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「いつの話ですか、僕が知っていると?」
「うん、僕が君たちと出会った頃だから終戦間もない時かなあ」
「そんな前のこと、よく覚えてないですよ、終戦直後のことは特に。知ってるかと問われれば、ああ、そうかもしれない、という人は思い浮かびますが……。僕より家内の方が覚えているかもなあ。口にしたらそれが本当にあったことのように記憶が塗り替えられることがあるでしょう、それぐらい曖昧で」
「そうかあ……それもそうだなあ……」
ひゅうと風が抜けるように武は嘆息する。夫人も合わせて頷いている。
「『おじさん』と呼んでた人がいたのは覚えてるんですよ。その人とまぎれてしまうのか、別人なのか……。それも区別つかないくらい昔のことだけれど、ちびた下駄履いてた人は妙に覚えてますよ」
ぷ、と武も夫人も吹き出した。
「子供の視点だねえ、じゃ、違いない。それが慎君だ」
終戦間もない頃に会ったというのなら、この人達は実の親子ではない。老人と男性の関係はわかった、アカの他人同士だ。そして、この人達は孫ですら名前もよく覚えてない自分達の祖父を知っている。
しかも、ちびた下駄を履いていたんだって?
三先はもちろん一馬も目が点になっている。
「祖父って、おじいちゃんのこと?」三先は隣の兄の脇を肘で小突く。
「おじいちゃんじゃなかったら誰なんだよ」一馬は小突き返した。
「だってさ」三先は鼻を鳴らした。
「高遠に、おじいちゃんはいないじゃないか」
「夏や正月に墓参りに行くだろ?」
「うん、おばあちゃんのいるお寺と、伯父さん家のお墓と2つね。お墓にいるのは伯父さんの祖先でしょ。お寺にはおばあちゃんしかいない」
あ、と一馬は言葉につまった。前の席の大人たちも緊張しているのがわかる。
一馬は中学に入学した年に、両親から祖父母のことや父の家族関係について話を聞かされた。
父方の祖父の姓は尾上。父が仕事上で名乗る姓と同じだ。
父の兄、すなわち伯父も尾上姓を名乗る。
しかし、父の本名は高遠で、伯父と父は血の繋がりがある兄弟だ。
それぞれ母親がちがう。高遠は父の母方の姓で、正式な婚姻関係を結んでいない。
つまり、同じ父を持つ伯父と父は、それぞれ正妻と愛人、別の女性を母とする腹違いの兄弟なわけだ。
祖父母や父の時代はよくわからない、けど、今時、結婚したり片親だったり再婚したり。いきなり連れ子同士できょうだいになったりはよくある話だ。同級生にもフクザツとされる家庭環境の者はわりと普通にいるし、我が家ももしかしたら、と薄々気づいていたから、親が気をもんで言葉を選んで話そうとする事情の難しさは両親が拍子抜けするぐらいにすんなりと受け入れられた。
一馬と、おそらく弟の双葉も同じように感じている。
伯父と話す父の様子からは過去いろいろあったという軋轢は見えない。
尾上の伯父は兄弟が子供の頃から何くれとなく面倒をみてくれ、可愛がってくれた。それで充分じゃないか、と思っている。
だが、三先はまだ小学生。我が家の成り立ちを聞かされる年齢ではない。
「そうかあ……」車中に流れるひやりとした空気を払うように武は子供たち二人に向かって言う。
「でもねえ、僕はね。君のお父さんのお父さんを良く知ってるんだよ」
「どうして」三先は飛びついた。
「同じ学校で同じ先生に教わっていたから」
「どうきゅうせい、だったんだ」
「そう。そこで僕は同級生だった奥さんと出会った」
ま、いやですよ、こんなところで言わなくたって、と夫人は早口で繋げ、だって本当のことじゃないか、と武は言い返し、車中の空気は一瞬で和んだ。
「そしてねえ、僕は君のお父さんのお母さん、つまりおばあさんのことも知ってる」
「どんな人だった?」
「まっすぐな女性だったね。元気が良くて、はきはきとして、魅力的だった」
壁に掛かる祖父母の、茶色く変色し始めた遺影から伺えるものはさほど多くはない。元々写真は数える程しか残っていない。それすらも人となりを伝えるには不十分なものばかり。
父はあまり両親のことを語る人ではないし、母はもっと知らないと言った。
というのも、両親は一回り近く歳が離れている。その上、父はもちろん、母の方も晩婚と断言してもいい年齢で結婚している。となると、どちらかの両親も高齢だったりあるいは亡くなっていても不思議はないわけだ。
母方は幸い祖父母は健在だ、けれど父方の親族については生きている伯父以外他に語る人がいない。
普段生活する上で、祖先が誰それで、どんな人だったか、知っても知らなくてもなんら問題なく生きていける。けれど、旧知の人物として語る人が目の前にいる。
「僕たちの祖父は、どんな人だったんですか」一馬は聞いた。
「いい友人だったねえ」武は応える。
「君、僕がいくつかわかる?」
「えっと……よく知りません」一馬は素直に答える。
「だね。けど、君や君のお父さんよりはずーっと年上。僕たちは同じ仕事をして、同じ学校で働いていた。君たちのお父さんが産まれる前から僕たちは友人だった。彼は若くして亡くなってしまったけれど、彼がここにいたらと思うことがたくさんあった。それだけ長い年月、忘れられずにいられる他人はそういるものじゃない」
「ちびたげた、はいてたのに?」三先は混ぜ返した。
「そうそう。下駄ね。いつも歯がほどんどなくなったのを引きずって歩いてたねえ」
「なんで」
「戦後間もないころは物がなかった、あっても良いものは盗られることが多かった」
「ぬすんじゃうんだ」
「そう。みんな貧しかったからね、彼も持ってたけど盗られたか、盗られるとわかっているからわざと古い下駄を履き潰していたんじゃないかなあ」
「けど、父さんはいつも身なりだけは良いもので固めていたじゃないですか」初老の男性は言う。
「そうね、ぴかぴかに磨いた靴履いてキザだったわ」夫人も後を継いだ。
「そりゃ僕は盗まれるようなヘマはしなかったからさ」ふん、と老人は張り合うように言い返す。
戦争は今から60年以上も前に終わったという。
当時生きていた人と、今も生きている人が昨日のことのように語る中に、知るよしもない祖父の姿が見えるわけなどない。けれど、かつていた、実在の人物なのだと知る。
背は、父と同じように高かったのだろうか。
どんな顔をして、どんな声で、何が好きで、何を語り、生きてきたのだろう。
下駄履きだったという男の姿を、自分の中から面影の片鱗を見つけられる日が来るんだろうか。一馬は思った。
「ちびた、って何?」三先は言う。
「ぼく、わかんないんだけど。人の名前かなんか?」
一瞬大人と一馬は息を飲み、次の瞬間には大笑いしていた。
下駄が何かもわからなかった三先は、鼻緒がついた履き物だと聞かされ、「サンダルみたいなもの? げたって浴衣着た女子がはく、あれ?」と言い、さらに大人の笑いを誘ってひたすら膨れていた。
◇ ◇ ◇
東へ指して飛ぶ飛行機は宵闇を自ら招くように突き進む。目に飛び込むのは満月と見まごうばかりの丸い月だ。
満席に限りなく近い東京行きの機内にはくつろぎの空気が漂う。
時折すれ違う航空機が凄まじい早さで通り過ぎていく。
気づいた三先が隣の兄に「あれ」と声を掛けた間に、視界から消えてなくなる程の早さだ。
次は見落とさない、と気張っていた彼も、いつ現れるかもわからない飛行機探しに飽き、船をこいだ。家族への土産を膝上にしっかりかかえて。
到着までまだ間がある。寝ていればいいさ。
手元の機内誌を膝上に広げ、ぱらぱらとページをめくりながらまったく視界に入って来ない誌面をながめつつ、広島へ到着して再び機上の人になるまでの数時間に起きたことを反芻した。