第二話 遣りすぎた遊び人
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月曜日。
ボランティアから二日経って、俺の日常は何も変わっていない。
……と言いたいところだけど。
「糸、お前なんか顔つき変わった?」
朝のHR前。隣の席の尾崎海斗が、俺の顔を覗き込んできた。
「変わってねえよ」
「いや変わってる。なんつーか……ニヤけてる」
「ニヤけてない」
「ニヤけてんだよ。鏡見ろ鏡」
……見ない。絶対見ない。
自覚はあるから見たくない。
尾崎海斗。俺の親友にして、観察眼だけは妙に鋭い男。
ノリは軽いが、こういう時だけやたら勘が働く。正直やりづらい。
「なんかあっただろ。土曜のボランティア」
「……別に」
「『別に』って言う時のお前は確実に何かある時だからな」
うるさい。何で俺の取説みたいなこと言えるんだこいつ。
「ていうか聞いたぞ。ボランティアで女子に声かけたって」
「は? 誰から聞いた」
「坂本。あいつ同じボランティアだっただろ。『糸がなんか真面目そうな女子に話しかけてた』って」
坂本——あのグループLINEの男か。余計なことを。
「で、誰?」
「…………」
「おい、俺に隠し事すんなよ。何年の付き合いだと思って——」
「氷室凛」
観念して名前を出した。
海斗が一瞬固まる。
「氷室……って、二組の? あの、めちゃくちゃ気が強いって有名な?」
「有名なの?」
「有名だろ。男子が話しかけても大体一言で切られるって。愛想ゼロ。鉄壁。氷の女王。……お前、またハードル高いとこ行ったな」
「うるせえ」
「で、どうだったの。脈あった?」
「……『好きにすれば』って言われた」
「脈ねえな」
「うるせえって」
海斗がけらけら笑う。
でも、その目はちょっと真剣だった。
「いや待て。お前が自分から声かけたの?」
「……そうだけど」
「自分から?」
「だからそうだって」
海斗が黙った。
それから、妙に真面目な顔で俺を見た。
「お前がそれ、初めてじゃね?」
「…………」
「今まで全部向こうからだったろ。お前が自分から行くの、俺、初めて見たんだけど」
……鋭い。
鋭すぎる。もうちょっと鈍感でいてくれ。
「マジなんだ?」
「……うるせえな。授業始まるぞ」
「おいおいおいおい。藤宮糸のガチ恋じゃん。歴史的瞬間じゃん。記念日じゃん」
「黙れ」
こいつに言うんじゃなかったと軽く後悔しつつも——まあ、海斗だから話したんだけど。
こいつだけは、からかいつつも絶対に茶化さない。その線引きを知っている。
「……で、どうすんの」
「どうするも何も。普通にアタックする」
「普通にって——お前の普通は世間の普通じゃないからな?」
「どういう意味だよ」
「いいからがんばれよ。応援はしてやる」
海斗はそう言って、にやっと笑った。
◇ ◇ ◇
昼休み。
俺は二組の教室がある廊下を歩いていた。
別に不自然なことじゃない。こっちの階には自販機があるし、知り合いもいる。通りがかっても何もおかしくない。
……言い訳がましいのは自覚してる。
目的はひとつ。氷室凛に会うこと。
二組の教室前を通りかかった時、ちょうど彼女が出てくるのが見えた。
手には購買のパンらしき袋。一人で廊下を歩いている。
よし。
「氷室さん」
声をかけた。
彼女が足を止めて振り返る。
「……藤宮?」
覚えていてくれた。それだけでちょっと嬉しい。
「土曜はありがとな。いろいろ話せて楽しかった」
「別に、私は何もしてないけど」
「いや、してくれたよ。俺、あの言葉すげえ響いて——」
「……何の話?」
怪訝な顔。
いや、そりゃそうだ。向こうにしてみれば何気ない会話のひとつだろう。俺だけが勝手に雷に打たれただけで。
「あ、いや。えっと」
言葉に詰まった。
……おかしいな。
俺、こんなキャラだったか? 会話で困ることなんて今までなかったのに。
「ごめん、なんでもない。あの、昼飯まだ? もしよかったら——」
「食べる場所は決まってるから」
即答。
バッサリ。
「……そっか」
「じゃあ」
彼女はそれだけ言って歩いていった。
残された俺は廊下の真ん中で立ち尽くす。
……うん、知ってた。こうなることは知ってた。
でも凹む。普通に凹む。
「藤宮くん?」
声をかけられて振り返ると、二組の女子が二人、こちらを見ていた。
顔は知ってる。確か前にカラオケで一緒になったことがある子たちだ。
「あ、久しぶり」
「氷室さんに声かけてたよね? 大丈夫だった?」
「まあ……塩対応だったけど」
「あはは、氷室さんいつもあんな感じだよ。気にしなくていいと思う」
「藤宮くんってさ、氷室さんと接点あったっけ?」
「ちょっとだけ。ボランティアで一緒になって」
「へえー」
女子たちは意味ありげに顔を見合わせている。
こういうのが噂になるんだろうな。仕方ない。俺が行動する以上、ある程度は覚悟してる。
問題は——その噂が、どう広がるか、だ。
◇ ◇ ◇
【氷室凛 side】
「……なんなの、あの人」
購買のパンをかじりながら、私は独り言のように呟いた。
隣で卵焼きをつまんでいた結衣が、にやりと笑う。
「あの人って?」
「藤宮糸。二日前にボランティアで会っただけなのに、いきなり廊下で声かけてきた」
「ふーん。藤宮くんかあ」
小川結衣。私の数少ない友人で、同じクラス。明るくて穏やかで、恋バナが好き。
正直、私とは正反対のタイプなのに、なぜかウマが合う。
「藤宮くんって有名だよね。イケメンで、友達多くて、女の子の噂も多くて」
「……そういうところが無理」
「えー、でも悪い評判はあんまり聞かないよ? 二股とかそういう話は全然なくて、別れた子とも仲いいらしいし」
「それは友人としての話でしょ。恋愛は別」
パンをもう一口。
「ああいう人って、誰にでも同じ顔するじゃん。優しくて楽しくて、一緒にいて退屈しない。でもそれって、私じゃなくても成立するってことだから」
「うわ、辛辣」
「事実を言ってるだけ」
「……で、どうだったの? 話してみて」
「何が」
「印象。悪かった?」
少し黙った。
……正直に言えば。
悪くは、なかった。
ボランティアの時。彼が聞いてきた質問は、的を射ていた。
「なぜ注意しないのか」。
普通の人はそこを気にしない。サボっている側は後ろめたさから目を逸らすし、真面目にやっている側は自分のことで精一杯。
彼はどちらでもなく、ただ純粋に「気になった」と言った。
それに、さっき廊下で——ちょっとだけ、おかしかった。
あの人、たぶん会話で困るタイプじゃない。
なのに、私の前で明らかに言葉に詰まっていた。
遊び慣れているはずの人間が、不自然に空回りしている。
……なんだったんだろう、あれ。
「凛?」
「……別に。悪くはなかったけど、だからどうってことはない」
「ふーん」
結衣の「ふーん」には、いつも余計な意味が込められている。
「何」
「いや別に。凛が人の印象を『悪くない』って言うの珍しいなって」
「…………」
「普通『興味ない』で終わるじゃん」
——うるさい。
それ以上は突っ込まないでほしい。
自分でもよくわからないんだから。
◇ ◇ ◇
【三村蒼太 side】
昼休み。
教室の窓際で弁当を食ってたら、坂本が寄ってきた。
「蒼太、さっき見た?」
「何を」
「藤宮が凛ちゃんに声かけてた。廊下で」
箸が止まった。
「……マジで?」
「マジマジ。『ありがとう』とか『また話そう』とか言ってたっぽい。凛ちゃんバッサリ切ってたけど」
バッサリ切った。
そうだろうな。凛はああいう軽いのが嫌いだ。
当然の結果だ。
……なのに、なんだろう。胸の奥がざわつく。
「あいつさ、ボランティアで凛に話しかけてたの、たまたまじゃなかったってこと?」
「みたいだな。二組の子が言ってた」
「…………」
たまたまじゃない。
つまりあいつ、わざわざ二組まで来たのか。
凛に会うために。
……チャラい男が、調子に乗りやがって。
「蒼太的にはどうなの? 幼馴染としてはさ」
「どうもこうもないだろ。凛があいつに靡くわけないし」
「まあそうだけど」
「つーかさ、藤宮ってめちゃくちゃ女遊び激しいだろ。そういう奴が凛に近づくのは普通にウザいわ」
口調が少し強くなったのが自分でもわかった。
坂本が「おお」と少し引いている。
「いや別に怒んなくても」
「怒ってねえよ」
「怒ってるって」
「……怒ってない。ただ事実を言ってるだけ」
弁当の残りをかき込んで、席を立った。
別に焦ってなんかいない。
凛はああいうタイプが嫌いだ。俺が一番よく知ってる。
藤宮が何回声かけようが、結果は同じだ。
それに俺と凛は、もう十年以上の付き合いなんだ。
ちょっと話しかけただけの男に、負けるわけがない。
……ただ。
——ちょっとだけ、気になることがあった。
さっき坂本から話を聞いた時、俺が最初に感じたのは「安心」じゃなかった。
焦り、だった。
凛がバッサリ切ったと聞いて安心したんじゃない。
藤宮が凛に会いに来たと聞いて、焦った。
その順番が——少しだけ、引っかかっている。
でも、まあ。
気のせいだろう。
スマホを開く。グループLINEに打ち込んだ。
『てかさ、藤宮ってマジで節操ないよな。手当たり次第じゃん。凛も迷惑してるだろうし、あいつそのうち飽きるっしょ』
送信。
……また、やった。
また、凛のことを勝手に代弁した。
でも——これくらい、別にいいだろ。
事実だし。
◇ ◇ ◇
放課後。
俺は校門の前で凛を待っていた。
偶然を装って。
凛が出てきた。いつも通り一人だ。鞄を肩にかけて、真っ直ぐ前を見て歩いている。
「お、凛。帰り?」
「……うん」
並んで歩き出す。
小学校の頃からの、いつもの帰り道。
……のはずなのに、今日はなんとなく会話が出てこない。
「今日さ、藤宮ってやつに声かけられたんだって?」
何気ない風を装って聞いた。
凛がちらっとこちらを見る。
「……なんで知ってるの」
「いや、坂本から聞いて。あいつチャラいから気をつけたほうがいいぞ」
「別に、一言二言話しただけだけど」
「まあそうだろうけどさ。ああいう女慣れしてる奴って巧みだから。変に乗せられんなよ」
凛が足を止めた。
「…………」
「ん? どした?」
「蒼太」
「おう」
「私が誰と話すかは、私が決めるから」
——静かな声だった。
怒っているわけじゃない。ただ、事実を述べているだけの声。
「いや、別にそういうつもりじゃなくて。心配っていうか——」
「心配してくれるのはいいけど、相手がどんな人かは自分で判断する」
「……おう」
それだけ言って、凛はまた歩き出した。
俺は半歩遅れてついていく。
……なんだよ。
別に俺は、凛のためを思って言っただけだろ。
幼馴染として当然の忠告じゃんか。
なのに——なんで、少しだけ距離を感じるんだろう。
この違和感の正体に、俺はまだ気づけていなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
校舎の裏口から出た藤宮糸は、海斗と並んで駅に向かっていた。
「で、昼休み撃沈したんだろ? 次の作戦は?」
「作戦って……別に作戦とかないよ。普通に話しかけるだけ」
「それで塩対応食らってんじゃん」
「まだ二回目だって。焦んなよ」
「お前が焦ってないのがすげえよ」
海斗が呆れたように笑う。
「いや——焦ってないわけじゃない」
「ん?」
「今までと全然違うんだよ。頭で考えたことと、口から出る言葉が噛み合わない。あの人の前に立つと、準備してきたこと全部飛ぶ」
「……お前が、そんなこと言うの初めて聞いた」
「だろうな。俺も初めてだ」
自嘲気味に笑った。
百人と喋って困らなかった俺が、たった一人の前で言葉を失う。
滑稽だと思う。でも——悪い気分じゃない。
「でもさ、だからこそ引けないんだよ」
「……どういう意味?」
「今まで、全部余裕だったんだ。相手の反応も読めたし、会話をどう転がすかもわかってた。コントロールできてた」
「うん」
「でも氷室さんの前じゃ、何もコントロールできない。初めてだよ、こんなの。……だからたぶん、これが本気ってやつなんだと思う」
海斗が黙った。
しばらく歩いて、ぽつりと言った。
「……お前、変わったな」
「そうか?」
「うん。良い方に」
海斗はそれ以上何も言わなかった。
ただ少しだけ、嬉しそうに笑っていた。
「——来週のボランティア、また行くんだろ?」
「当たり前だ」
「ま、がんばれよ。塩対応の壁、俺じゃ超えられる気しないけど」
「超えるよ。何回食らっても」
空はもう夕焼け色に変わり始めていた。
藤宮糸の、人生で初めての恋。
その二日目は——派手に空振って、きれいに沈んで、それでも全然諦める気にならない。
そんな一日だった。




