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幼馴染だからって慢心してたお前の席、俺がもらうけどいいよな? ——遊び人、初めてのガチ恋記録  作者: ベリーブルー


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10/12

第十話 月明かりの告白

――――――――――――――――――――



 三巻を読み終えた。


 金曜の夜。ベッドの上で最後のページをめくって、しばらく天井を見つめていた。


 すごい小説だった。


 伏線が全て回収された時の衝撃。登場人物たちの選択の重さ。そして——最後の一文の静けさ。

 読み終えた後、五分くらい動けなかった。


 氷室凛が夢中になっていた理由が、完全にわかった。

 この物語は——自分の目で見て、自分で判断して、自分の行動に責任を持つ人間の話だ。

 彼女そのものじゃないか。


 スマホを手に取る。

 LINEを開いて、氷室凛とのトーク画面を表示した。


 前回のやり取りは一週間前。『三巻まで読んでから感想言って』という彼女のメッセージと、俺の『了解』だけ。


 ここに——何を書けばいい?


 「読み終わった」。それは事実。

 「すごかった」。それも事実。

 でもそんな言葉じゃ足りない。


 この小説の感想を、文字で伝えたくなかった。

 彼女の顔を見て、声で伝えたい。


 打った。


『三巻読み終わった。明日のボランティアで感想言ってもいい? 文字じゃ伝えきれない』


 送信。


 一分後、既読。

 三分後——返信。


『わかった』


 二文字。

 でもこの二文字が、明日の俺に翼をくれる。


 ……いや、翼は大げさか。

 でも少なくとも、朝五時に目が覚める理由にはなる。



◇ ◇ ◇



 土曜日。五回目のボランティア。


 今日も公民館前に早く着いた。

 鞄の中には、読み終えた三冊の文庫本が入っている。付箋だらけだ。気になった箇所に片っ端から貼った。


 スタッフのおばちゃんに挨拶して、花壇の水やりをした。

 先週から当番に入ったから、これは俺の仕事だ。


 じょうろで水をやりながら、マリーゴールドが少し伸びているのに気づいた。

 先週植えたばかりなのに、もう根付いている。


 植物は正直だ。

 ちゃんと世話をすれば、ちゃんと応えてくれる。


 人間も——そうだといいな。



 参加者が集まってくる。


 氷室凛が来た。

 今日は白いブラウスにカーキのパンツ。いつもよりちょっとだけ——いや、気のせいか。


 俺が花壇に水をやっているのを見て、彼女が足を止めた。


「……やってるんだ」


「おはよう。うん、先週当番に入れてもらった」


「…………」


 何かを言いかけて、言わなかった。

 でも——一瞬だけ、表情が緩んだ。

 本当に一瞬。瞬きしたら見逃すくらいの。


 でも俺は見逃さなかった。

 この一ヶ月半、彼女の表情ばかり見てきたんだ。


「おはよう」


 彼女がそう言って、作業エリアに向かっていった。


 今日の「おはよう」は——今までで一番、柔らかかった。



◇ ◇ ◇



 午前の作業は公園の除草と遊歩道の清掃。

 もう慣れたもので、俺も氷室凛も黙々と手を動かす。


 以前は「彼女の近くで作業したい」と思っていたけど、今はもうそういう次元じゃない。

 自分の担当エリアをちゃんとやる。手を抜かない。

 それが——彼女の隣に立つための、最低条件だと思うから。


 三村蒼太は今日も来ていた。

 だが、先週より元気がない。作業中も誰とも話さず、黙ってゴミを拾っている。

 どうしたんだろう。まあ、俺が気にすることじゃないか。



 午前の作業が終わった。


 休憩時間。

 俺は鞄から三冊の文庫本を取り出して、ベンチに座った。


 氷室凛が——迷うような足取りで、近づいてきた。


 先週は俺のほうから距離を取った。

 今日は——彼女のほうから来ている。


 ベンチの隣に座った。

 間の距離は、一人分。


「……読んだんだ」


 本に貼られた大量の付箋を見て、彼女が言った。


「読んだ。三冊とも」


「付箋、多いね」


「気になる箇所が多すぎた」


 彼女がわずかに身を乗り出す。

 本に目が行っている。


「……どこが気になった?」


 来た。


 俺は一巻目を開いて、最初の付箋のページを見せた。


「まずここ。三章のラスト。氷室さんが『入口』って言ってたところ」


「うん」


「主人公が『真実は一つじゃない』って気づく場面だよな。でも俺、ここで気づいたのは真実がどうとかじゃなくて——主人公の孤独だった」


 氷室凛がこちらを見た。


「孤独?」


「みんなが一つの答えを信じてる中で、自分だけ別の景色が見えてしまった時の——取り残される感覚。あれが痛かった」


「…………」


「で、二巻でその孤独が加速するじゃん。味方だと思ってた人が離れていって。でも主人公は自分の目で見たものを信じ続ける」


「……うん」


「氷室さんが映画では省略されたって言ってた登場人物——あの人の視点が入ることで、主人公の孤独がもっと際立つんだよな。映画だと主人公が正しいって最初からわかるけど、原作は『本当にこの人が正しいのか?』って読者も揺れる。その揺れが——すごく良かった」


 俺は夢中で喋っていた。

 気がつけば、付箋のページを次々めくりながら、自分の感想を吐き出している。


 二巻の中盤の伏線。三巻で回収された時の衝撃。登場人物たちの選択。そして最後の一文。


「あのラストさ、『それでも朝は来る』って——あの一文で全部救われた気がした。希望とかじゃなくて、もっと静かなもの。正しいことをした人間が、報われるかどうかはわからないけど、でも朝は来る。それだけは確かだっていう——」


 言葉を切って、横を見た。


 氷室凛が——泣いていた。


 いや、泣いているというのは大げさだ。

 目の端が濡れていて、唇をきゅっと噛んでいて、必死にこらえている。


「え——氷室さん?」


「泣いてない」


「いや、ちょっと——」


「泣いてないから」


 強い声。でも鼻声。

 明らかに泣いている。


「……ごめん。変なこと言った?」


「変なこと言ってない。ただ——」


 彼女は顔を背けて、手の甲で目元を押さえた。


「ただ——あの最後の一文を、そんなふうに読んでくれた人が初めてだったから」


 俺の心臓が、音を立てて鳴った。


「結衣に薦めた時も、母に薦めた時も、みんな『面白かった』で終わった。それは別にいい。感想は人それぞれだから」


「…………」


「でも——あの一文の意味を、ちゃんとわかってくれた人は、いなかった」


 彼女が俺を見た。

 涙の跡が残る目で、真っ直ぐに。


「……ありがとう。読んでくれて」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 静かに、深く。



◇ ◇ ◇



 午後の作業は、ほとんど記憶がない。


 体は動いていたはずだ。ゴミを拾って、落ち葉を掃いて、やるべきことはやった。

 でも頭の中は——さっきの氷室凛の表情でいっぱいだった。


 あの涙。

 あの「ありがとう」。

 あの——真っ直ぐな目。


 もう限界だ。


 今日——言わなきゃいけない。

 これ以上黙っていたら、嘘になる。


 俺が彼女のそばにいる理由。

 ボランティアを続ける理由。

 花壇の水やり当番に入った理由。

 三冊の本を読んだ本当の理由。


 全部——彼女が好きだからだ。

 それを伝えなきゃいけない。



◇ ◇ ◇



 ボランティアが終わった。

 夕方の公民館前。解散の挨拶が終わり、参加者がぽつぽつと帰っていく。


 氷室凛は——今日は、すぐに帰らなかった。

 花壇の前に立って、新しい花を見ている。


 今しかない。


「氷室さん」


 声をかけた。

 彼女が振り返る。


「……少し、時間もらえる?」


「…………」


 何も言わない。

 でも——立ち去らなかった。


 俺は一歩、近づいた。


「今日の感想の話、嬉しかった。氷室さんが大切にしてる作品のことを、少しでもわかれた気がして」


「…………」


「でも——正直に言うと、本を読んだのは、氷室さんと話したかったからだ」


 彼女の目が少し見開かれた。


「最初のきっかけはそうだった。でも読み始めたら本気で面白くて、途中からは純粋に物語に引き込まれた。それは本当」


「…………」


「俺はいつも、こうなんだ。動機は不純でも、やってるうちに本気になる。ボランティアもそうだった。最初は罰則で来て、氷室さんに会いたくて続けて——でも今は、ちゃんとやることに意味を感じてる」


 言葉を選びながら、でも止まらずに。

 彼女の目を見て、話し続けた。


「俺が遊び人だっていう噂、知ってるよな」


「…………うん」


「事実だ。付き合った人数は多いし、長続きしなかった。一ヶ月とか二ヶ月で終わった関係もある。それは否定しない」


「…………」


「でも——毎回本気だった。適当に付き合ったことは一度もない。好きになって、一緒にいて、でも違うって思ったら正直に向き合って終わらせた。元カノたちとは今でも普通に話せる。それが俺の恋愛の全部だ」


 氷室凛は黙って聞いている。

 表情は読めない。でも——逃げていない。


「で、そんな俺が——氷室凛に、生まれて初めて自分から惚れた」


 言った。


 心臓がうるさい。手のひらが汗ばんでいる。

 こんなに緊張したの、人生で初めてだ。


「自分から好きになったの、初めてなんだ。今まで全部、相手からだった。でも氷室さんには——ボランティアで話した時、あの言葉を聞いた瞬間に、持っていかれた」


「…………」


「俺は遊び人だったし、氷室さんにふさわしい人間じゃないかもしれない。真面目で、強くて、自分を曲げない氷室さんの隣に俺が立つのは——似合わないと思う」


 夕焼けが公民館の壁をオレンジ色に染めている。

 花壇のマリーゴールドが、風に揺れていた。


「でも——好きだ。氷室さんのことが」


 言い切った。


 静寂。


 風の音。遠くで鳥が鳴いている。


 氷室凛は——長い間、何も言わなかった。


 俺を見て。

 目を伏せて。

 花壇を見て。

 また俺を見て。


 その目は——揺れていた。


 嫌悪じゃない。困惑でもない。

 もっと複雑な、いくつもの感情が混ざった目。


 そして——ようやく、口を開いた。


「……少し、待って」


 小さな声。


「今すぐ答えられない。ごめんなさい」


「…………」


「嫌とか、そういうことじゃなくて。ただ——整理する時間がほしい」


 嫌じゃない。

 嫌じゃないと——今、この人は言った。


「わかった。待つよ」


「…………」


「いくらでも待つ。氷室さんが答えを出すまで」


 彼女が息を吸った。

 少し震えていた。


「……ずるい」


「え?」


「そうやって——全部正直に言うの、ずるい。逃げ場がなくなる」


「…………」


「私は——自分の目で見て判断する人間だから。噂じゃなくて、藤宮を——あなたを、ちゃんと見てきた」


 あなた、と言った。

 藤宮じゃなくて、あなた。


「見てきて——わからなくなった。遊び人だと思ってた人が、花壇に水をやって、私の好きな本を読んで、不器用に空回りして」


「…………」


「だから——もう少しだけ、時間をください」


 俺は頷いた。

 笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。

 たぶん——泣きそうだったから。


「待ってる。何日でも、何週間でも」


「……大げさ」


「大げさじゃない。本気だから」


 彼女は俺から目を逸らして、鞄を持ち直した。


「じゃあ——帰る」


「うん。気をつけて」


 彼女が歩き出した。


 三歩。五歩。十歩。


 振り返らない。


 でも——十五歩目で、足が止まった。


「藤宮」


 振り返らずに、背中のまま。


「あの小説の——最後の一文」


「…………」


「『それでも朝は来る』」


「……うん」


「私も——あの一文が一番好き」


 それだけ言って、彼女は歩いていった。


 今度は振り返らなかった。


 俺は——花壇の前に立ったまま、しばらく動けなかった。


 夕焼けが薄暮に変わっていく。

 オレンジが紫になって、やがて紺色に染まっていく。


 告白した。

 返事は保留。


 でも——拒絶じゃなかった。

 「嫌じゃない」と言ってもらえた。

 「あなたをちゃんと見てきた」と言ってもらえた。


 それだけで——今は十分だ。


 空を見上げた。

 雲の切れ間から、月が見えた。

 細い三日月。まだ満ちていない月。


 俺の恋も——まだ満ちていない。

 でも確かに、そこにある。


 海斗にLINEを送った。


『告白した』


 十秒で既読。五秒で返信。


『どうだった?!』


『保留。でも嫌じゃないって言ってくれた』


『…………』

『…………』

『お前マジですげえよ』


『まだ何もすごくない。待ってるだけだ』


『待てることがすごいんだよ。前のお前なら、もう次行ってた』


 ……確かに。

 前の俺なら、保留された時点で「脈なし」と判断して引いていたかもしれない。


 でも今は違う。

 待つことに意味がある。

 この人の答えなら——どんな答えでも、正面から受け止める。


『海斗。俺、変わったかな』


『変わった。間違いなく。良い方に』


『……ありがとう』


『おう。朗報待ってるぞ』


 スマホをしまって、帰り道を歩き出した。


 月明かりが、薄く道を照らしている。


 藤宮糸、十七歳。

 生まれて初めての告白は——返事待ちという、最も心臓に悪い結果で終わった。


 でも不思議と、穏やかだった。

 言うべきことは全部言った。嘘はひとつもない。


 あとは——彼女を信じて、待つだけだ。

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