イマジネーション・ガール
溶けかけのチョコレートがすきだ。
甘ったるくて安っぽい味、まるでわたしみたいだな、っていつも思う。
恋にかこつけて考え方も価値観も変えてしまったから。
真っ赤な街の雑踏を気にしないようにくぐりぬければ、茶色いわたしの家が待っている。
決して大きくない鞄には、わたしの相棒の本が一冊と板チョコレートが一枚入っている。
何度も何度も読み返されてよれてしまった紙はそれでも、文字を守るように…いっそ閉じ込めるみたいに、すこしも破れてはいない。
何も飛んでいない空を見て、考える。
もしもこの本が鳥だったら。
ばさばさと音を立てながら、空を飛ぶのだ。
もしもこの鞄が飛行船だったら。
何よりも高く飛んで、あの国へ行くのだ。
銀紙から取り出して口に含んだひとかけのチョコレートが、じわり、溶けた。
この街だって、熱さのせいで溶けそうだ。
茶色い家に戻ると、彼はもう帰っていた。
密かに歌手をめざしているという彼の歌が聞こえた。路上ライブをやるたび人を驚かせるらしい歌声を持つ彼の、そのライブに行ったことはまだない。
「どうしたの、遅かったね」
家の中は、家というよりはあなぐらというような暗さで、彼の顔ははっきりと見えない。
ぱらり。どこからか、なにかの音がした。
「うん、ちょっとね、散歩」
「こんな時間に、危なかったんでない」
くつくつと笑う彼を見て、見ているうちになんだかとても憎たらしくなって、鞄から取り出した相棒を開く。
「ああ、またそうやって僕の話を聞かない」
「うるさあい」
ぱたんと相棒を閉じると、彼と目が合った。
青い目。綺麗な、青い目。
狭くて暗いあなぐらの中、わたしは彼と見つめ合う。
まるでお互いに溶かされるチョコレート、甘ったるいなあ、ちょっと苦いな。
黒い目に青い目を吸い込んで、ぐるぐるっと、溶け合うように感じた。
「ていうかね。ニムロッド、いいの?わたし、知っちゃってるけど。いろいろ」
「いいんだよ、べつに。僕だって、きみにくらい知られても、痛くはないさ」
「痒くはあるのねー」
くつくつ、今度はわたしが笑ってやる。
ぴかっ、と外が光って、それから大きな音がして、あめだまみたいに空から降ってきた。
「そろそろ降るかなって思ってたよ」
「しばらくは外、出れないねえ」
すっごくひとごとみたいにして、そろそろと入り口から僅かに離れた。固くなったご飯を食べる。
「ねえ、アメリカのひとも、お米食べるの?」
「べつに食べないわけじゃないけどね。パンとか、パスタとか。そういうもののほうが、多いと思う」
「ふうん、贅沢ね」
男の人は見栄っ張りなんだって、死んだお母さんが教えてくれた。
相槌をうてば彼は満足そうに頷いた。
「明日かあ」
呟けば、彼はすこし渋い顔をした。
「こら。本当は秘密なんだから」
ばららっ、と本のページをめくる。明日がんばってね、と投げやりに言った。
「ねえ、なんでそんなに日本語、上手いの?」
「ううん、そうだなあ、君と話したいって思ったからかなー」
「嘘ばっかり。前から話せてたくせにー」
くつくつ、今度はふたりで笑って、ぱらら、崩れる茶色い壁を見た。
「もう寝る?」
「あなたはもう寝たほうがいいんじゃなあい、明日が本番なんでしょう」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
布団なんてないから雑魚寝だ。
なんとも言えない古臭いにおいにつつまれながら、わたしも寝っ転がる。
「明日は外に出ちゃだめだよ」
「わかってるよう」
おやすみ、同時に言ったのが嬉しくって、すこし笑った。
「トラ、トラ、トラ」
「トトトトト、って、こら」
つぎの日起きれば、もう彼はいなかった。
ラジオで時報を聞く。
「…午前八時をおしらせします」
あと十五分で始まるんだなあ、彼の合図が、彼の声がたくさんの人を熱狂させるのだ。
無性に会いたいひとたち、たとえば友達の顔なんかが頭に思い浮かんだけれど、もう遅い。
ばらっ、本を開く。
思い立って銀紙も開いてチョコレートを口に含んだ瞬間、家の外から大きな音が聞こえた。続いてたくさんのひとの悲鳴も。
彼だ。
そろり、すこしだけ家から顔を出して空を見た。
ひとつの飛行機と、その近くにきのこ雲が見えたから、すぐに防空壕の奥に引っ込んだ。
彼が帰ってきたら、早くこの街から、一緒に、逃げよう。
すこし経つと、ざあざあ、黒い雨が降った。またしばらく出られそうにないなあ。
わたしが戦争に対して持っているイメージはチョコレートです
最後までお読みいただきありがとうございました!