな声だったかも忘れてしまったのに……いや、たくさんの君と出逢い別れてきたから、たくさんの君の声がしたのだと思う。
風に揺れて生い茂る新緑の大樹の枝に、一つだけ小さく膨らみ始めようとしている蕾があった。
いずれは小さく白い花を咲かせ、
ゆっくりとその花弁を散らしながら、
満つる生命の紅い実を成す。
そうしてまた、時が満ちれば再びこの地に転がり落つるのだろう。
「――――それまでわたしも、ほんの少しだけ、休むとしよう……」
時になれば、彼がちゃんと迎えに来てくれる。
君が愛してやまないアダムは、いつだってこの世界中のどこにいても必ず君を探し出し、その腕で君を優しく包み込んでくれるのだから。
わたしがいれるのはその束の間の間だけ。彼が来る少し前にはここを去らねばならないが――――。
「君は決して独りではないよ。……だから、今は安心して眠りなさい――――エヴァ」
それまでは、二千年後の君へ永久の愛をささやき続けよう。
【終】
#創作文芸:*.jp 18th掲載作品。
当時のペンネームは【夕埼灰嶺】でした。




