エレノアの婚約2
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泣いて泣いて泣いて、枕に顔をうずめて世界を遮断して、疲れた頭が何にも分からなくなる瞬間を待つ。
領地の屋敷にいた頃は泣きたくなると庭に隠れた。納屋も生け垣の影も、ザワザワと風や葉擦れの音しかしなくて、その音と匂いに包まれているとそのうち、泣きすぎて頭がぼーっとしてくる頃には悲しみの重さが半分になっていた。
王都の屋敷では逃げ込めるのはせいぜい自分の部屋のベットの中で、干し草の匂いも芝の匂いもしない。枕に顔を押しつけても、聞こえるのが自分の泣き声では忘れたいことも忘れられない。
ただ、心配して追ってきた侍女の声を聞かないでいられたくらい。あとは数刻前の記憶も胸の痛みも何もかも鮮明だ。
カタンと音がして、誰かが部屋に入ったことをぼんやり感じる。またアンが来たのだろうと、放っておいてほしいエレノアは枕から顔を上げなかった。様子見だけだったのか何も言わずに出て行ってくれたので、エレノアはまた声を出して泣いた。
泣いて泣いて泣いても、ただのどと目が痛くなっただけだった。のどのひりつきに耐えられなくなったエレノアは、仕方なく身体を起こした。アンがいつも寝る前に置いてくれる水差しを探して、ベットサイドに手を伸ばす。
冷たい水はほのかにレモンの香りがした。気遣われている、と思うとまた涙腺が刺激されそうになって、慌ててコップから目をそらした。
部屋は薄暗かった。蝋燭は消え、カーテンの隙間から月明かりが射し込んでいる。
その一筋の明かりが、窓辺のテーブルの上のものを照らしていた。
エレノアは吸い寄せられるようにそこへ向かった。
ふわりと甘く優しい香りがした。近づいて、それが一輪の薔薇の花だと気付き、エレノアの目が軽く見開かれる。差出人のカードもない薔薇。エレノアはそっとそれを持ち上げた。
「良い香り・・・」
干し草の匂いでも芝の匂いでもないが、鼻腔に広がるその香りで、頭の中まで満たされるような気がした。
「おはよう。」
翌朝主を起こしにきたアンは、起きて鏡台の前に座っていたエレノアに目を丸くした。
「おはようございます。エレノア様・・・」
「昨日は取り乱してしまってごめんなさい。もう大丈夫よ。」
アンが何か話そうとするのを遮って、エレノアが言う。そしてだめ押しのようににっこり微笑まれ、アンは開きかけていた口を閉じた。
「アン、目に当てるタオルと、花瓶が欲しいの。」
はいとうなずきかけて、アンは首を傾げた。
「花瓶ですか?」
「ええ。これ、昨日届いたのかしら。差出人はないけど、タイミングからしてニコラス様からよね。枯れてしまわないように生けたいの。」
エレノアの視線の先には、紫の薔薇の花。
「私、思ったの。こんなに素敵な婚約者が出来て、何を悩むことがあったのかしらって。それは正直、私の扱いなんてシンシアのついでだったのじゃないかって思ってショックだったわ。でも、大事なのは婚約した相手と幸せになることよね。そして、シンシアのお手本になるくらい幸せな家庭を築くの。」
そう言って薔薇を手に取ったエレノアの横顔には、まだかすかな痛みもあったが、それを越える強い決意と微笑みがたたえられていた。その微笑みを見たアンは、言おうと準備していた言葉も言いたい言葉も、全てのみこむことにした。
「おはよう、ハロルド。」
「・・・おはよう。」
「昨日はみっともないところを見せたわね。でも、もう大丈夫よ。」
ほら、とエレノアは小さな花瓶を見せる。
「コール様からだと思うの。素敵でしょ。」
「・・・へえ。」
それじゃあ部屋に戻るから、と手ずから生けた薔薇を胸に去っていくエレノアを、ハロルドが見送る。
「ハロルド様・・・」
そんな少年の姿に、アンは思わず声をかけてしまった。
いつも涼しげな目元にくまが浮かんでいる。しかしそれより何より・・・すごく黒い笑顔になっている。いつもさわやかな美少年として振る舞っているのに。
「あの・・・」
「いいんじゃない。元気になったみたいだし。」
言いかけたところを遮るようにハロルドが今度こそいつもの完璧な笑顔で言ったので、またしてもアンは、続けようと思った言葉を飲み込んだ。