エレノアの好敵手
甘やかだった彼女の人生に挫折という苦みをもたらす大きな転機は、彼女が6歳の時にやってきた。
6歳までのエレノアの世界には、愛情深い母親と、ガーラント家しかなかった。
彼女はその世界で唯一の、お姫様だった。
ガーラント家はそこそこ裕福な子爵家で、先代の唯一の子どもであったエレノアの母が受け継いでいた。代々家に仕えてきた使用人と、歴史ある屋敷、その周りを囲む広い庭は幼いエレノアを優しく包み込むゆりかごだった。
そこに異物を持ち込んだのは、他でもない彼女の母だった。
「エレノア。ご挨拶なさい。」
いつにもまして丁寧に梳られた焦げ茶の髪には水色のリボンが飾られ、泥だらけにすると怒られるこれも水色の新しいドレスは、エレノアの気持ちをフワフワと持ち上げていた。
頬まで上気させた彼女は、しかし、母親に案内された先の部屋に入ると固まった。
「ウィリアムと、ハロルドよ。」
エレノアの母と同じくらいの年の、柔和そうな栗色の髪の男の人と、その傍に彫刻のように立つ子ども。
その、畏まった雰囲気に、そしてなぜか家名を付けずに名前だけを呼ぶ母に、エレノアの胸に嫌な予感が込み上げる。
思わずぎゅっと握った自分のスカートの滑らかな触感に、めかし込んだ姿を思い出し、予感がさらに強くなる。
「さあ、エレノア。」
挨拶をと促す母の笑顔は、エレノアの強ばった頬とは対照的だ。
いつになく華やいだ母の声が、告げた。
「今日から二人が、貴方のお父様と弟になるのよ。」
これがエレノアにゆりかごの世界の終わりを告げる言葉だった。
ハロルドはエレノアの一つ年下だった。
しかし、彼は5歳とは到底思えない子どもだった。
初対面の場で彼を「彫刻のよう」とエレノアが思ったのは、彼の容姿が整っていたせいだけではない。
確かに黒髪の下のすっと整った目鼻やすんなりとした手足は、幼いながらに硬質な美しさを醸し出していた。ただ、それだけではなく、彼には子どもによくある、慣れない場所できょろきょろ辺りを見回すような落ち着きのなさや、緊張に疲れて姿勢を崩すような隙といったものが、全くなかったのだ。
マナー通りの姿勢で微動だにせず、その上無表情に立っていたものだから、エレノアは庭の薔薇園に立つ彫刻を思い浮かべたのだ。
「はい、お仕舞い。」
ボードゲームの最後のコマを置き、戦利品として賭けていたチョコレートをつかみ取る。
そんなときでさえ無邪気に喜びを表すでないハロルドの前、対照的にエレノアは半泣きだった。
大好きなチョコレート、それも滅多にもらえない高級箱入りを、ハロルドが全部取ってしまったから。
年下のはずのハロルドに、ボードゲームで全く歯が立たなかったから。
そんな絶望しているエレノアを、使用人も母も「あらあら」と笑うだけで誰も庇ってくれなかったから。
「ハロルド、女の子を泣かせるんじゃないよ。」
唯一心配そうにそう言ったのは新しい父となったウィリアムで、むしろそうして彼に気遣われることはエレノアに、自分が実の子でないという距離を感じさせるだけだ。
半泣きのエレノアは、目尻にせり上がってきたものを隠すために部屋を逃げ出す。
「エレノア!ちゃんと片付けなさい!!」
追ってきた母の声が自分をとがめるものだったことにさらに傷付いて、エレノアは絶対戻るものかと庭に駆けだした。
ハロルドがいなければ、と何度思ったことだろう。
周囲の大人は姉弟となった二人を早く仲良くさせようと、何かにつけて一緒にいさせようとし、ゲームをさせたり勉強をさせたりする。そのたびに出来の良いハロルドはエレノアを上回った。
お姫様だったエレノアには、年下のハロルドと比べられることも、ハロルドに負けることも、手ひどい挫折と感じられた。しかも当のハロルドはさも当然という顔をしているだけで、エレノアに勝っても喜びもしないのだから、屈辱感は募る一方だ。
けれど、幸いなこと、愛されて育ったエレノアには多少傷付いても立ち上がる強さがあった。
エレノアはゲームで負けるたびに半泣きになって庭に逃げたが、一時間もすると自分で戻ってきて、次の勝負を申し込んだ。
「ハロルド!明日は私が勝つわよ!」
腰に手を当て、びしっと人さし指を突きつけて宣言するエレノアにハロルドは肩をすくめる。
どうでもいいといわんばかりのその態度にまた少し傷付きながらも、エレノアは不敵に笑ってみせる。
「いいこと?勝負は続いているのよ。そして続いている限り、勝敗は決まらないわ。」
ハロルドがもう少し大人だったら、手を抜いてエレノアに勝ちを譲るという手をとったのかもしれない。
けれど彼はそうはしなかった。
エレノアは負け続け、そして二人は勝負をし続けた。