エレノアの旅10
「お茶をお持ちいたしました」
「ああ」
音一つたてずに茶を置くと、静かに頭を下げて下がる。
飲む側も音などさせないから、自然室内は沈黙に支配されることとなる。
あの諍いから数日が経った。
クリスの指摘に驚いたエレノアは、未だにファレルにどう接するべきか分からないでいる。また、ファレルの方もあれ以来気まずげである。
それでも侍女の仕事は続き、視察は続くのだ。
一行は風の精霊を祭る街、火の精霊を祭る街をめぐった。シェナイの態度はさすがに大人しく、またあれほど頻繁だった晩餐の数も減った。ファレルのシェナイへの態度は冷たいほどによそよそしく、そのため巫女は胸を痛めているようだった。
それでも朝に夕に、巫女の潤んだ瞳はファレルを追い続ける。整った面差しに影が差し、それが彼女を危うげな美しさに見せている。
エレノアは彼女の傷付いた横顔を見るとますます、ファレルに対してもシェナイに対してもどうするべきか分からなくなってしまった。
そのためエレノアは、侍女として、淑女として正しくあろうと努めた。
優雅に微笑んで佇み、空気の如く気配を消す。今もエレノアは極力壁と同化しようと努めている。こういう時には、自分の地味な焦げ茶の髪もありがたいものだと思えた。
またエレノアは、主の気まずそうな様子を察し、彼の公務の際もなるべく同行よりも文献の検討へ回ることにしていた。クリスもそれには賛成してくれたし、また他の随従にも、シェナイに敵視された彼女が内勤組に回ることは自然に映ったようだ。
こうしてエレノアは、ファレルの前では空気となり壁となり、ファレルのいないところでは雪崩づくりに没頭するという日々を送っていた。
次の通信の夜が来た。
エレノアはクリス相手に幾度か治癒魔法を試して効果を得ていた。しかし、その中でより重要なことに気付いており、そのことを伝えないわけにはいかなかった。
「ごめんなさい・・・治癒魔法を試すのは、やめた方が良いかもしれないわ。魔力を流すとどうしても魔力量の回復も早いようなの」
魔力が行き場を失って体内に溜まっている母にとって、魔力量の増加は根本的に病状を悪化させることになってしまう。
ハロルドは納得したように頷いた。
「手当で身体の衰弱は多少回復したらしいんだ。ただ、やっぱり目を覚まさないって」
「ごめんなさい」
再度謝ったエレノアに、水面の彼は首を振って見せた。
「ろくに食べることもできない母さんには、身体を回復させる必要があったはずだよ。根本解決にならないのは確かだろうけど、気にするべきところじゃない」
そして話を変えた。
「こちらはまだ混乱していて、日記をとりに戻れていないんだ。ただ建国時の当主を調べ直して気付いたけど、魔法が使える子どもはこの当主の後の三代に集中しているんだ。父さんは『稀に生まれている』と言ったけれど、きちんと言うとエレノアの他にこの三代だけなんだ。そこで一度表に現れなかった体質が、隔世遺伝して今に至るんだと思う」
しかし、彼に落胆している様子はなかった。
「それで、思ったんだ。なんでエレノアは例外なんだろう」
ハロルドに見つめられても、エレノアの中には答えが無かった。
しかし、ハロルドは目に力を込めてこう続けた。
「なぜか魔力が使えるエレノアが、何かの答えかもしれない」
何か自分に特別なところがないか考えてみてほしいと言われ、エレノアは考えた。
すでに水鏡の効果は切れ、部屋には闇が戻っている。
エレノアは窓辺に寄り、わずかな月明かりの中でガラスに映った自分の顔を覗いた。何の変哲もない、相変わらずの地味な自分が覗き返してくる。目の色、髪色一つとってもさして珍しいこともない。少なくとも見た目の問題でないのは確かなようだ、とエレノアはため息をつきつつ窓から離れた。
そして羽織っていたショールを脱ごうとして、手首の腕輪がしゃらりと音をたてたことに気付く。
とっさに浮かんだファレルの顔を、エレノアは頭から振り払おうとした。しかし、消えるより早く別のことを思い出した。
以前、ファレルはエレノアのことを「珍しい」と言わなかったか。
エレノアの魔力には蓋がないという。普通は魔力のつぼにはちゃんと蓋があって、魔力はそこから少しずつしみ出している。魔法を使うときには、皆無意識にその蓋を開けるのだが、エレノアの場合は制御弁が壊れているのと同じで、蓋がない。それを見てファレルは珍しいと、そう言ったのだ。
「壊れている・・・?」
エレノアは思わず呟いて、深夜の部屋に響いたその声の大きさに慌てて口を抑えた。
祭壇の前、王女は盾すら側に置かずに熱心に祈っている。
蝋燭の明かりを受け波打つ金の髪が淡く輝く。
侯爵はその光を断ち切るべく、剣を抜いた。
せめてものはなむけに、侯爵である自らの手で葬ってやろうと思った。
剣はまがまがしく輝き、今まさに王女の血を吸わんという喜びに身を震わしている。
切っ先が天を差す。
そして・・・
「そこまでです、レアード侯爵」
制止の声に侯爵ははっとして周囲を見渡した。
人気がないかに見えていた儀式の間の四方の入り口から、ずらりと甲冑の騎士がなだれ込んでくる。魔法で気配を消していたのは侯爵だけではなかったのだ。
そして隣にいたはずの護衛がすでに床に倒され気を失っていることに気付き、声を震わせた。
「いつの間に・・・」
王女の前に立ちはだかるように立つのは魔法省のハロルド・ガーラント、その奥で王女に寄り添っている、キャンベル家の娘と休暇を取ったはずのカトレア。
さらに目の前に現れた長身の青年の顔を見て、レアード侯爵はわなわなと口元をゆがませ、わめいた。
「なぜお前がここにいる!お前は、お前は、海賊討伐に行ったのではなかったのか!」
青年は見間違いようもない、侯爵の孫息子の姿をしていた。
クインランは静かな声で言った。
「あなたを討たずにすめばと、思っていましたよ」
そうしてすらりと腰の剣を抜いた。
「レアード侯爵・・・いや、ジェスロウ・レアード。王家への反逆の罪、その身で償ってもらう」
クインランの剣は一瞬でことを終わらせた。
剣を振り下ろした兄に、アイリーンはそっと近づいた。
「お兄様、ごめんなさい」
「アイリーンが謝ることではない。これは俺のけじめだ」
「ごめんなさい・・・」
なおも謝ったアイリーンを、クインランは片手で抱きよせた。




