二、【虚空】
二、【虚空】
やがて傷は治り、その代償とばかりに時は経つ。
同時に、家族が時偶口にした『何時かの時に備えて』と言う言葉に、不安が募る。
今の自分に、家族が恐れる災厄を払えるのかと。
それ程の実力が、今の自分にあるのかと。
今、ハッキリと抱えているのは。
唯の、虚空だ。
「いよいよ、明日か」
悩みは尽きない。つい明日にまで迫った『侵犯の森』への遠征は、ヤマトに、過剰なプレッシャーと、苦悩を募らせる。
気が紛れるかなぁ、等と思って口にした言葉も、やはり残響を浴室内に響かせるばかり。何も変わりはしない。
湯船に浸る体は、年相応とは思えない程引き締まり、その割に傷一つなかった。
余りにも不釣り合い。確かに戦闘経験と、戦闘力は不釣合であった。ティグリスの残した言葉が、浴室ではなく、ヤマトの脳裏に何度も刻まれる。たった一言が、今のヤマトに決定的な亀裂を与えた。
「不釣り合い、不釣り合い」
何度も反芻すればする程、到来する無力感。何時か、それに怒りを感じた事もあった。だけれど、今のヤマトに怒る理由は無くむしろもっと言えと、そう嘲るように自嘲を繰り返し言葉を反芻する有様だ。
自身が弱いのはとうに自覚しているつもりだったのだが、どうやらつもりで確定らしい。もし本気でそう思っていたなら、ここまで落ち込む必要は無かったはずだ。
そんなヤマトを、家族が案じている事も知っている。だが、そんな家族の反応はむしろヤマトの良心を痛めるばかりで、救いとは到底言えない。
そうした中、迫る明日。日程は余裕を持って組まれており、そこまで急ぐ理由はない。それだけが、唯一の救いであると言えるだろう。
「こんな言葉に、どうして」
嘗てのヤマトは、これ程脆弱ではなかった。
己を否定する全てに巨悪を振り、眼前に迫る邪魔を片っ端から叩き潰せる、真の強者であり、仮令どれだけ驕ろうと、ジャンヌ以外にヤマトを打倒しうる存在はいなかった。
それが、今となっては単純実力では二流も良い所。辛うじて一流と呼べなくはないが、それも実戦となれば霧散する、何とも悲しい現実だ。
だからこそ、無力感がより強くヤマトを蝕むのだ。決して言えない傷が、徐々に徐々に、その命を刈り取るかのように、目に見えない感情が、少しずつヤマトを蝕む。
だが、辛うじて理性を保っていられるのは、やはり二度目の人生だからだろう。既に一度、同じ無力感を前世の幼少時に感じ、失敗を犯した事への訓戒が、今のヤマトを瀬戸際で食い止め、理性を保たせている。
だが、何時かはそれも消え失せ、もしかすればその時、ヤマトの心は崩壊するかもしれない。だからこそ、此度の遠征に過剰なプレッシャーを感じるのだ。
強くならなければいけない。その尽きない渇望が、今のヤマトを焦らすのだ。唯それだけが、今のヤマトを蝕むのだ。
焦れる思いを、満たす以外に解消させる方法を、ヤマトは知らない。
やがて意識が朦朧としてくる。それも当然で、如何せん思考が深すぎた。何時の間にか逆上せていたのだ、良い加減顔が火照って仕方がない。
深い深淵へと引きずり込む何かに抗うようにして体に力を込め、湯船から起き上がる。瞬間、全身に到来する僅かな冷気に意識が多少マシになり、ここぞとばかりに出口へと歩く。
(あれ、どうしてだ? 何か、目が・・・・・・)
だがその最中、視界が急に歪み、脳天の辺りに不快な感覚が生まれる。そう認識した刹那に、足が滑る。
(あ、ヤバイな、これ)
思考がズルズルと深淵に引きずり込まれ、直後、激痛と共に眠りに落ちた。
目の前に倒れる少年への罪悪感で、アリスの心臓は潰れそうだった。
何故ならば、彼がこうして倒れる原因は彼女にあるのだから。だが、もし彼に理由を尋ねられれば、アリスは何も言えなくなってしまう。そうなった時は、どんな処罰でも甘んじて受けよう。そう思っていた。
「良し、先ずは体を拭くとするか」
「そうですね、義母様」
だが、背後に佇む二人の爛々と輝く目を視界に入れた今では、どうしても理不尽を感じてしまう。
「あの・・・・・・奥様、大奥様、一体何を」
既に理由は承知しているつもりだったが、まさか本当にそれを実行には移しまい。
そう願うアリスの思いは、ものの見事に直後破砕される。
「言った通り、ヤマトの心労を少しでも癒すのさ」
「ええ、こうゆう時は、欲望に身を委ねるのが通説なの」
「はあ・・・・・・」
既に付いて行けない。そう観念したアリスは、罪悪感を感じながらも彼女達の行為を傍観する事に決め込んだ。
事の始まりは今から数分前に遡る。
突然アリスの尊敬する治療魔導師であり、ヤマトの祖母でもあるヤヨイから、声を掛けられたのが、事の始まりだった。
「アリスちゃん、アンタもしかしたら催眠の魔術とかって使えないかい?」
そう突然聞かれたのがいけなかった。突然の不意打ちと、尊敬する治療魔道士から声を掛けられたと言うその二つに、体が敏感に反応してしまったのだ。
「え? は、はいっ、一応使えますけど」
この時、いいえと答えられならな、と今更思っても後の祭りだ。
アリスの工程に、瞬く間に目を輝かせるヤヨイ。
「本当かいっ? 凄いじゃないか! そう、まさにこれは神からの恩恵・・・・・・ミヤちゃん、この機は活かさなければね」
「そうですね、折角の機会。それも神様からの恩恵ともなれば、私達にも意味が生まれるというもの」
何やら神だとか意味だとか言っているが、要はアリスを利用したのだろう。
昔からそう言った利用やら何やらには敏感で、そのお陰もあってか貧民街での生活で大きな問題は生じなかった。
「アリスちゃん、お願いがあるんだよ。
ヤマトは今、夜も満足に眠れない程落ち込んでいてね。でも、かと言ってヤマトに予め言ってしまえば、ヤマトはきっと断るだろう。だから、私が魔術を探知されないようにする間に、ヤマトに催眠の魔術をかけて欲しいんだよ」
こうして、今に至るのだ。
確かに、傍から見れば、ヤマトを救う事になるかもしれない。だけれど、この二人の欲望に忠実過ぎる瞳を覗けば、救いとは到底程遠いのだ。
(申し訳ない事をしちゃったな)
やはり、利用される側にも非はあるのだ。後でどんな仕打ちでも受けよう。そう心に決めて、アリスは傍観に徹している。
その間に、体を吹くという名目でヤマトの彼方此方で黄色い声を上げる二人。
段々と膨れ上がる罪悪感から逃れるかのように、アリスの意識は眠りに落ちていった。
「作戦完了だね」
「徹頭徹尾、準備万全ですね、義母様」
「ふふふ、アタシらだけじゃなく、年頃の少年少女達に付き纏う三大欲求の解消に手を貸してやるんだから、全く、良い仕事をしたもんだよ」
「ええ、早く孫の顔を見る事が叶えば・・・・・・」
「念願の曾孫・・・・・・それまでは死ねんね」
こうして、とある企ては実行されるのであった。
「全く、女ってのは・・・・・・」
扉を一枚隔てた先に居たガイトはやり切れない様子で溜息を吐くと、扉の先に居る者達に悟られぬよう、気配を殺してその場から立ち去った。
とにかく、温かった。
温い、途轍もなく温い。
温かい何かに包まれながら、ヤマトは目を開く。
そして、気付く。
眼前にある安らかな寝顔に。
穏やかで、警戒心の一切を感じさせない、見ていて気持ちのいい寝顔。
閉じられた瞳に、微笑を讃えたその寝顔は、寝起きに拝めば天使ではないかと幻想させる。見蕩れ、言葉を発する事なく、緩やかに時間が過ぎ、そして微睡みの意識が溶け始める。
時間を掛けて、ゆっくりと覚醒する意識。朝日は昇り、窓辺から差し込む陽光が意識の覚醒を促進させる。
小鳥の囀り、木々の風に靡く音だけが、静謐な雰囲気を飾り立て、覚醒する意識を再び微睡みへと引き寄せる。
だが、その前に。
事は起こった。
「むにゃ・・・・・・」
そう、起きたのかと思った一瞬。僅かに動じたヤマトの左腕は、丁度向かい合うアリスの顔の下敷きになっていた。
左腕の極僅かな動作に、現在睡眠中のアリスが反応(?)し。
「なっ」
「お母さん」
そう寝言を零しながら、ヤマトの方へと更に身を寄せて来た。それこそ、もう後数センチで唇と唇が重なり合う距離にまで。
ヤマトの逞しい胸板に突如密着したアリスの肢体は、どうしても女の子であり、それ以外に感じる事は不可能だった。
自然と早まる鼓動を沈め、何とかして距離を取ろうと考えるヤマト。普段では考えられない程慌てるヤマトは、背中に冷や汗を流し、結果何も出来無い事実に直面した。
唯一動かせる右手だが、アリスが乗っかるようにして左足をヤマトの下半身に絡めてくるので。全くの意味を成さない。
諦めて再び寝落ちる事を決意したヤマトは、事の成り行きをアリス達に任せようと意識を強引に――
「お母さん・・・・・・行かないで」
眠りに就かせる事は、出来無かった。
穏やかな寝顔に、突如として涙が流れる。
何か悲しい夢でも見ているのだろうか、その表情は切なく、絶望から必死に目を背けるかのように両目は強く閉ざされる。閉ざされた瞳の間から、少しずつ溢れる雫がヤマトの左腕に一滴、二滴と滴る。
呆然とする他、無かった。
泣いた女の子を励ます対人スキルは持っていなかったし、果てには眠っている最中に涙を流した場合、励ますも何も無いだろう。
かと言って、このまま見て見ぬ振りはヤマトの良心が許さなかった。
そんな困惑の中、自然と空いた右手が動いた。
アリスを優しく、優しく撫でる右手に、自然と慈愛の感情が湧き上がる。
ヤマトの胸中に去来する慈しみの感情は、自然と焦るヤマトの心に、平常心以外の何かを植え付ける。
「大丈夫、大丈夫だ」
勝手に溢れるその言葉に、意味は無かった。気休め、その程度の意味すら持たない言葉が、果たして悪夢に蝕まれる彼女を救うとは、何時ものヤマトなら思わなかっただろう。だが、今のヤマトには、微塵とそんな思いは無かった。
これが正解だ。疑う余地もなくそう確信するヤマトに、根拠はなかった。
意味もなければ、根拠もない。だけど確実に、アリスの救いとなった。そう信じるのは、傲慢なのだろうか。
誰かを救ったと、意味も根拠も無しに思うのは傲慢なのだろうか。
薄れる意識の中で、そんな疑問だけが浮かび上がっていた。
「あ、あの・・・・・・」
突然呼び起こされた意識は、今度こそ確実に覚醒する。
誰かの温もりは未だ消えておらず、先程よりも更に強く感じる。しかし同時に、全身に伸し掛る様なこの圧迫感は何だろう。そう思って目を開き、その光景に愕然とする。
文字通り、伸し掛っていた。誰が? アリスさんとやらが。
「はぁ?」
唯一絞り出せたのは、たったその一言だけだった。
「そ、そのぉ」
アリスも恥ずかしそうに、どころか顔を熟れた赤リンゴのように染めて、それこそヤマトにしか届かないような小声で。
「ごめん、なさい・・・・・・そのぉ、昨日は私の所為で、こんな・・・・・・何でも、言う事聞くので・・・・・・」
どうしてこのような状況に陥ったのか、考えれば容易い。
先ず、アリスがこの様な状況に貶めるはずがない。
そして、爺ちゃんもまた同様。
考えられる、と言うか、仕組んだと断定できるのは、婆ちゃんと母さん。
あの二人で確定だろう。
「大丈夫、大丈夫だ、そんな気にする事はない。どうせ婆ちゃんと母さんの仕業だ、君が気に掛ける事は何も無い」
どうしてアリスがこんな罪悪感を覚えているのか、それについては何も分からないままだが、今日から二人きりで遠征に出掛ける相手と、コミュニケーションすら満足に取れないのは不味いのだ。今は必死になってアリスを宥める。
「それと、出来ればこの体勢を解除してくれるとありがたいなぁ、とか」
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げてアリスは飛び退いた、事が災いしたのだろう。空気を全く読まないシーツがアリスの足を取って再度、アリスを滑らせる。
(――成程、つまりドジなのか)
大変アリスには失礼だが、これはもう確定だろう。間違いなく、アリスが謝ったのは己のぶきっちょさだ。
「ったく、そそっかしいな」
勢い良く上半身を起こし、倒れてくるアリスを抱き止める。
呆れ半分、納得半分と言ったヤマトの感情は、どうしてだかアリスを受け入れていた。
「っ! ――――っ! そ、その!」
慌てて謝ろうとするアリス。そんなに俺は恐ろしいか? とも多少思ったが、わざわざ指摘する程気にしてはいない。
「気にしなくていい。それより、男と密着している事を恥ずかしがれ。そんな謙虚じゃ何時か襲われるぞ」
半ば忠告のつもりで言った言葉に、アリスの赤い顔が更に赤く染まる。そのままフリーズしたので、そっと抱き上げ、ヤマトが降りてから再びベットに寝かせ、後ろ手に手を振る。
「とにかく、気をつけろよ。君は、俺から見ても可愛いんだから」
「ふぇ?」
アリスの反応は気に留めず、何時もの日課をこなすべく中庭へと行く事にしたヤマトは、どうゆう訳か違和感の感じる右目に不安を覚える。
(病って訳じゃないだろう、だが一体、どうしてこんなタイミングで)
ある意味最悪だった。何が災いしたのかは分からないが、僅か二人でこれから『侵犯の森』へと出かけるのだ。片眼を失うのは何とも心許ない。行く時に婆ちゃんに看て貰うか、多少迷ったものの、結果看て貰う事に決め中庭へと向かった。
「おや、ヤマトや・・・・・・何か、纏っとる雰囲気が変わったのぅ」
出発を目前に控え、ソワソワするヤマトをガイトはそのように評した。
「そうかな、爺ちゃん」
自分自身では全く気付かなかったが、もしかすればそうなのかもしれない。きっと、今朝の出来事の所為だ。
「ああ。何かに、救われたのかい?」
「確かに、救われたな。予想外の人物に、ね。てっきり、父さんか誰かだと思ってたんだけれどなー」
「そうかそうか、先ずは上々の一歩じゃ。そのままゴールインするのも、お主らで確かめ合うが良い、それも人生の一つじゃ」
「いやいや、経験豊富な爺ちゃんに言われるとどうしても真面目に受け取っちゃうから変な事言わないで! 今の俺には、そんなつもりは一切ない。唯、誰かを身勝手に救う事の意味に気付いただけさ。
それは、失った空白の一部を、今も埋めてくれてるからさ。失った一つに、それがあるんだ」
前世の俺も、やはり自分勝手に全てを進めた。そこに、理解が生じるはずもない。
今の俺には、救えるものなんて無いのかもしれない。だけど、俺の自己満足だけで済む世界の空白ならば、きっと救えたと信じるだけで良い。
嘗ての俺と、同じように。
空虚な世界は、今の俺に存在しない。
失ったなら、埋めればいいのだから。
焦って、焦って、どうにかして強くなる。
救いを求めて。