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空港から市街地への移動は、父が言ったとおり、スムーズだった。


信号がある所以外では止まらず、市街地に入ってからも淀みなく流れていく車の群れに乗れたからだ。


空港からは少しばかり時間がかかる。でも、時間が読めない都内の車移動とは訳がちがう。


混沌とした都会時間に慣れた身には新鮮だった。


「あれ、ドームかな」三先が指差した先には、茶色いお椀型の骨組みがあった。


「そう、目的地も近いよ」と、運転手が言うと同時に車が止まる。


予定していた時間より早く、一行は広島バスターミナルへ到着した。


「君たちふたりだけで大丈夫かな」


「はい。ここだけ見たらすぐ空港へ戻りますから。……あのう」


「何だい」


「広島駅はここから近いですか。歩いていけますか」


「行けなくはないけど、かなり歩くね。帰りは新幹線なのかい?」


「いえ、飛行機です、ちょっと寄りたいところがあって」


駅前に目新しいものがあったかなあ、と運転していた青年は首をひねっていた。


「雨も降りそうだし、バスか、そこの市電を使いなさい。次々来るから待たずに目的地へ着けるよ」


まるで計ったように、彼らの後ろを二両編成の市電が走り抜けていく。


「乗りたい、これ乗りたい!」三先は指差して叫んだ。


「雲行きがあやしいなあ……。君たち、傘は持ってるかい」


窓を開けて空を見上げた武が子供たちに問う、答えはもちろんノーだ。


一本しかないけど、これ持っていきなよ、と運転席から出た息子が、回ってトランクから傘を出さした。兄弟はそろって「大丈夫!」と首を横に振った。


が、大人は押しが強い。彼らの手にはビニール傘がしっかり握られていた。


「じゃ、気をつけて行きなさい」武がウィンドウを閉めかけた時だった。「せんせい」と三先が口にしたのは。


「どうしたの」武は閉じた窓を開け直し、顔を出して問う。


「爆弾は、どうして落とされたの」


三先が指差した先には、骨組みだけになったドームがある。


普段ふざけてばかり、しゃんとしたところがほとんどない弟が、明瞭に質問を投げ掛けている。


神妙な顔をしている少年に、武は短く答えた「わからない」


「せんせいみたいにえらい人でも、わからないの」直截な問いは続く。


「全ての問いに答えを用意できるほど、僕は賢くないんだ」


「せんせい、年寄りなのに?」


「うん、そうだね。これは若いとか年寄りだとか関係ないことのようだ。史料が伝えることと、伝聞、もちろん、僕個人の意見はまちまちだから、それぞれの立場で語ることは違う」


ぽつり、雨が降ってきた。


ボンネットを打つ水滴はひとつ、またひとつと増えていく。


「三先君は何故だと思う?」


「わからないから、聞いたの。たくさんの人が死んだと聞いた」


「うん。落とされた当日も、その後も、今も多くの人が命を落とした」


「人は、人を殺してはいけないというよ。子供の僕だって知ってることだから、大人はもっとわかってるんだよね。なのに何故みんな死ななければならなかったんだろう」


「もっと難しい問いになったね。僕では三先君が納得できる解は与えられそうにない。何故、人を殺してはいけないか。明確に答えられる人はどれほどいるんだろう。僕個人が信条としていることならある。それで良いのなら教えてあげられる」


「聞きたい」


「とってもシンプルなことだ。生き物が他の命を奪っていい理由はひとつだけ。食べなければ自分が死んでしまう、その時に限り殺生が許される。僕たち人は、人を捕食する生き物ではない。だから殺人はもちろん、無駄な殺生はしてはならない。人に限らず、地上に生きるものはすべて、他の命を糧にして生きながらえ、次の世代に命を託す。その根幹を揺るがす行為は何であれ許されない」


これでいいかな、と問う眼差しを受け、三先は唇をぎゅっと噛み締める。瞳は老人の視線を受け、真っ直ぐに返していた。


「これから君たちが向かう先には、事実を伝える品物が並んでいる。説明書きよりもまず、物を見て感じ取りなさい。第一印象が一番大切だ。もちろん、後になって印象は変わっていい。今日の君と10年後20年後の君は違っていて当然だから。けど、変わらないものが残ったら、それでいいのではないかな」


雨が強くなってきたから傘を使いなさいと促され、兄は弟を傘の下に入れた。


「まだ聞き足りないのなら、いつでもおいで。僕でよければいくらでも話相手になろう」


「せんせいのところ、行ってもいいの」


「ああ、もちろん」


「いつ帰ってくるの」


「東京へかい? 今日ついたばかりなのにすぐは無理だよ。三先君はせっかちだね」

窓から伸びた、皺だらけの曲がった指で、老人は少年の頭を撫でて混ぜ返した。そしてひとしきり咳き込んだ後に、誰ともなしに口にした言葉が漏れた、「僕はまだ役目を終えていないようだ」と。


ぱらりぱらりと落ちる雨音は、まばらなものから規則的に傘を打つものへと変わっていく。


「一馬君」武は話の矛先を長兄に向けた。


彼を見る老人の視線が和らぎ、遠くを臨むものになる。


あ、まただ、と一馬は思う、武だけではない、自分を、いや、自分達兄弟を見る人は皆一様に同じ視線で彼らを見る。


自分達ではなく、背後にいる誰か、父や母を飛び越し、おそらく、兄弟たちが一度も会ったことがない誰かを探そうとしている。


おそらく、祖父の影を。


「君、いくつになったんだっけ」


「16です」


「そうかあ……君も、じきに君の父親がカミサンと出会った歳になるんだねえ」


武を乗せた車は兄弟を残して走り去った、何気なく放った爆弾を落として。


「父さん、ロリコンだったのかな」三先は言う。


「妙な言葉ばかり覚えてるんじゃない」兄は弟の頭を小突いた。


「意味わかって言ってんのか?」


「うん、おばあちゃんと、裕おばさんと、愛美がよく言ってる」


おばあちゃんとは母方の祖母、ゆうおばさんとは伯父の娘、愛美は伯父の姪で自分達のいとこだ。


三世代の女達が口を揃えて同じことを言うとは。


だが、残念ながら事実だ。


さんざん聞かされてきた、両親の馴れ初め話。


ふたりの出会いは小雨降る秋に執り行われた祖父の葬列の日のこと。


母は当時を思い出してうっとりと言う、「お父さんはとても素敵だったのよ、だれより白鳳の制服が似合ってた」


比較対象となる相手は、目の前にいる自分の息子、つまり同じ制服を着、同じ学校に通う長男だ。


そうかあ? と思う。


数少ない写真と比べてもどこが違うのかまったくわからない。


そこが惚れた欲目というやつなのかもしれないけど、女心なのか、母の心理はまったく理解できない。


確実に言えることはひとつ。長男と変わらない年頃で、後に伴侶となるひとに出会っていたのだ、父は。


しかも、父が高校生の頃、母は、幼稚園児だった……。


母が乙女心を爆発させるのはいい、小さい女の子が年長者に憧れるのはなんとなく想像しやすい。理解に苦しむのは父の方だ。


一馬の目には、街中で親に連れられて歩く幼稚園児はただのひよ子にしか見えない。もちろん恋愛対象になるはずもなく。


もし、友人知人に幼女に恋心を抱く奴がいたとしたら、「変態」の一言で片付ける。自分ならそうする。


となると。


自分達は、変態の恋から産まれた子供なのかあ!!


長兄は己が出した結論に少なからずショックを受ける。


「母さんの前では絶対言っちゃだめだぞ」


「なにを」


「ロリコンを」


「もう遅いや」三先は速攻で言い返した。


「お前はおしゃべりだな」とげんなりしつつ、一馬はつぶやく。


「で、母さん何て?」


「なんも。そのかわり、投げ飛ばされちった」


「あーあ」


どしーんと床を揺らして転がる弟の姿がまぶたの裏に浮かぶ。


彼らの母は、少しばかり武芸をたしなんでいた。昔取った杵柄とやらで、子供たちや夫が何かやらかすと、問答無用で男どもを投げ飛ばしてしまう。何の為に武芸を習っていたのだろか、まさか、将来、子供をぽんぽん飛ばす為だったとは思いたくない、が、子供としてはそろそろ止めて欲しいと願っている。三人揃ってそう思っている。


多分、父も。


特に末弟の三先にとって悩みは切実だ、なりが大きく重くなった息子たちの分も余計に飛ばされている気がしてならないからだ。自分はまだ小学生だから。


「おでぶになったら、やられないかな」


「関係ないと思う」長兄は即答する。


「母さんは、父さんでも平気でひっくり返しちゃう人だから」


三先はオーバーに顔をしかめて嘆いた、父さん大男なのにどーしてだよう、根性なしー、僕、逃げられないじゃんかー、と。


武を乗せたワンボックスカーが他の車列にまぎれて見えなくなるまで見送った兄弟はぽちぽちと頬を打つ雨を避けるように小走りで駆けた。


向かう先は茶色い鉄骨を頂く原爆ドームだ。


曇天はさらに濃く重く彼らの上にのしかかる。


日が差さない上に雨模様だ、兄は心なしか肌寒くてぶるりと寒気に身を震わせ、小さくくしゃみをした弟も寒そうにスウェットの前をかき合わせている。


一馬はそんな弟を目を眇めて見た。武との会談中、弟の眼差しの中に既視感を覚えたからだ。


簡単に解は出た、ああ、双葉だ、と。


次男が短い旅から帰ってきてすぐ、将来の道を定めたように、三先もつたないながらに何かをつかんだように思えたのだ。


弟ふたりに先を越されてしまったわけだ。


さて、自分は?


天から降りてくる何かを期待したわけではないけれど、焦る。


このまま手ぶらでは帰れない、兄として。


一馬は真正面に建つ廃墟を見た。


教科書はもちろん、さまざまなイメージで露出され続け、TVのニュースや報道、特番でさんざん見続けてきた原爆ドームは、自分の中で抱いていたイメージと実物の大きさとは大きく異なっていた。


思ったより小さい。


それはドームという言葉に照らし合わせると、ということだ。


そして想像以上に大きい。


それは建物として見た場合、という意味だ。


木造の日本の家屋は風雨にさらされ、あっさり朽ち果てるイメージがある。


石組みの建造物である原爆ドームは旧来の日本の建物にはそぐわない存在感がある。


市街地の中にありながら過去を発進し続ける歴史の証人のまわりとくるくると回った。


被爆する以前、かつて展示館して使われていた当時、ひょっこりと高い建物はどれほど人の目を惹き、目立ったことだろう。


今は柵が張りめぐらされ、中には入れないようにされ、地面には大きなライトが埋め込まれている、きっと夜間にはライトアップされて街中に映えるのだろうか。


一馬は、きらきらと光に照らされる姿より、骨組みだけになったドームの隙間から見上げる空を見たいと思った。


「ねえ、もういい? 僕、もう飽きた」三先は兄の袖を引っ張った。


一巡りするつもりが周回しつづけ、放っておけば三回はおろか何回も付き合わされそうだと思うのも無理はない、増えてきた内外の観光客に目線を送りながら、次はあっち、と指差す。


「資料館にも行くんだろ? 早くしようよ、あそこいけないし。僕、お腹もすいた」

あそこ、とは、出かける前に三先がインターネットで探してきた某所を指す。


ちらりと見た時計はまだ11時を少し回ったところ。帰りの便にはまだ余裕があるが、なにせ広島は初めての土地だ。右も左も、交通事情もまったくわからない。


「じゃ、さっさと行ってさっと見てくるか」


「うん!」


弟は威勢良く返事をし、こっちこっちと兄の手を引いた。


川縁を往き、橋を渡り、平和記念公園に入ったら、一馬の足取りはドームを周回した時と同様、足取りが鈍くなった。


ああ、そうか、うん、そうか、と回りを見、後ろを見、正面を見、立ち止まるを繰り返した。


「早くすませようよ、僕、お腹すいたって言ってるじゃん!」三先は兄の脇腹をぼこすこ叩くのだが、「うん、わかってる」と言いながら、兄は弟をその場に残し、正面の慰霊碑へ回った。


「もういーい??」すっかりしびれを切らした弟の幼い声が高く響くまで。兄は動かなかった。


「なに見てたんだよ」機嫌を損ねきった弟は口を尖らせる。


「うん、ごめん」後ろを振り返る兄の視線は、慰霊碑の向こう側に向けられている。

はやくはやく、とせき立てる弟に連れられ、平和記念資料館に足を踏み入れ、展示物を見ている間も、同じ物を目にしていながら、きっと同じ見方をしていない。あれは何、これは何、と問う弟へ生返事しかしないからだ。


「どうしちゃったの」順路にしたがって出口付近へ来た時、三先は聞いた。


「一馬、なんか変」


「そう?」


兄は外へ視線を送った。ガラス窓の向こうには、慰霊碑の炎が赤く輝き、さらにその先に臨むのは原爆ドームだ。


「写真じゃわからないことがあるんだな」本降りになった雨の中、市電に乗って広島駅へ向かった車中で、ぽつり、一馬はつぶやいた。


「なにが」


「うまく言えないけど、ここは墓で、鎮魂の場で、再生の象徴なんだ」


停車と発車を繰り返し、ゆるゆると走る市電の中で、早く広島駅に着かないかなあ、と弟は曇天を見上げていた。


雨は結局、ずっと降り続け、軽装で出かけた兄弟は寒さに閉口する。


寒さに震えた兄弟を迎えた先では、長蛇の列と湯気がと鼻腔をくすぐるえもいわれぬ香りが待っていた。


「お腹、すいた!」と吠える三先はさっさと列の後ろに並び、早く順番が回ってこないかなあ、堵列の先頭を覗いた。


インターネットで探し出したお店が扱うものとは、言わずと知れた、重ね焼きが特徴の、広島風お好み焼きだった。


兄弟が注文した時、従業員は目を丸くする、「7つ? お客さんふたりで? 本当に7つでいいの?」と。


5つは持ち帰りだと聞いて納得してくれたけれど、追加で2つ注文をしたので総数で9に膨れあがった。


できたてのお好み焼き5つを膝上に抱え、「あったかいー」と頬を緩ませた三先は、抱えたまんまの姿勢で空港へのバスを、帰りの飛行機の中を過ごした。


小さな腕に抱えたまま、くうくうと眠る弟の姿は何とも幼く、一馬は知らず微笑んでいた。


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