副担任
畑井からよけいな月を見せられてから数日後、校内の辺境と言うべき情報処理準備室に最初の客人が現れた。
「まさか、最初の人が三岳先生とは思いませんでした」
「畑井にしつこく言われてな。まぁ、仕方なくというやつだよ」
三岳先生は数学教員でこの四乃山高校に勤務しだしてからすでに十年近いと言われている。教え方も丁寧で、生徒からの人気も高い。僕は文系で数学は苦手だが、先生の授業はわかりやすい、と感じている。
「すいません。でも、まさか先生から不思議な話を聞けるとは予想を超えています。先生は数学といっしょで割り切れない物は信じない人だと思っていたので」
先生は、少し驚いたように笑うと「そう見えるかな。この年になると割り切れないものの方が多いと思うようになるのだけどな」、言った。
「さて、それはそうと話を始めようか。これは私がこの学校に着任した時に聞いた話だ」
体育祭や文化祭のクラス写真に余計なものが写っている、と感じたことはないだろうか?
私は、クラス写真を見るたびにそう思う。
得意げに笑う男子生徒や女子生徒。それら子供に混じって彼らよりもはるかに年齢を重ねた大人が写りこんでいるからだ。そんな風に言うと、心霊写真の話かと思われるかもしれないがそうではない。写りこんでいる大人は、教師である。
ひとクラス三十人の子供に混ざりこんだ唯一の大人。それが教師である。
教師になって十年。私は自分が異物なのだ、と感じ続けている。
担任となれば、その気持ちはより強くなる。体育祭や文化祭などの年中行事を生徒たちと一緒に作り上げていく、そこには帰属意識も連帯感も存在する。だが、教師と生徒ではどうしても根っこの部分で混ざり合わないものがある。ゆえに、仲間意識は生まれない。
アヒルの群れの中に白鳥が入るようなものである。
いずれは、はじき出されてしまうか、自ら外へ出ていくしかない。
私は六年前に大きな失敗を犯した。父兄や生徒、果ては同僚の教師からも『ダメ教師』の烙印を押される結果になった。多くの人々から非難され、もっと良い方法があったのではないか。もう教師を辞めてしまおう、とさえ思ったが私はなおも教師という職にしがみついている。
それは、教師になることが私の幼い頃からの夢だったからだ。私はそれをどうしても手放すことができず、いまもずるずるとこの四乃山高校に残っている。
同僚からは、「お前は教師に向いていない。正義感だけで突っ走るような熱血先生はイマドキではない」、と嘲笑われた。その一件以来、ダメ教師である私に担任になれずにいる。いまは後ろから担任と生徒を見守り続けるだけの立場である。
「おい、お前らいい加減にしろ! 俺の授業を聞け!」
男の声が教室中に響き渡り、私ははっとした。
前の方を見れば男が顔を赤くして教卓を激しく叩き、声を荒げている。叩いた拍子に教卓の上にあったプリントや筆箱が落下し、ボールペンや色ペン、カッターナイフなどが床に散乱した。生徒たちは一瞬だけ男を見ただけで特に驚いたり、怖がる様子はなかった。ある生徒はすぐに目を落とすと数学の問題集を黙々とこなし、別の生徒は隣の席の生徒とお喋りを続けた。それは教壇に立っている男がいないとでも言うような風であった。
男はなおも大声で生徒たちを怒鳴り散らしたが、反応する者はいなかった。男の存在が生徒から見えていない訳ではない。彼は現実に存在している。ただ、生徒たちが彼の存在を無視しているだけである。
有り体に言えば、彼は生徒に虐められているのである。
始まりは些細なことだった。
服装への指導が厳しい。指導の仕方が横柄である。特定の生徒に対するえこ贔屓がひどい。そんなものだった。怒った一人の生徒が、彼を無視するようになるとそれはクラス全体へ拡がっていった。そして、いまでは彼を認める生徒は誰ひとりいない。
本来ならば、私が止めるべきだった。
だが、私はそれを止める努力をしなかった。私はひたすらに彼の存在がクラスの中から失われていくのを傍観し続けたのである。彼は何度か私の方を向いてすがるような目を向けた気がするが、私は生徒と一緒になって彼を無視した。
六年前、私に「教師に向いていない」と糾弾したのが彼であった。ならば、教師に向いてない、私からの言葉や手助けは不要であろうと、私は彼に何もしなかった。彼も自分自身の言葉を覚えているのか、私に「助けてくれ」とは言わなかった。
「俺を無視するな! 前を向け!」
彼はさらに大声で生徒に詰め寄ったが、誰ひとりとして彼を相手にする者はいなかった。授業の終わりを告げる鐘が鳴ると、生徒たちは彼を押しのけるように教室をあとにした。最後の生徒が教室を出て行くと、教室は私と彼だけになった。
彼は呆然とした表情で頭をかきむしり、その場に座り込んだ。
私は、この光景を見たことがあった。いや、正確には六年前の私がそこにいた。六年前、私も今の彼のように打ちのめされていた。私が初めて担任になったクラスで虐めが行われていることが分かったのだ。私は全力で虐められていた生徒を庇い、加害者の生徒を激しく叱責した。
「虐めなど最低の行為だ! あいつにお前がしたことをお前にもしてやろうか」
「お前のしたことを親御さんが知ったら、さぞ落胆することだろう。産んだことを後悔するかもな」
「遊びでしたなんて言葉が高校にもなって通用すると思うな! もうお前には責任があるんだ」
私は、加害者の生徒をひたすらに責め立てた。虐めは最低の行いだという信念があったからだった。指導することによって加害者にも自分の行ったことの愚かさを判ってほしい、と私は本気で思っていた。しかし、その結果はより愚かしいものになった。
加害者の生徒が、「僕は最低の人間です」と書き残し自らの手首を切ったのだ。
幸いにも発見が早く命は助かったが、私の指導は行き過ぎたものとして保護者や生徒、同僚たちから批難された。私は虐めという悪行を何とかしたかった。だが、そんな善意は誰にも認められることはなかった。
いまの彼の姿は、すべてに絶望した私を見るようだった。
「まだ、やり直せますよ」
自分でも驚くくらい自然に私は彼に声をかけることができた。
彼はひどく驚いた顔で私を見た。そうだろう、かつて自分がこき下ろした相手に慰められているのである。どういう顔をすればいいのか分からなくて当然である。
「お、俺は……」
彼は私の顔を見たまま眼に涙を流した。
「教師も人間です。間違える時もあれば、正解がわからない時もあります。それでいいじゃないですか。頑張りましょう。生きていれば、なんとかなります」
それは彼に向けたようで自分自身に向けた言葉なのかもしれない。この言葉が彼に響くかはわからない。だが、いまの彼なら私の言葉を受けいれてくれるような気がした。彼は袖で涙を拭うと、床に落ちているプリントや文房具を拾い上げ、最後にカッターナイフを手にした。
「……もう嫌だ」
そう言って彼は、カッターナイフで自らの首を搔き切った。あまりにも一瞬の出来事だった。教室は彼の首から吹き出した血で朱色に染まった。それは、私の死に様と全く同じだった。
「あなたも教師に向いてなかったみたいですね。もし、未練があれば私みたいになれますよ」
私は彼に声をかけたが、返答は帰ってこなかった。
話し終えると、三岳先生は少し寂しそうな顔でこう付け加えた。
「教師というのは、因果な商売だよ。どこでも、余計なものなのだから」