エレノアの社交界デビュー2
大広間に戻る気にもなれず、控え室にも戻れず、エレノアは庭園を彷徨っていた。
夏の野外は夜になってもまだ昼間の熱を残し、普段ならじっとり汗が浮かぶ気温だ。しかし今のエレノアは体温が感じられないくらい冷え切っていたので、蒸し暑い野外も人気が無く好都合だった。
先ほどの女性達の言葉がずっと頭の中で回っている。母はエレノアの実の父を実家から奪ったと。その上すぐに新しい父と再婚したと。
それはエレノアが初めて聞く母の噂だった。王宮女学校は、アイリーンがうまく治めている上、王女に目をかけられているエレノアにそのようなことを告げる者はいなかったのだ。
けれど、それを無視できなかったのは、全く心当たりのない内容ではなかったからだ。
エレノアはこれまで、父方の祖父母にあったことがない。そして、母は再婚してシンシアを身ごもってから、子爵領に籠もったままだ。本来ならば社交界で人間関係を築いたり、そうした技術を娘に伝授したりといったことも大切な仕事のはずだが、それら一切をウィリアムに任せてしまっている。それは本当ならば、娘が幼いからという理由ですまされる話ではないのだ。
今日も、とエレノアは俯いて立ち止まった。
娘達の大事な社交界デビューの日なのだ。本来ならば、女親として母も出席して娘を安心させ、淑女としての手本を見せ、貴婦人方との付き合いを教える・・・先週までは、エレノアもそう思っていた。
母から、行けないと手紙が来て、エレノアは部屋に籠もった。アンにしがみついて泣いたし、ベットに伏せても泣いた。そうして三日泣いて、三日かけて気持ちを整えて、なんとか今日を迎えたのだ。
「エレノア」
後ろから声をかけられても、エレノアは振り向かなかった。
たいして探したとも思えない時間でハロルドが現れたことに、悔しいような何とも言えない気持ちになって、目の前の薔薇を見つめる。
「戻らないと」
ハロルドは母の話に触れなかった。彼が、先ほどの話をどう受け止めたのか、エレノアには分からなかった。
振り向けないエレノアに、ハロルドはこう言った。
「エレノア。『逃げないって決めた』んだろ。このまま戻らないとデビュー途中で逃げたことになるよ」
聞き捨てならない、しかし正しい彼の指摘に、エレノアは渋々振り向く。
ハロルドは、エレノアの目が涙に濡れているのを見たようだった。
血の気の引いた頬に伝うそれを拭くようにと、彼は黙ってポケットチーフを渡して待ってくれたが、なかなかエレノアの震えは収まらなかった。
ポケットチーフに顔をうずめるエレノアの耳に、聞き慣れたため息が届く。
弱ったエレノアの心は、そんな些細な音にもびくりと肩を震わせた。
「・・・しかたないな」
彼の声は非常に不本意そうで、エレノアの心はなお縮こまる。こんな風に逃げ出して足を引っ張る自分に、ハロルドは呆れかえっているに違いない、そう思った。
だから次に言われた意味が、すぐには分からなかった。
「今日だけ弟やってやるから、しゃんとしなよ。『自慢の姉』が目標なんだろ?」
エレノアは驚いて顔を上げた。ハロルドは一度もエレノアを姉と呼んだことがないのに。驚きすぎて、涙が引っ込んでしまった。
その隙にハロルドはさっさとエレノアの手をつかんだ。
そして、人気のない道を選んで控え室へ戻した。
化粧を直したエレノアは、廊下で待っていたハロルドが差し出す腕をとる。
エスコートはハロルド。そう思えば、自然エレノアの背筋が伸びる。
弟に遅れはとれない。その長年の思いが、エレノアの表情をにこやかに形作る。
自慢の姉ならば、多少の洗礼にあってもこの社交界デビューを優雅に乗り越えてみせねば。
ガーラント家の二人は、堂々とした姿で大広間の入り口をくぐった。
魔法でともされた光が、まばゆくエレノアを包む。シャンデリアがきらめき、楽団が曲を奏でている。それらを先ほどまで何一つ感じていなかったことを、今度は冷静に理解できた。
ハロルドの腕に促されるまま、エレノアはゆったりと歩く。
周りにはたくさんの人がいた。鮮やかなドレスの群れの中、まだ子どもの域を出ないエレノアとハロルドは、背丈も身分も高くない、埋もれてしまうはずの存在だ。
けれど今、たくさんの目が自分たちに注がれていることをエレノアは感じていた。
先ほどの逃げるような退出、それで思い出された過去のガーラント家の醜聞、それらが好奇の目を向けさせるのだろう。けれど、今エレノアはそうした視線を臆せず受け止めることができた。
皆が自分たちを見ている。そう、自分をではなく、自分たちを、だ。
エレノアが母の娘なら、ハロルドはその母と再婚した・・・嫌な人の言いそうな言葉ならば、母に捕まったウィリアムの息子だ。
見られているのは二人なのだから、そして今日デビューするのは二人なのだから、エレノアがこのまま終わるわけにはいかないのだ。
ハロルドの涼しく整った横顔を見れば、エレノアの胸に闘志が宿る。
視線に振り向いたハロルドに、優雅に可憐に微笑んでみせれば、彼も安心したのか珍しく柔らかな笑みを浮かべた。
「失礼。一曲踊っていただけませんか?」
かけられた声と周囲のざわめきに目をやれば、そこにいたのはファレルだった。
そういえば、とエレノアは思い出す。今日はやんごとない身分の客人がいらっしゃるかもと、ウィリアムが言っていた。
やんごとないというよりとんでもない人物だとエレノアは思ったが、第二王子の誘いをデビューしたての小娘に断れるわけがない。彼女は内心を押し隠し、令嬢としての笑顔を崩さぬまま、優雅にその手をとった。
めったに踊らないと噂の第二王子が、デビュー直後の小娘をダンスに誘った。
その衝撃は侯爵家の広い大広間にすぐに広がったようだった。
先ほどまでと比べものにならないほどの鋭い視線を感じながら、エレノアは回る。
「まあまあ上手いじゃないか」
意外だとでも言いたげに、ファレルはそう笑った。
「特訓いたしましたので」
澄まして言うエレノアに、ファレルは普通謙遜するところだ、とまた笑った。
それから彼はしげしげと彼女の顔を眺めて、こう言った。
「面白いことになっていたから声をかけてみたが、平気そうだな」
見られていたのかとエレノアは動揺したが、表面上はにっこりと答えた。
「面白いとは悪趣味ですわね」
「面白いさ。珍しいくらい無防備な顔したデビューの娘が、泣いて逃げたと思ったら見事に戻ってくるんだから。奴がよほどの手を使ったのか、それともエレノア・ガーラントがよほどしぶといのか」
腹立たしい言い様に、エレノアは閉口する。
「・・・そんなことをおっしゃるためにお誘いになったのですか?」
今はダンス中だからこの距離に我慢しているが、エレノアはセクハラ発言をされたこともまだ忘れてはいない。こんなに人目が無ければ足を踏んでやりたいところだ。
彼女の笑顔にこめられた殺気を感じとったのか、ファレルはさらりと話題を変えた。
「なんにせよ、新しい話題を投げてやれば古い餌になんて誰も見向きもしない」
エレノアは驚いた。
ダンスを申し込んだのは、第二王子という立場を利用してエレノアへの注目を違う意味に変えるためだと、ファレルはそう言ったようだった。
しかしエレノアには、この変態王子が、そんなことを考えて行動するとは思いがたかった。そもそもファレルとはそんな気遣いをしてもらう関係ではない。
戸惑いを笑顔で押し隠したまま、あとは無言のうちに曲が終わる。
すっと礼をしてファレルが去っていくと、
「エレノア」
声をかけたのはコールだった。
「コール様」
エレノアは婚約者の姿に微笑んだ。
「先を越されてしまったけど、僕とも踊っていただけますか?」
相手が王子では仕方がない、と苦笑いのコールの差し出した手のひらに、エレノアは喜んで、と指先をのせた。
コールはいつかの約束通り踊ってくれた。そしてその後、ウィリアムやハロルドと合流するまでエレノアをエスコートしてくれた。
こうしてエレノア・ガーラントは社交界デビューを果たした。滅多に踊らない第二王子が誘った相手、という新たな噂と共に。




