第七話 「記憶」
未亜は走った。
後ろを振り向かない。
決して振り向かない。
後ろで聞こえた鈍い音。
原田先生の悲鳴。
鈍い音。
それが何を意味するのか、考えたくないから。
エレベーターは使わない。
こんな時、密室に閉じこめられるのはゴメンだ。
絶対、エレベーターの箱が、棺桶になるから。
未亜は、非常階段の手すりに座ると、螺旋状の階段を、一気に一階まで滑り降りた。
無意識にポケットの中に手がいく。
(念のため、渡しておくね)
ポケットから取りだしたのは、お守りだった。
学園七不思議騒ぎの前にもらった魔よけのお守り。
(低級なユーレイなら、近づくどころか、未亜ちゃんの前に姿を現すことも出来ないけど……)
あの時、水瀬は言っていた。
(気休め程度にしておいてね)
今は、気休めにもならない。
これが、私を護ってくれる全てなんだ。
それでも、お守りの加護ですら、後ろの存在には無意味に近いことを、未亜はどこかで理解していた。
非常階段のドアを開き、一気に玄関を駆け抜ける。
何かが、後ろからついてきているのがわかる。
ただ、それが何なのかまでは理解したくない。
未亜は震える手で携帯のボタンを押す。
設定を細工し、1を押すだけで水瀬、2でルシフェルの携帯へつながるようにしてある。
こういう時のためだ。
彼らが間に合うのか、それまではわからない。
未亜に出来ることは、彼らが間に合うことを祈るだけだ。
薄暗い外灯しかない闇の中、未亜は賢明に走った。
駅まで300メートル。
最悪、そこまで行けば、人もいる。
交番だってある。
そこまで持てば、最悪でも―――。
最悪?
これだって十分、最悪だ!
毒づきながら、短縮の1を押した途端、未亜の天地は逆転した。
足がもつれ、転んだ。
最悪の上の表現は、何だったろう?
とりあえず、超でもつけておこう。
もうヤケだ。
未亜は、超最悪の中、痛む体を起こそうとして、動きを止めた。
ぽんっ
誰かに、肩を掴まれた。
「――へっ?」
視線を肩に向ける。
小さい手。
小さい手だった。
白くて、人形のような手。
ただ、じっと、肩を掴むだけの手。
震えているのは、手じゃない。
未亜自身だ。
悲鳴すらあげられない。
悲鳴が声にならない。
口から出るのは、空気だけ。
「オネエチャン」
そう、言われた気がした。
体に力が入らない。
もう、終わりだ。
「信楽!」
未亜の耳に、図太い男の声が聞こえた。
何か、巨大なモノが自分の背後のモノに体当たりしたのを感じた途端、未亜の体は凄まじい力で宙を舞った。
「!!」
気が付くと、大男が自分を肩で担ぎ上げていた。
「南雲先生!?」
その顔には見覚えがあった。
というか、自分の担任の顔だ。見覚えがない方が、どうかしている。
「退くぞ!」
「にゃっ!?」
「あれは俺の手に余る!」
10分後
未亜と南雲は、駅構内のファミレスにいた。
明るくて、人気の多い所のほうが、未亜も安心するだろうと南雲が判断したからだ。
「ま、水でも飲んで落ち着け」
「……ドリンクバーでもいいよ?」
「自腹ならな」
「えーっ!?ケチ!」
「教師の薄給をなめるなっていうか、命の恩人にそれはないだろう?」
「……ありがと。センセ。じゃ、おごってあげる」
「そうか。すまないな」
「学校新聞に書くけど」
「俺が払う。で?何があった?」
「……あの、原田先生は?」
「……忘れろ。お前には関係のないことだ」
「―――」
その一言が、全てを物語っていた。
しばらくの沈黙の後、未亜は言った。
「あのね?」
女医から聞いたこと。
美桜は子供がいないこと。
いないはずの子供が尚武にいること。
そして、さっきの手―――。
「そう、か」
南雲は未亜の太腿より太い腕を組みながら考え込んだ。
教え子の見舞いにむかう途中だったとはいえ、南雲は教え子の一人を救うことが出来たことに満足していた。
満足行かないのは、教え子を苦しめている存在が、自分の力ではどうしようもない存在だということだ。
「とりあえず、信楽、今晩は水瀬の所に泊まれ。あそこなら大丈夫だ」
「え?で、でも」
「お前ん家、一人暮らしに近いだろう?不用心に過ぎる」
「で、でも……」
「―――お母さん、まだ戻ってこないのか?」
「う、うん……仕事、忙しいって」
「最後に会ったのは?」
「去年の5月……こっちで仕事があった時」
「それからずっとか!?」
「し、しょうがないよ。忙しいんだから」
「だからって、子供を放ったらかしってのは、親として問題だろう?育てる気があるのか?」
「お金は、もらっているから、大丈夫だよ。いざって時は、おばあちゃんがいろいろ―――」
「金の問題じゃないだろうが」
きっぱりと言い切られつつ、未亜は力無く首を横に振った。
「仕事がママの全部だもん」
「それでいいのか?」
「……うん」
「俺はよくない」
南雲は、憮然とした態度で、そう言った。
「俺は全然、よくない」
「え?」
「ここにいても、教え子がウチへ帰っても独りぼっちで、寂しいのを寂しくないなんてウソをつく。二つもよくないことがすぐに出た。だから、よくない」
「先生……」
「水瀬の所に泊まれ。あのお祭りコンビがなんとかしてくれるだろう。俺の方から連絡しておく。いいな?」
「うん」
未亜はようやく、笑顔をみせた。
「ありがとうね?センセ」
「ああ……」
微笑み返すフリをして、南雲はとっさに視線を通路へとむけた。
薄ぼんやりとした靄。
それが、少女のような形で、南雲達を見つめていた。
●翌日 葉月警察署
「おーい!理沙ちゃん!お客だぜ!?」
「お客?」
カップラーメンをすすりつつ、ドアに視線を向けた理沙は、その「お客」の顔をみた途端、腰のホルスターから拳銃を抜いた。
銃声は6発。
全てが「お客」めがけて、ためらいもなく発射された。
「お、おい!村田警部補!」
とっさに床に伏せて難を逃れた岩田が理沙を怒鳴りつけた。
「何をする!正気か貴様!」
「まともななら、必ずこうするもんです」
理沙は空薬莢を拳銃から取りだしつつ、言った。
「こいつに殺意を持たない奴は、こいつの存在を知らない奴だけです」
「お、お姉さん……」
水瀬は、穴だらけになった包みを涙ながらに持って立ちつくしていた。
「ひ、ヒドイ……」
「君のおかげでこっちがどんな迷惑してるか、わかってるの!?」
「じ、事件解決手伝ってあげたのにぃ……」
「私の減棒にまで手を貸してくれたわよね」
新たに弾を込める理沙。
「お姉さんに喜んでもらおうって、お菓子までもってきたのに……」
「ち、ちょっと理沙、ヒドすぎるよ」
同僚の婦人警官から抗議が出る。
「こんな小さい子相手に、そこまでつっけんどんにならなくったって」
「あーいいのいいの。こいつと関わると、人間絶対、こうなるって」
「そういうもんじゃないでしょ!?あーあ。泣かない泣かない!何?お菓子と、封筒?」
「グスッ……お姉さんが協力してくれたら、今の減棒処分を解除するって、警察上層部が認めてくれたから……ゴメンね?そんなに迷惑なら他、あたるから」
ペコンと頭をさげた頭を戻した時には、水瀬は理沙に抱きしめられていた。
「よく来たわねぇ!会えなくてさみしかったわよぉ!?元気してた!?」
頬ずりで出迎える理沙の変貌ぶりを、同僚達はあきれ顔を通り越し、白い目で見つめるだけだった。
「さ!行きましょ!?何?誰を迷宮入り事件の犠牲者にするの!?」
●翌日 喫茶 南風
理沙から呼び出された水瀬は、ルシフェルと博正を連れて喫茶店に入った。
「わかったの?」
理沙の座るテーブルには、相変わらず食べ終わった皿が山積みになっていた。
「10年以上前の件だから苦労したわよ?」
理沙はフォークをくわえながら、水瀬に分厚い封筒と一緒に伝票を手渡した。
「かいつまんで説明してあげようか?」
「お願い」
伝票だけ戻しつつ、水瀬は説明を促す。
「あの時の火事は、焼失18棟、死者48名、行方不明3名。火事による犠牲者の数では90年代で一番の大惨事になったのよ」
伝票をつきつける理沙。
「3名が……行方不明?」
ため息混じりに伝票を受け取った水瀬が、不思議そうに訊ねた。
「見つからなかったの?」
「遺体がね。家族3人分。当時の判断では、まぁ、死体が残らないくらいに焼けちゃったんじゃないかって」
「家族……」
「そう。都筑浩一当時31歳とその妻由美子28歳、その子供の智代当時5歳。あ、お姉さん、ステーキ、レアで」
「智代?」
よく食えるなと思いつつも、「智代」の名に心当たりのある三人は、思わず顔を見合わせてしまった。
「ええ。翌年には小学校へ入学するはずだったんだけどね」
「ふうん」
「それで、その家族が住んでいた所って、具体的には今のどの辺なの?」
「当時の地図は――これね。道路は変わっていないから、比べてみて」
「えっと―――?」
最新の地図と古い地図を見比べてみる。
古い地図には、「都筑」と書かれた土地があり、新しい地図では、そこが半分になった上、「慰霊碑」と書かれていた。
「つまり」
博雅は驚いた顔で言った。
「その家族、慰霊碑のあった所に住んでいたのか?」
「そういうことね」ルシフェルも呆れたように言った。
「犠牲になったのかどうかわかんない家の跡に慰霊碑なんて、縁起でもない」
「お姉さん。この家がどういうつくりだったとかって、わかんない?」
「家?」
「そう。知らない内に建て増しされていたとか」
●1週間後 大火災慰霊碑
「ったく―――」
現場で指揮を執る理沙は、呆れていた。
あの子に絡むと、どうして事態がこうも大きくなるのかしら。
理沙は単に、施行を行った建売業者に施工図を見せてくれと頼んだだけだった。
しかし、担当者が都筑の名を耳にした途端、顔色を変えたので、軽く尋問してやった結果、違法建築物であったことが判明したのだ。
事前申請が必要な地下室が、無許可で作られていた。
しかも、この都筑が曲者だった。
都筑は、土地転がしを生業とする企業暴力団の一員だった。
この暴力団は、非合法な土地買い上げと転売で暴利を得たはずだが、肝心の金のありかが不明のまま、証拠不十分で警察が立件を断念した組織だ。
地下2メートルほど。
違法建築であるため、それほど深くは掘られていない。
重機で10分も掘らないうちに、入り口が見つかった。
崩れたコンクリートの向こう、地下室と言われなければ、理沙にはなんだかわからないものが存在していた。
「なんでこんな所に気づかなかったの?」
「当時この辺みんな焼け野原。みんな、さっさと片づけたかったというのが本音だよ」
「だからって」
「バブルの頃だぜ?厄介事はみんな知らん顔して、金づるにしたかったってところさ」
「それでもいい加減じゃない」
「いい加減が丁度いい加減になることだってあるのさ。わかんだろ?」
土建屋のオヤジが入り口のドアらしい所にツルハシを向けながら言った。
「さ。壊すぜ」
ツルハシとハンマーが、10年間、地下室を守り抜いてきたドアを破壊した。
「ふぇーっ。やっと開いた」
土建屋のオヤジが懐中電灯を理沙に手渡しながら言った。
「土建屋の仕事はここまでだ。あとは、あんた達の仕事だろ?」
「そうね。アリガト」
理沙は、部下3名と共に地下室へ入った。
懐中電灯に照らし出されるのは、あの火事と10年の歳月により変色した壁紙と、床に散らばる得体の知れない家具の残骸。
そして、部屋の奥。
「都筑一家、か」
そこには、折り重なるように倒れた死体がいた。
服はボロボロだったが、それでも、ネグリジェをまとった骨が女、都筑由美子、その上を護るかのように倒れているパジャマ姿が都筑浩一だと見当をつけることくらいは出来た。
「鑑識を」
部下の一人に命じつつ、理沙は心の中で手を合わせた。
「こいつら、何で、こんな所へ?」
「火事で逃げ遅れて、とっさに地下室に入り込んだ。ところが」
理沙は壁や天井をざっと見た後に言った。
「酸欠になって死んだのね。きっと」
「酸欠?」
「違法建築でしょ?通気口をつけなかったのが運の尽きね。通気口をふさがれて、熱と煙と酸欠で……」
「で、ダンナは最後まで妻を護り……」
「妻は、こど―――」
理沙は懐中電灯を死体に向けた。
ネグリジェをまとった骨は、確かに、何かを抱きかかえていた。
それは、ふるぼけた毛布。
だが、毛布は空っぽになっていた。
「……」
ぞっとしながら、理沙は毛布だけを見つめていた。
3時間後
死体が運び出された後、地下室の床に隠された隠し金庫から、多額の現金が発見された。
「10年前のヤマはこれで解決」
理沙はうかない顔で地下室に出入りする関係者を眺めていた。
「よかったじゃないですか。もしかしたら、女の子も、誰かが助けているかもしれませんし」
「で、なんで行方不明のまま、10年過ぎているのよ」
「それは、何か、公に出来ない事情があって」
「小学校だって、戸籍なければ入れようがないでしょ?」
「……」
理沙にはわかっていた。
水瀬達は、あの智代を探している。
そして、智代の生死は、未だに確認されていない。
「村田警部補」
地下室から自分を呼ぶ声がした。
「ちょっと来て下さい」
「どうしたの?」
照明が持ち込まれ、さっきとはうってかわった地下室では、鑑識が数人、壁に耳を当てていた。
「壁の向こうから、何か奇妙な音が」
「音?」
こんな薄汚い壁紙に顔を当てるのは、正直、女としてイヤだったが、やむを得ない。
理沙も耳を押し当てる。
ゴトゴトゴト
確かに、何かが動いている音がする。
「土建屋、まだ帰っていないわね?もう一仕事してもらって」
「いいのか!?知らねぇぜ!?」
死体が出た部屋だ。
屈強な男でもいい気はしない。
「こんなか弱い美人が頑張ってるんだから、あんたらも気張りなさい!」
「ケッ。自分で言ってりゃ、世話ねぇぜ」
毒づきながら、土建屋のオヤジは部下と共にツルハシを振り下ろした。
ドコンッ!
鈍い音と共に、壁が崩れ落ちた。
「へっ?」
壁の向こう、そこは立派な木造の部屋。
部屋の中には、博物館でしか見たことのないような豪華な刀や装飾品が並んでいた。
「都筑の隠し部屋?」
「こいつはスゲェ!」土建屋のオヤジが驚いて刀に手を伸ばす。
「見ろよ姉ちゃん!こいつは値打ちモンだぜ?拾いモンで俺にくれよ!」
「バカ言わないで」
その途端、凄まじいベルの音が鳴り響き、ドカドカと誰かが走ってくる音がしたかと思うと、リサ達の視界に、数人の男達が飛び込んできた。
「誰だっ!?」
理沙が驚いたのは、その男達が手に手に拳銃を握っていることだ。
とっさに理沙達も拳銃を抜く。
「……」
「……」
しばしの沈黙。
理沙に言わせれば、「とてつもなくイヤや沈黙」が過ぎた後、向こうから銃を降ろしてきた。
理沙とその部下達は、相手の顔を知っていた。
どうしよう。
その言い訳が思いつかない。
やがて、向こうから声をかけてきた。
「何をしている」
「あ、あの―――」理沙が返答に窮していた。
「いつから、部下を使って泥棒を始めたんだ?村田ァ!」
理沙の前で怒り心頭の顔で立っているのは、岩田警部だった。
10分後
理沙の事情説明を苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた岩田が、ようやく重い口を開いた。
「―――つまり、隠し部屋を探していたということか」
「そういうことです」
「尚武の地下室と、都筑の地下室がそんな間近に作られていたとはな」
「偶然、ですか?」
「意図的だったと、説明できるのか?」
「いえ」
「なら、偶然だ」
「あの」
「なんだ?」
「警部は、何故、ここに?」
「桜井美奈子、知っているな?」
「あの、水瀬クンから保護依頼のあった?」
「そうだ。彼女が、病院から失踪した」
「!?」
「そして、昨晩、尚武で見たという連絡が入ったんだ。これでわかったか?」




