恋人
遠野が出て行くとしばらく誰も、情報処理準備室を訪れるものはいなかった。すでに時刻は十八時になりつつある。三岳先生、遠野と二人が続いた。普通の部活ならそろそろ終わりの時間だ。今日はここが頃合かもしれない。
「今日はもう来ない」、と僕は決め付けて帰り支度を始めた。そこへ、
コンコン、コンコン。
情報処理準備室の扉がノックされた。この部屋を訪れるものでノックという高等な常識を身につけているものは少ない。特に畑井や遠野は常識というものを知らないのかノックを行って入ってきたことは一度もない。
「はい、どうぞ」
僕が返事をするとひとりの女生徒が入ってきた。長い黒髪を後ろでくくり、少し小ぶりのメガネをかけている。僕は彼女を見たことがあった。
「畑井君から言われてきました。図書委員の森崎です」
そう、森崎さんだ。図書室で何度か貸出カウンターに座っているところを見たことがある。
「新聞部の遠方です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
森崎さんはそう言うとはにかんだように微笑んだ。そして、僕に尋ねた。
「四人がけの席にカップルが座っていたら、遠方君はそこに座りますか?」
余計なものが一人いる。
それは私だ。酢豚の中に入れられたパイナップル。ポテトラサダに入れられたリンゴ。それがまさに今の私だ。私が何を言いたいかといえば、カップルと相席することほど気まずいことはない、ということである。
現に私は新庄さんからの「どうしてあなたがここに居るの? 邪魔なの分からないの?」、という強烈な視線攻撃を受けている最中なのである。そりゃ恋人とラブラブ学習中に同席したことは悪いと思っています。ですが、私にも言い分というものがあるのです。それは今を遡ること、一時間前の話です。
私は、今年の年末に差し迫った受験勉強のために夏季特別講習を受けていた。これはセンター試験対策として私の通う四乃山高校で毎年行われているもので、国語、数学、化学、歴史、英語の中から苦手な教科を選んで集中的に学習するプログラムである。私の場合は数学と化学、英語が不安なので、この三教科を選択した。
一教科、二時間制なので化学が終わると歴史の講習が終わるまで二時間待たなければならなかった。そこで私はこの二時間を有効活用すべく、図書室へ向かった。図書室は職員室と合わせて唯一、校内で冷房が完備されている場所である。そのため、夏休みといえども図書室には結構な生徒がいた。
空いている席を探しているとちょうど四人がけの机が空いていた。
机のうち一席にはすでにノートと筆記用具が置かれており、誰かが陣取っていることが分かったが残りの三席には何も置かれていなかった。私はちょうどいい、とばかりに専有されている席の斜め前の席に陣取ることとした。
席に着くため椅子を引くと、ズズっと嫌な音がした。
着席した私が化学の問題集を開いたところで一つの問題が生じた。
睡魔の到来したのだ。十時から数学をみっちりとこなし、昼食を済ませたあと十三時から化学をこなした私の集中力はすでに限界だった。化学式やイオン交換の図式は意識とともにどろどろと溶け合い最後は全くの無へと沈んでいった。
気がつけば、私は問題集に頭から突っ伏していた。
咄嗟に口元に手をやると口から溢れ出したよだれが垂れていた。あまりの恥ずかしさに周囲を見渡す、と斜め前の席に三組の新庄さんが座っていた。私が苦笑いをすると彼女も苦笑いで返してくれた。私と新庄さんはそんなに親しい仲ではない。クラスも一緒になってことはないし、女友達のグループも新庄さんとは違う。せいぜい、三クラスクラス合同の体育の授業で一緒になったことがあるくらいである。
それにも関わらず、私が新庄さんを知っていたのにはワケがある。
新庄さんは、女子が憧れるカワイイを凝縮した女の子だからだ。
顔は小さく、それでありながら大きな瞳。細く筋のとおった鼻だちに薄く形の整った唇。体つきも華奢で女の子である私から見てもつい守ってあげたい、と思うか弱さが溢れ出している。自分が彼女のような外見なら……、そう思って私は思考を止めた。
ないものねだりはいけないのである。
私は、涎でヨレヨレになった問題集をハンカチで拭いて眠りに落ちる前まで進んでいた箇所から再び勉強を開始した。一度寝たせいか、妙に頭が冴えて十分ほどでかなりの問題を解くことができた。
「ふぅ」
私は問題が解けた、という爽快感に浸りながら頭を上げる。ずっと下を向いていたせいで首が痛い。だが、頭を上げた瞬間、私はそれ以上の痛みを伴うモノを目撃したのである。
いつの間にか私の正面に男子生徒が座っており。新庄さんの顔を覗き込んでいるのである。彼の手は新庄さんの長い黒髪添えられており、艶やかな彼女の髪を撫で回している。この時の驚きは私の人生の中でも一番二番を争うものであった。まさか、自分が問題に集中している間に目の前でそんなことになっているとは予想だにしていなかった。
あの新庄さんとこんないちゃいちゃする幸運な男はどこの誰なのか。どんな顔をしているのか。私は出歯亀根性丸出しでチラチラと彼らの方を見るのだが、男は完全に新庄さんの方を向いて視線をそらさないので顔を見ることができない。
新庄さんの正面の席に移れば男の顔を見ることができるのだろうが、流石にそれは露骨すぎる。
そうこうしているうちに新庄さんは私が彼女を凝視していることに気付いたらしく、あの可愛い顔からは想像もできない怪訝な表情をした。私は慌てて視線を問題集に戻して何食わぬ顔で問題を解こうとするのだが、彼女とその彼氏のことが気になって問題どころではない。
なんとか顔を上げるタイミングを図るのだが、新庄さんに気づかれていると思うとなかなか難しい。気もそぞろのまま問題集に向かっていると、十七時を知らせる鐘が鳴った。私はいまだとばかりに顔を上げたが、正面の席にいた男性はすでにいなくなっていた。
私は顔を見ることができず残念だった、と思いながら問題集や筆箱を鞄にしまっていると新庄さんが、私の前に立った。口止めでもされるのか、と思っていると彼女は「ねぇ、大丈夫だった?」、と私に尋ねた。
「えっ、なんのこと?」
彼氏といちゃついていたこと? と一瞬言いそうになった。
「あなたの真横に座っていた男のことよ。ずっとあなたの頭や顔を触ってたじゃない?」
「それはあなたの真横に座っていた男じゃないの?」
慌てて彼女に問い返すと、彼女はぎょっとした表情で彼女が座っていた隣の席を見た。
「私の隣の席はずっと空いてたわよ」
「私の隣も誰も座ってなかった」
互いの顔を見合わせた私たちは、黙ってお互いの隣の席を見た。椅子の背はぴったりと机に付けられており、人がはいれるような隙間はなかった。
「誰がいたの?」
「私たちは男女が並んで座ってたりするとカップルだと思ってしまうけど、本当は違う人たちもいるんでしょうね」
「そりゃ、友達ということもあればただの相席、ということもあるでしょう。そういう僕たちだって外から見たら二人きりだし、そう見えるかもしれません」
僕はそういう、と照れくさくなって笑った。
森崎さんは、僕とカップル扱いされたのが嫌だったのか少し嫌な顔をすると「じゃーあなたの隣にいるのは誰?」、と尋ねた。
僕ははっと左右を見渡したが誰もいなかった。
「冗談です。驚きました?」
そう言って森崎さんは笑い声を上げたが、目は笑っていなかった。