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どうしてこんなことになっちまったんだろう。
一馬はげんなりしながら立っている。
隣にはちっとも落ち着きのない弟、三先がいた。
ふたりが住む所は東京。
薄曇りのどんよりとした日曜の今、いる場所は広島空港。
ふたりが乗ってきた航空機は747。
搭乗機から降りてすぐのことだった、とんとんと係員に肩をたたかれ、人の群れから外れたところへ連れていかれたのは。
一馬はちらりと後ろを見ると、乗客が窓にへばりついている。
普段の広島空港の風景は知らない、多分、いつもはもっと人の流れはスムーズで足早に各自目的地へ向かうはず。
けど、今日は特別な日だ。
来年、つまり2014年3月に、日本の航空会社から大型旅客機の747が全て姿を消すことになっていた。
母が勤める会社では早々と2011年に運航を取り止め、細々と少ないながらも運航を続けていたもうひとつの会社もとうとう……というわけだ。
運航終了にむけて、各種イベントを計画しているこの会社は、かつて乗り入れていた地へ、一日1便限定でフライトスケジュールを組んだ。
名付けて里帰りフライト。
ボーディングブリッジには人があふれ、たまたま乗り合わせた人も、選んで乗った人も、降りる乗客は串刺し団子のように連なって渋滞している。
そして皆、一方向を見、一様にカメラを向け、手を振っていた。
彼らに加われない三先は明らかに不機嫌そうだ。
ぼくもあっちへ行きたい、と兄の服の縁をつかんでぶんぶんと振っている。
こいつと歩くと、いつも声を掛けられるんだ。
兄弟の目の前には警察が、後ろには警備の人間が立っている
一馬は眉の間に歳に似合わない皺を刻んだ。
「君、名前は」
「高遠一馬です。こいつは弟の三先」
「歳はいくつ」
「僕は高校で16。弟は小学生で10歳……」
「11になったよ!」三先が口をはさんだ。
「じゃ、11歳」
「君たちふたりだけで来たのかい」
「はい、そうです」
「ご両親は、このことは知ってるの」
「もちろんです」
「入場時にクレジットカードを使ったそうだけど」
「はい、使いました。弟は携帯のバーコードを」三先はすかさずスマートフォンの液晶画面を見せる。
「君のカードかい」
「はい。親に家族カードを作ってもらいました」
「ご両親の名前を聞かせて」
兄は一瞬、う、と言葉に詰まった。
彼らの父親、慎一郎は尾上慎一郎という名で広く知られている。
母は仕事上では旧姓・水流添で通している。
両親は別姓夫婦ではない。
その証拠に、自宅の表札は、高遠。
戸籍上は一家5人とも姓はすべて高遠だ。
この、親が公と私の姓が違う件でいろいろと……面倒なことがあるわけだ。
兄の迷いなど関係なく、三先は元気よく言った。
「父さんは、おがみしんいちろう! 母さんは、つるぞえあきら!」
「君の名前は?」
「たかとう、みさきだよ!」
あ、と言いながら一馬は片手で額を押さえた、これまた年齢に似合わない仕草で。
「君たち、あんまり似てないねえ」
警備員のうちひとりが言う。
「本当にきょうだいなの?」
……これもよく間違われることだ。
三先は母親に大変良く似ていると言われる。自分はどちらかというと両親より母方の祖父の血をより濃く継いでいるようで、三先とふたりだけだと兄弟と見られないことが多い。
ここに弟の双葉が揃うとちょうど良い具合でつなぎとなるのか、ああ、兄弟なんですね、とやっと言ってもらえるのだが、今日はこの場にはいない。
つまり、自分の年齢では持てるはずがないクレジットカードで搭乗口を通過し、未成年同士、しかもひとりは学童期の子供を連れて歩いている自分達があやしいと見なされたというわけだ。
街中で普通に三先とふたりで歩いていても、何度か補導員と思われる人に声をかけられる。
どうして弟を連れてるだけで怪しまれなきゃいけないんだよ。
連れ回してどこかへ売っぱらうとか思われてるんだろうか、一度従妹にそのことを話したら聞くに堪えないことを言われて(フジョシの想像をいたく刺激するのよ、とかなんだとか。……はあ? と目が点になった)閉口した。絶対に三先には言うなと釘を刺したが、はたして。あやしいところだ。
今は従妹のことはいい、目の前の問題を片付けなければ。
いつものことだけど、毎回どう説明しようか思ってしまう。父さんに連絡して説明してもらおうか、と長兄が考え出した時だった。
「一馬君じゃないの」
すかっと通る声がこの場に突き刺さる。
振り返った先には。
「武のおじさんだあ!」
三先は回りや兄の静止ににかまわず、たたたたーと駆け出す、「ぜんがっくちょ!」と叫びながら。
弟が目指す先に立つのは、小柄な老人だ。
「三先君は相変わらずだねえ、残念だけど、ぜん、は違うんだなあ」
「ちがうの?」
「うん、もう僕は元学長だよ」
「そうなんだ!」
三先は「もとがっくちょ!」と繰り返し言った。
弟が武と呼んだその人は、父の恩師で祖父の友人。高遠家にとにかく縁が深い。父が勤める大学では学長まで登り詰めた人だ。
年齢不詳としか思えない容貌の持ち主で、姿勢がおそろしく良く、足取りも素晴らしく軽く、声は朗々と響く。顔に刻まれた皺は多いがさほど深く、頭も禿げていない。年齢を聞くと大概の人は仰天する、生まれは大正時代なのだから。
「それにしても、大きくなったねえ! 子供は成長が早いや。ふたりとも、どうしてこんなところにいるの」
にこにこと笑む顔が何とも明るい。
ホントにこのおじさんは歳がわからない、と一馬は思う。
「先生の方こそ、どうしてここへ」
「うん? 僕? あれに乗ってたんだよ」
びしっと指差す先には、窓の向こうに真正面の顔をさらす747だ。
「自分たちもです」
「あれえ、お母さん、こっちの会社の人じゃあないでしょ。大丈夫なのかい」
「指名して乗ってきましたので、了解済みです」
「ううん、ちょっとむかついた顔してたよ」
「こら!」
ぺち、と一馬は三先を小突いた。
「ははあ」武は破顔する。
「何かい、君たちも、里帰りフライトとやらに乗った口かい?」
武はひらりと、羽田空港で渡されたノベルティを見せた。そうです! と言うように兄弟は首を縦に振った。
「君たちに似た子が乗ってる、ってカミサンが言ってたんだけど、ホントだったんだねえ」
夫の足の速さにはついていけない、と言うようにそろそろと来るのはちっちゃな婦人だ。
ふたりとも大きくなったわねえ、と子供たちに声をかけ、甘え上手な三先はじゃれつく。
素早く回りを見回した武は事情を察し、明るく言う、「何かあったのかなあ?」
「あったような、なかったような」言葉を濁す一馬を飛び越し、武は上着の内ポケットから名刺を差し出し、一番年長者にあたる人間に向けて渡した。
「僕はこの子達の父親の元上司なの。身元は僕が保障するよ、別にあやしくもなんともない」
両手で名刺を受け取った相手は、お、と顔色を変えた。
「はあ、しかし」
「東京からわざわざ飛行機乗りにやってきた兄弟だよ、早く解放してやんなさいよ、君たちも写真撮ったり出かけたり、いろいろしたいことあるでしょ」
ね、と顔を覗き込まれ、三先はうんうんと首を縦に振る。
「じゃ、この子達は連れて行くよ。いいよね」
ね、と空港職員に念押しして。武は妻の手を取り、子供ふたりを促して、その場から連れ去ってしまった。
名刺を何度も見返す警備員の様子から、あの小さな紙片には何が書かれてるんだろう、と一馬は気になる。弟がはやすように「前学長」とか「元学長」と書かれていたら笑えるな、と。
そして、実のところ自分達は何を疑われていたんだろう、と考えを巡らせる。……知らないでいた方がいいことなのかな、と自分を納得させて。
「君たちは何で広島にいるの。明日学校だから泊まりがけできないでしょ」武は問う。
「はい、今日はさっき乗ってきた飛行機に用があって」
「ああ、あの、ジャンボジェットね。もうすぐなくなるんだってねえ」
「はい」
「それに乗る為にわざわざ来たのかい?」武はわざと呆れて言う。
「そうでーす」三先はすぱっと明るくまとめた。
「じゃ、入り口でもらったこれ、いるかい?」
武は手元のカバンから、搭乗時に配られたクリアファイルを見せた。蒼天に飛ぶ飛行機の絵柄が青を基調にした機体のデザインにマッチしている。
「はーい」
手を出した弟に、兄は「こら!」と止めに入る。
「いいよいいよ、この手の品は僕たちより学生の君たちの方が使い道多いでしょう、持って行きなさい」
隣にいた武の奥方も一緒に「さあ」と差し出した。
ちょっとだけ兄の方を見、「いい?」と目配せした三先は「ありがとうございますう」とオーバーアクションで2つのファイルをせしめていた。
「先生こそ今日はどうしてここに」到着口から手荷物受け取り場所を横切りながら、一馬は聞いた。
本当にこの老人は年齢を思わせない健脚ぶりで、奥さんは大変そうだ。
「うん? 僕?」武は一馬を振り仰いだ。父親ほどではないが背丈が平均男子より高い一馬はどうしても老人を見下ろしてしまう。
「子供の法事で来たんだよ。長居する予定でね」ねえ、と隣の妻に語りかけ、妻もうなずいて肯定した。
たしかに、ふたりは喪の装いに身を包んでいる。
子供?
変だな、先生のところは……たしか夫婦ふたり暮らしだったはずだ、折に触れて良く言っている、「自分たちに子供はいない、君のお父さんは教え子で、仲人もしたから僕は親代わりみたいなもんだね」と。
少年の疑問に先回りして、老人は言った。
「僕はねえ、日本全国に子供がいっぱいいるんだよ、教え子はみんな我が子みたいなもんだ」
「なあんだ、そうなんだー」三先は呑気に答える。
それならあちこちに『子供』がいるのもわかるけど。先生が我が家を訪ねる機会はあまりないし、わざわざ飛行機に乗り込んでまで訪ねるのだから、特別な相手なんだ。
一馬は思った。
「ああ、いたいた!」
武は手をしゅたっと上げてぶんぶん振る。
その先には、彼らの父親よりはるかに年上の男性と、母親より若そうな年頃の男性がふたり立っていた。こちらは見たまんま、実の親子といったところだ。
年嵩の男性は言う、「父さん!」と。
……先生には本当に子供はいないのかなあ。どういう縁の人たちだろう?
武に続いて夫人も人の輪に加わり、談笑をしている。一馬はどう見ても親と子と孫の再会としか見えないのだ。
「一馬君、三先君、君たちはこれからどうするの」
そろそろと出口へ向かった兄弟の背後へ、老人は声をかける。
「広島市内へ出て、すぐここへ戻ってきます」
「ああ、今日東京へ帰るんだもんねえ」
「それは忙しないなあ、もっとゆっくりできればいいのに」武と話していた、老人を『父さん』と呼んだ初老の男性だ。
「市内のどこへ行く予定なんだい」
「とりあえずバスセンターへ。近くに原爆記念館があるってことなので」手元のスマートフォン画面を操作しながら一馬は答えた。
「ああ、原爆ドームも目の前だからね、確かに便がいい。なら、そこまで送ってあげよう、空港バスより少し速くつけるかもしれないよ」
「ああ、それはいいね」武は即答した。
「せっかくだからもう少し付き合わない?」
三先はすぱーんと答えた「行きまーす!」
末弟は何も考えずぱっぱと行動する。
おいおい、と一馬は眉をハの字にしそうになったが、もともと高遠兄弟は夕方に乗る飛行機の搭乗時間まで時間を潰すこと以外今日の予定はない。
三先が行きたがっている場所以外は。
現地での行動はもらったお小遣いで決められていて、あちこち遊び回れるゆとりはない。そして両親からは何度も念を押されていた、家を出る前にも言われた。「夕方の便は予約で全部埋まっていて余りがないから、絶対に乗りはぐれないように! 帰れなくなる!」と。
まずは広島バスセンターにどの時間に着けるかで今日できることは決まる。
しかもバスより少し速く着けるというのはありがたいや。
「一緒に行ってもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、決まりだね、車取ってくるよ」
一馬の言葉を受けて、初老の男性の息子は駆け出す。
程なく。高遠兄弟は武夫婦の相伴に預かり、一行は一路広島市内を目指した。