鮒幽霊
「遠方いるか?」
そう言って情報処理室に現れたのは、一階下の三階に居を構える生物部の遠野だった。遠野とは畑井同様に文化部の総会や予算会議で一緒になることが多い。
「どうしたんだ? もしかして、畑井から言われて不思議な話を持ってきてくれたのか?」
「そうだよ。これは、生物部にまつわる話だ」
「夏休みだというのにどうして部活があるかなぁ」
沢田が溜息混じりに声をあげる。
「そりぁ、鮒に餌をやらなきゃいけないからだろ?」
「どうして、うちの部は鮒なんて飼ってるかなぁ」
「そりゃ、野間が去年の夏に飼うと言って、釣り上げたからだろ?」
僕は沢田のくだらない不平にイライラしながら生物教室の鍵を開けた。扉を開けると生暖かい空気が廊下に吹き出てくる。教室内は南の窓から入ってくる強い日差しによってサウナのように暑かった。
「うわぁ、窓開けよ。窓」
沢田は生物教室の窓を次々に開けていった。窓が全て開け放たられると、グラウンドの運動部の掛け声と一緒に風が入ってきた。僕は少しだけ室温が下がったような気がした。僕たちの通う四乃山高校は、築四十年を超えるオンボロ校舎でエアコンの類は何一つない。夏の暑さは耐えるしか術がないのである。
鮒のいる水槽は教室の西側に置いてある。
「で、なんで野間は鮒を飼うっていったんだっけ?」
「生物といえば鮒の解剖だから、生物部は鮒を飼うべきだ」
沢田の落ち着きのない声と異なる落ち着いた声が生物室に響く。教室の入口をみると幽霊部員の野間が立っていた。授業があるときでさえ顔を出さない野間が現れたことに僕は驚いた。
「でも、俺ら解剖しないじゃん」
「沢田したいのか? 俺はしないよ」
野間は鮒のいる水槽に近づくと、コンコンと小さく水槽を叩いた。振動を感じて二匹の鮒が水面に上がってくる。いつも僕は餌を与える前に水槽を叩くのである。鮒もそれを覚えているらしく、振動を感じると、こうやって水面に口を出すのである。
「じゃー、こいつらなんで飼ってるのんだよぉ」
「マスコットキャラみたいなもんだよ。部員勧誘のポスターに使えるかもな。みんなも生物の神秘に触れよう! みたいな感じで、キャラクター名は鮒のフナっしーとかどうだ?」
絶対にだめだ。なにかとんでもないものに引っかかる、と僕が言うと野間は「残念。いいと思ったのだが」と口惜しそうに苦笑いをした。思いのほか気に入ったネーミングだったらしい。野間が水槽に餌を投入すると水面がパシャパシャと音を立てた。
「俺もエサやりたい」
沢田は野間から餌の袋を受け取ると、餌をボロボロと勢いよく放り込んだ。僕と野間が真上から水槽を覗き込むと、二匹の鮒はお腹がいっぱいになったのか、沢田の入れた餌に興味を惹かれない様子だった。
「沢田入れすぎ」
野間は呆れるような声で沢田に叱責するが、沢田は気にする様子もなく「お盆のあいだは来れなくなるからこれくらいやっておかないと」、と言った。確かに来週からお盆である。その間は、高校の門も閉ざされ出入りはできなくなる。
「それもそうだな。お盆は来られないからな」
水槽を眺めながら野間が寂しそうな顔をした。野間もお盆は実家に帰らなければならないのだろう。僕もお盆には京都にある父の実家に遊びに行く。正月と違ってお年玉がもらえないのは残念だが、仕方がない。
そんなつまらないことを考えていると教室の戸口から白衣の男が顔を出した。顧問の和田先生である。
「あれ? 今日は生物部いるのか?」
和田先生をよく見れば、ヒゲがまばらに生えている。夏休みで授業がないので気が抜けているに違いない。僕が「餌やりだけですよ。今日はこれで帰ります」、と言った。
「せっかく来たんだ。しばらく何かしておけ。あとで頼みたいことがある。ただ、大体のことは認めるが、水の事故と異性不純交遊はやめてくれよ」
夏の火遊びというべきなのだろうが、この生物部の部員の中にはその手の甲斐性があるものは皆無である。和田先生は言いたいことだけ言うと職員室の方へと消えていった。僕は先生の背中に「頼みごとはいいですけど、ジュースくらいは奢ってくださいよ」と声をかけたが返事はなかった。
「何かしておけと言われてもな」
「何もないよなぁ」
僕らはゆっくりと生物教室を見渡したが、特になにかあるわけでもなくお互いの顔を見合わせた。どうするものか、と思案していると沢田が「おかしくね?」と大声を上げた。
「なにがだ?」
「それだよ。ソレ」
沢田は手を大きく動かして水槽を指差す。水槽は近くのホームセンターで買ってきたもので特に変な様子はない。僕がなにがおかしいのかわからずにいると「分かった」と野間が言った。
「鮒が一匹多いな」
野間は水槽のそばにしゃがむと、水槽の側面から見える鮒の数を数えてみせた。
一匹、二匹、……三匹。確かに先ほど上から覗いたときよりも一匹多い。もう一度、確認するために水槽を上から覗き込むと鮒は二匹しかいなかった。おかしい、と思い再び側面から見ると間違いなく鮒は三匹いる。
「なっ、おかしいよな」
沢田が水槽の上と側面から交互に覗いてみせる。一体どうなっているのだろうか。野間も僕と同じように水槽を食い入るように見つめる。
「まるで龍安寺の石庭だな」
野間がつぶやくと「なんだそれ?」と沢田が訊いた。
「この間、日本史でやっただろ。室町時代の代表建築。龍安寺にある石庭には十五個の石が置かれているが、縁側から庭を眺めると必ずどれか一つの石が他の石に隠れてしまい十四個しか見えない。一度に全ての石を見る方法は真上から見るしかない」
確かに今、僕らの目の前で起きているのは龍安寺の石庭に似ている。だが、あれは側面から石庭を見ると石が一つ減るが、これは側面から見ると鮒が増えるのである。減ると増えるでは大きな違いである。
「おー、野間頭いいなぁ」
沢田が感嘆の声をあげる。この龍安寺は、期末テストで出た問題である。僕はよく沢田が赤点にならないもんだとそちらにも驚いた。
「余計な鮒がいるな」
「これがホントの鮒幽霊ってやつ?」
沢田のくだらない冗談がツボに入ったのか、野間が笑いながら答える。
「穴のあいた柄杓で掬ってみるか?」
穴があいていれば水も掬えないし、鮒は更に掬えない。全く沢田の冗談も救えないが、野間も救えない。こんなのだから……。
「おい、盛り上がってるとこいいか?」
急に背後から声がして、振り返ると和田先生が立っていた。白衣は職員室においてきたのか和田先生はスラックスにシャツという出で立ちに変わっていた。
「あっ、先生。鮒が増えてるんですよ!」
沢田が大きな声を出しながら水槽を指差す。和田先生は中腰になって水槽を覗き込んだが「二匹しかいないじゃないか。沢田、お前は足し算もできなくなったのか?」と呆れ顔で言った。
「それはそうと頼みごとってなんですか?」
片手に自動車のキーを持っているところを見ると僕らに買い物の荷物持ちでも頼む気なのかもしれない。この暑い中荷物運びだとすれば、ジュース一本では割に合わない。アイスも追加して欲しいところだ。
「ああ、そろそろ野間の命日だから墓参りに行くぞ。まったく鮒釣りにいってバケツに二匹の鮒を残して、溺れているのだからあいつも救えないやつだ」
和田先生は少し影のある口調で言った。
僕は和田先生に「あの幽霊部員ならたまに来てますよ」、と言おうとしたが鮒幽霊ともども野間の姿は生物教室から消えていた。バツが悪かったのだろう。
「いま、鮒は何匹いるんだ?」
僕は恐る恐る、遠野に聞いた。
「三匹だよ。上から見ても横から見ても三匹だ」
「じゃーもう増えないわけか。ちなみに幽霊部員はいるのか?」
遠野は僕の問いに曰くありげな微笑みを浮かべると「いるよ」、と答えた。




