第十一話 崩れる砦
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何かがおかしいと気づいたのは、月曜の朝だった。
教室に入った瞬間、空気が違った。
普段なら坂本が「おう」と手を上げてくる。田中が何かしょうもないことを言って笑わせてくる。
でも今日は——誰も、こっちを見なかった。
いや、見ていないわけじゃない。
ちらっと見て、目を逸らす。
それが——何人も。
「……おはよう」
坂本の席の横に行って声をかけた。
「あ、おう。おはよ」
返事はあった。でも、いつもの軽さがない。
坂本の目が泳いでいる。
「どうした? なんか変な空気なんだけど」
「いや、別に——」
「坂本」
田中が、離れた席から口を挟んだ。
その顔が——暗い。
「言ったほうがいいって」
「……言うって、何を」
坂本が小さくため息をついた。
「蒼太、座れ。話がある」
◇ ◇ ◇
坂本が語った内容は——最悪だった。
グループLINE。
俺がずっと書き込んでいた、藤宮の悪口。凛の話。
あれが——スクショで出回っていた。
「え……誰が」
「わからない。でもグループのメンバーの誰かが、別のグループに流した。そっから拡散したっぽい」
頭が真っ白になった。
「拡散って——どのくらい」
「……学年の半分くらいは見てると思う」
半分。
学年の、半分。
「凛は——氷室は、見たのか」
坂本が目を伏せた。
「……たぶん。二組にも回ってるから」
足元が崩れた。
あのLINE。
俺が書いた言葉。
全部——全部、残っている。
『あいつ誰にでもあんな感じだから。つかあいつ素直じゃないだけで、俺にだけは態度違うし。まあ要領悪いっつーか、不器用なんだよなw』
『藤宮ってマジで節操ないよな。手当たり次第じゃん。凛も迷惑してるだろうに』
『てか藤宮が一年の子断ったって話、どうせ氷室のこと狙ってるからだろ。ほんとキモいわ』
『今日凛に帰ろうって誘ったら断られたわ。あいつ最近マジで素っ気ない。まあ元からだけどw』
全部——凛を揶揄う言葉。凛を見下す言葉。凛を所有物のように語る言葉。
照れ隠しのつもりだった。男同士のノリのつもりだった。
でも文字になって、文脈を失って、スクショとして切り取られたそれは——ただの悪口だった。
「……誰だよ。誰が流したんだよ」
「だからわからないって。でも蒼太、それよりも——」
「誰かを聞いてんだよ! 俺たちのグループの中に裏切り者がいるってことだろ!?」
声が大きくなった。
周りの視線が集まる。
坂本が俺の腕を掴んだ。
「落ち着けって。それ——お前が言うことじゃないだろ」
「…………は?」
「書いたのはお前だ、蒼太。誰が流そうが、書いたのはお前なんだよ」
——殴られたような衝撃だった。
坂本の目が、真っ直ぐ俺を見ている。
怒りじゃない。悲しみに近い何かだ。
「俺も田中も、何回も言ったよな。やめとけって。しつこいって。聞いてるほうがしんどいって」
「…………」
「でもお前、止まんなかった。何回言っても止まんなかった。だから——こうなった」
田中が何も言わずに座っている。
他のグループメンバーも——誰も、俺をフォローしなかった。
◇ ◇ ◇
一時間目が始まるまでの十分間が、一生のように長かった。
教室の中で、俺は完全に孤立していた。
さっきまで坂本や田中と話していたことで、周りは事情を察しているらしい。
誰も話しかけてこない。
廊下を歩けば、すれ違う生徒がちらちらとこちらを見る。
「あいつだよ」「LINEの」——断片的な囁きが聞こえる。
俺の名前と一緒に、書き込みの内容が語られている。
藤宮の悪口を延々と書いていたこと。
凛を「あいつ」呼ばわりして揶揄っていたこと。
幼馴染を所有物のように語っていたこと。
全部——事実だ。
俺が書いた。俺の言葉だ。
でも。
こんなつもりじゃなかった。
ただの愚痴だった。仲間内のノリだった。
凛のことを本当に悪く思っているわけじゃなかった。
藤宮への敵意は——凛を取られたくなかっただけだ。
こんなつもりじゃ——
……こんなつもりじゃなかった?
じゃあ、どんなつもりだったんだ。
凛を「不器用」と笑い、「素っ気ない」とネタにし、「要領悪い」と貶めて。
それで何を守ろうとしていた?
凛を?
違う。
自分のプライドを——守ろうとしていたんだ。
「俺と凛は大丈夫」という幻想を維持するために、凛を下に見て、藤宮を排除して、仲間に同調を求めて。
全部——自分のためだった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
教室にいたくなくて、屋上に続く階段の踊り場に座っていた。
スマホを見る。
グループLINEは動いていない。いや——俺がいないところで、別のグループが動いているんだろう。俺を抜いた。
一人だ。
こんなに一人になったのは、いつ以来だろう。
小学校の頃から凛がそばにいて、中学で坂本や田中と仲良くなって、高校でもそのまま。
人間関係に困ったことなんてなかった。
なかった——はずなのに。
全部、自分で壊した。
階段の踊り場は薄暗くて、下の廊下から生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
その声が——遠い。
ドアが開いた。
坂本だった。
「……ここにいたのか」
「…………」
「飯、食った?」
「食ってない」
「だろうな」
坂本が隣に座った。
手にコンビニの袋を持っている。
「ほら。おにぎり」
「……いらない」
「食え。腹減ってんだろ」
「…………」
おにぎりを受け取った。
鮭。俺がいつも買うやつだ。
「坂本」
「ん?」
「……お前は、怒ってないのか」
「怒ってるよ」
即答だった。
「怒ってるけど——お前のこと嫌いにはなってない。それとこれとは別だから」
「…………」
「ただ、俺がフォローできるのはここまでだ。お前がやったことは、お前が自分でケリつけなきゃいけない」
わかってる。
わかってるけど——どうすればいいのか、わからない。
「凛に——会えると思うか」
「それは俺にはわからない。でも——会うなら、ちゃんとしたほうがいい。言い訳じゃなくて」
「…………」
「お前の悪いとこってさ、蒼太。全部『つもりじゃなかった』で済ませようとするとこだよ」
——刺さった。
「悪口言うつもりじゃなかった。傷つけるつもりじゃなかった。でも結果はそうなってる。そこを認めないと、何も始まんないと思う」
おにぎりを、一口かじった。
味がしなかった。
◇ ◇ ◇
五時間目。
教室に戻ると、凛の席が見えた。
彼女はいつも通り、背筋を伸ばして授業を聞いている。
俺のほうを——一度も見なかった。
授業中、横目で彼女の表情を窺う。
怒っているようには見えない。悲しんでいるようにも見えない。
ただ——いつも通りだ。
いつも通り。
それが一番、怖かった。
怒ってくれたほうがまだマシだ。泣いてくれたほうがまだ、俺にも何かできる。
でも「いつも通り」は——俺がもう、凛の感情の範囲外にいるということだ。
怒る価値すらない。
悲しむ価値すらない。
ただの——いなくても何も変わらない人間。
◇ ◇ ◇
放課後。
凛が教室を出る。
追いかけなきゃ。今日を逃したら——もう、永遠に話せなくなる気がする。
「凛」
廊下で声をかけた。
彼女が足を止める。
振り返った凛の顔は——やっぱり、いつも通りだった。
怒りも悲しみもない。ただ静かな目。
「LINE、見た?」
「…………見た」
「あれは——」
「つもりじゃなかった」と言いかけて、止めた。
坂本の言葉が蘇る。全部「つもりじゃなかった」で済ませようとするところが悪いところだ、と。
「……俺が書いた。全部、俺の言葉だ」
「知ってる」
「凛のことを——悪く言うつもりは、なかったんだ。でも——」
「蒼太」
彼女が静かに遮った。
「つもりがあったかどうかは、関係ない。書いたのは事実でしょ」
「…………うん」
「『不器用』『素っ気ない』『要領悪い』。それが蒼太から見た私なんだね」
「違う。それは照れ隠しで——」
「照れ隠しなら何を言ってもいいの?」
言葉が出なかった。
「私は——ずっと思ってた。蒼太は裏で何を言ってるんだろうって」
「え——」
「あなたが友達の前で誰かの悪口を言うのは、前から知ってたから。ただ、私のことは言わないと思ってた」
凛の声は——平坦だった。
怒りでも悲しみでもない。ただ、事実を確認している声。
それが何より——痛かった。
「凛。俺は——お前のことが——」
「好き、って言うんでしょ」
先に言われた。
「知ってる。ずっと知ってた。幼馴染だから——いつかそうなると思ってたのも、本当」
「じゃあ——」
「でも——好きな人のことを、裏で笑い者にする人とは、一緒にいられない」
静かに、はっきりと。
「好きなら——大切にしてほしかった。言葉じゃなくていい。態度で。行動で。でも蒼太は、隣にいることに甘えて——何もしなかった」
「…………」
「私を悪く言って笑いを取って、藤宮の悪口を書いて自分を守って。それが——蒼太の十年間の答えなんだね」
涙は出なかった。
出るような段階はとっくに過ぎている。
ただ——体中の力が抜けていく感覚があった。
膝が震えている。声が出ない。
「凛——ごめん」
「…………」
「本当に——ごめん」
彼女は少し黙って——それから、小さく息を吐いた。
「謝ってくれたことは、ちゃんと受け取る。でも——前みたいには戻れない」
「…………」
「ごめんね」
凛が——俺に、謝った。
俺が傷つけたのに、凛のほうが「ごめんね」と言った。
その一言が、何よりも重かった。
彼女は背を向けて、歩いていった。
振り返らなかった。
俺は廊下に立ったまま、動けなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
一人で歩いている。
いつもの道。凛と何百回も歩いた道。
隣に、誰もいない。
スマホを見る。
グループLINEには、坂本からのメッセージがひとつだけあった。
『今日はゆっくり休め。また明日な』
……坂本。
お前だけだ。まだ、こうやって声をかけてくれるの。
返信を打つ。
何度も消して——結局、三文字だけ送った。
『ありがとう』
スマホをポケットにしまう。
空を見上げた。
曇り空。月は見えない。
俺は——全部、自分でやった。
凛の悪口を書いたのは俺。
藤宮を一方的に敵視したのも俺。
周りの忠告を無視し続けたのも俺。
凛の隣にいることに甘えて、何の努力もしなかったのも——俺だ。
誰のせいでもない。
藤宮のせいじゃない。
凛のせいでもない。
全部——俺の選択の結果だ。
それをようやく——認めた。
認めたところで、何も戻ってこない。
凛との関係も。友人たちの信頼も。
積み上げたはずの十年も。
でも——坂本のおにぎりの味を、ようやく思い出した。
鮭。しょっぱくて、温かかった。
まだ——全部が終わったわけじゃない、のかもしれない。
たぶん。




