第十話 「命の価値」
穴の中に響き渡るのは、笛の音。
現世への憎しみに凝り固まる死霊すら慰める、稀代の笛の音。
(すごい)
理沙はただ、じっと聞き入るだけ。
理沙の心を捉えるのは、旋律によって生み出される魂の感動。
それは子供の頃、宗教行事で感じたそれに近いもの。
子供の無垢な魂が、神に最も近い場所で、神を近くに感じた、あの感覚に近いものなんだと。
しかし、演奏者は納得していなかった。
放送局での一件では、死霊を一時的に止めただけだった。
源博雅なら、本物の博雅なら、死霊は成仏していたはず。
それが、わかだまりとなって博雅の心に引っかかっていた。
俺はやっぱり、本物にはほど遠いんだろうか。
俺はやっぱり、葉双が吹ける程度なんだろうか。
ふと。穴の底を見る。
穴の底は、亡者達であふれかえっていた。
――ほら。
博雅は自嘲気味に笑った。
どこに隠れていたかは知らないが、やっぱり奴らは健在。
俺の笛の音が珍しい程度か?
博雅は曲を変えた。
いいだろう。
下手な坊主だって、経文位、唱える事が出来る。
だったから、俺は俺で経文代わりにこれを吹いてやろう。
下手でも何でもいい。
俺は、俺のすることだけすればいい。
源博雅が稀代の大僧正なら、俺は一介の乞食坊主。
それでも、仕える道は同じ。
乞食坊主だって、死人に会えば経文くらい唱えるもんだ。
大僧正みたいな霊験なんてなくても、それでも唱えるしかないじゃないか。
それと同じだ。
なら、せめて、出来ることはしてやろうじゃないか。
博雅は、目を閉じて魂を解放した。
源博雅に固執する自分という殻を捨て、曲にすべてを委ねた。
それは、ある種の自暴自棄だったのかもしれない。
だが、それは吉と出た。
曲のキレが格段にあがったことが、音楽に鈍い理沙にさえ理解できた。
曲が螺旋を描き、DNAレベルで自分と絡み合うような、不思議なまでの感覚。
それは、間違いなく、浄化、そのもの。
その博雅が気づかなかったことがある。
穴の底に集まる亡者達が、自分を拝んでいること。
彼らが徐々に塵に戻りつつあること。
自分が、彼らの魂を浄化し、神仏の元へと送り届けたこと。
ただ、それら全てを超越したレベルで、博雅の演奏は続いたことだけが事実となった。
「博雅君、腕が上がったね」
「気づいたのよ」
「?」
「源博雅って人にとんでもないコンプレックスがあるのね?どうしても、その人と自分を比較して、劣等感を感じてしまう。だけど、大切なのは、自分が自分だということなんだって」
「さすが」
縦穴から約10メートル。
突然、灯りが灯された。
「歓迎、されている?」
「イヤな歓迎のされかたね」
2つの古びた燭台に灯された灯りの下、着物姿で正座しているのは美奈子だった。
その手前には、幼稚園のスモック姿の智代がいた。
「移転に失敗したんでしょう?」
楽しそうにすら感じる声で智代に語りかけたのは水瀬だった。
智代の双眸が憎悪の光を放った。
「貴様、この娘に何をした?」
「ちょっとした細工。だめ。その子は催眠状態や憑依くらいは出来ても、魂を乗っ取るまでは出来ないよ?」
「何故だ?」
「僕が病院で細工しておいた。桜井さん、泣いて嫌がっていたけど」
「み、水瀬君?」
ルシフェルが水瀬の胸ぐらを掴んだ。
「な、ななななにしたの!?」
「裸にひんむいて呪符を体に刻み込んだだけ」
「そ、それって―――」
「大丈夫。痛くないし、魔法当てないと呪符は現れないし、何より背中だから」
「そ、そういう問題じゃない!!」
「?」
「女の子を裸にむくだなんて!」
「だって他に方法が―――」
「―――こら」
智代が苛立った声で言った。
「痴話ゲンカならよそでやれ」
「あ、ゴメンなさい」
「すみません」
素直に謝った後、水瀬は言った。
「あのね?取引しない?」
「取引?」
「うん。その子の体を諦めて、おとなしく鏡に戻ってくれたら、博物館でゆっくりとした余生をあげる」
「断ったら?」
「壊す」
「―――これでもか?」
智代は無造作にスモックをはだけた。
「!!」
「!?」
その光景に、二人は戦慄した。
智代の胸には、鈍く光る鏡が埋め込まれていたのだ。
しかも、その光は、まるで心臓の鼓動のように点滅する。
「鏡たる我は、この娘の心臓ぞ?この娘を殺せば、我はただの鏡に戻るかもしれんがな」
智代はそう言って、勝ち誇ったように笑った。
「殺せるか?この娘を」
「もう、死んでいるんでしょ?」
「死んではおらん」
「へ?」
「我らが、時が来た時に備え、眠らせておいただけじゃ。この娘は、死んではおらぬ。お前等やあの店の者達が見たのは、まちがいなく、我じゃ。しかし、鏡としての我は、我が作り出したまがい物に過ぎん」
「人工心臓……」
水瀬は、ぽつりと言った。
「智代ちゃんを魔法で仮死状態のまま保存していたけど、何かあって、心臓が動かなくなった。だから、鏡の魔力を使って心臓の代わりを―――」
「よくわかったな。つまり、我をこの娘から切り離すことは、すなわち、この娘が死ぬということじゃ」
「―――で、それじゃ、不便だからって、新しい肉体を探した。どっちにしろ、その子は殺すつもりだったの?」
「違う」
「?」
「この娘を、新たな分魂として、我の仲間を作ろうとしたまでのこと」
「魂を、コピーしようとした?」
そんな、馬鹿な。ルシフェルが驚きを隠せない表情で、智代の言葉を聞いていた。
「絶望し、心を閉ざしたこの娘は非常に都合のよい存在じゃ」
ぐいっ。
力まかせに美奈子のあごを掴む智代に対して、美奈子は虚ろな目で、ただ、なされるままだった。
「不要な心なら、我が新たな心を埋め込んでやるだけじゃ。感謝されこそすれ、恨まれる筋ではない」
「勝手を!」
激情のまま、斬りかかろうとして、ルシフェルは動きを止めた。
智代の勝ち誇った瞳に対し、ルシフェルの瞳は困惑していた。
どこを、どう斬ればよいというんだ?
相手は生身の人間だ。
鏡?
破壊すればこの子が死ぬ。
どうすればいいというんだ?
「バカめ。ここまで踏み込んできた努力に免じて、殺すことはせん。そのままにしておれ。我は新たな依代を求めて消える」
智代がそういって、水瀬達に背を向けた途端―――。
水瀬が、動いた。
死鏡には、何が起きたかわからなかった。
ただ、自分の身が割れていることには気づくことが出来た。
自分の体であるはずの智代の体は、宙に浮いている。
いや、浮かされている。
智代の目で、自らの身、本体を見つめる。
本体は、何かに貫かれていた。
光の刃―――
「水瀬君っ!!」
遠くに女の悲鳴のような声を聞いた気がした。
そうか。
死鏡は思った。
死ぬのか―――
また、死ねるのか―――
今度こそ、
今度こそ、
……
安らかな眠りが来て欲しい……
不意に、光を感じた。
それは、安らぎの光。
光に包まれながら、死鏡は、消滅した。
●ルシフェルの日記より
何が起きたか、わからなかった。
水瀬君が、智代ちゃんを刺し殺したと理解できるまで、随分、長い時間がかかった気がする。
「水瀬君!」
智代ちゃんのスモックをはぎ取り、鏡の破片を払いのけた水瀬君を怒鳴った。
その時の私は、多分、水瀬君を殺そうとしたと思う。
「待って」
真剣な声でそういった水瀬君が、私に投げ渡したモノ――。
霊刃だった。
騎士が剣を渡すことには大変な意味がある。
それは、自らの命を委ねるということだから。
「どういう、こと?」
水瀬君は、すぐには答えず、懐から何枚かの符を取りだすと、智代ちゃんの体に貼り付けた。
「まだ死なさない」
「なにを!?」
「一週間、この子を預かる。1週間後の放課後、尚武で会おう」
水瀬君は、智代ちゃんを抱きかかえて立ち上がると、私に言った。
「その時、智代ちゃんが死んでいたら、その時は好きにしていいよ?」
「……」
「じゃ、あと、お願い」
水瀬君は、そう言ってテレポートしていった。




