第十話 月明かりの告白
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三巻を読み終えた。
金曜の夜。ベッドの上で最後のページをめくって、しばらく天井を見つめていた。
すごい小説だった。
伏線が全て回収された時の衝撃。登場人物たちの選択の重さ。そして——最後の一文の静けさ。
読み終えた後、五分くらい動けなかった。
氷室凛が夢中になっていた理由が、完全にわかった。
この物語は——自分の目で見て、自分で判断して、自分の行動に責任を持つ人間の話だ。
彼女そのものじゃないか。
スマホを手に取る。
LINEを開いて、氷室凛とのトーク画面を表示した。
前回のやり取りは一週間前。『三巻まで読んでから感想言って』という彼女のメッセージと、俺の『了解』だけ。
ここに——何を書けばいい?
「読み終わった」。それは事実。
「すごかった」。それも事実。
でもそんな言葉じゃ足りない。
この小説の感想を、文字で伝えたくなかった。
彼女の顔を見て、声で伝えたい。
打った。
『三巻読み終わった。明日のボランティアで感想言ってもいい? 文字じゃ伝えきれない』
送信。
一分後、既読。
三分後——返信。
『わかった』
二文字。
でもこの二文字が、明日の俺に翼をくれる。
……いや、翼は大げさか。
でも少なくとも、朝五時に目が覚める理由にはなる。
◇ ◇ ◇
土曜日。五回目のボランティア。
今日も公民館前に早く着いた。
鞄の中には、読み終えた三冊の文庫本が入っている。付箋だらけだ。気になった箇所に片っ端から貼った。
スタッフのおばちゃんに挨拶して、花壇の水やりをした。
先週から当番に入ったから、これは俺の仕事だ。
じょうろで水をやりながら、マリーゴールドが少し伸びているのに気づいた。
先週植えたばかりなのに、もう根付いている。
植物は正直だ。
ちゃんと世話をすれば、ちゃんと応えてくれる。
人間も——そうだといいな。
参加者が集まってくる。
氷室凛が来た。
今日は白いブラウスにカーキのパンツ。いつもよりちょっとだけ——いや、気のせいか。
俺が花壇に水をやっているのを見て、彼女が足を止めた。
「……やってるんだ」
「おはよう。うん、先週当番に入れてもらった」
「…………」
何かを言いかけて、言わなかった。
でも——一瞬だけ、表情が緩んだ。
本当に一瞬。瞬きしたら見逃すくらいの。
でも俺は見逃さなかった。
この一ヶ月半、彼女の表情ばかり見てきたんだ。
「おはよう」
彼女がそう言って、作業エリアに向かっていった。
今日の「おはよう」は——今までで一番、柔らかかった。
◇ ◇ ◇
午前の作業は公園の除草と遊歩道の清掃。
もう慣れたもので、俺も氷室凛も黙々と手を動かす。
以前は「彼女の近くで作業したい」と思っていたけど、今はもうそういう次元じゃない。
自分の担当エリアをちゃんとやる。手を抜かない。
それが——彼女の隣に立つための、最低条件だと思うから。
三村蒼太は今日も来ていた。
だが、先週より元気がない。作業中も誰とも話さず、黙ってゴミを拾っている。
どうしたんだろう。まあ、俺が気にすることじゃないか。
午前の作業が終わった。
休憩時間。
俺は鞄から三冊の文庫本を取り出して、ベンチに座った。
氷室凛が——迷うような足取りで、近づいてきた。
先週は俺のほうから距離を取った。
今日は——彼女のほうから来ている。
ベンチの隣に座った。
間の距離は、一人分。
「……読んだんだ」
本に貼られた大量の付箋を見て、彼女が言った。
「読んだ。三冊とも」
「付箋、多いね」
「気になる箇所が多すぎた」
彼女がわずかに身を乗り出す。
本に目が行っている。
「……どこが気になった?」
来た。
俺は一巻目を開いて、最初の付箋のページを見せた。
「まずここ。三章のラスト。氷室さんが『入口』って言ってたところ」
「うん」
「主人公が『真実は一つじゃない』って気づく場面だよな。でも俺、ここで気づいたのは真実がどうとかじゃなくて——主人公の孤独だった」
氷室凛がこちらを見た。
「孤独?」
「みんなが一つの答えを信じてる中で、自分だけ別の景色が見えてしまった時の——取り残される感覚。あれが痛かった」
「…………」
「で、二巻でその孤独が加速するじゃん。味方だと思ってた人が離れていって。でも主人公は自分の目で見たものを信じ続ける」
「……うん」
「氷室さんが映画では省略されたって言ってた登場人物——あの人の視点が入ることで、主人公の孤独がもっと際立つんだよな。映画だと主人公が正しいって最初からわかるけど、原作は『本当にこの人が正しいのか?』って読者も揺れる。その揺れが——すごく良かった」
俺は夢中で喋っていた。
気がつけば、付箋のページを次々めくりながら、自分の感想を吐き出している。
二巻の中盤の伏線。三巻で回収された時の衝撃。登場人物たちの選択。そして最後の一文。
「あのラストさ、『それでも朝は来る』って——あの一文で全部救われた気がした。希望とかじゃなくて、もっと静かなもの。正しいことをした人間が、報われるかどうかはわからないけど、でも朝は来る。それだけは確かだっていう——」
言葉を切って、横を見た。
氷室凛が——泣いていた。
いや、泣いているというのは大げさだ。
目の端が濡れていて、唇をきゅっと噛んでいて、必死にこらえている。
「え——氷室さん?」
「泣いてない」
「いや、ちょっと——」
「泣いてないから」
強い声。でも鼻声。
明らかに泣いている。
「……ごめん。変なこと言った?」
「変なこと言ってない。ただ——」
彼女は顔を背けて、手の甲で目元を押さえた。
「ただ——あの最後の一文を、そんなふうに読んでくれた人が初めてだったから」
俺の心臓が、音を立てて鳴った。
「結衣に薦めた時も、母に薦めた時も、みんな『面白かった』で終わった。それは別にいい。感想は人それぞれだから」
「…………」
「でも——あの一文の意味を、ちゃんとわかってくれた人は、いなかった」
彼女が俺を見た。
涙の跡が残る目で、真っ直ぐに。
「……ありがとう。読んでくれて」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
静かに、深く。
◇ ◇ ◇
午後の作業は、ほとんど記憶がない。
体は動いていたはずだ。ゴミを拾って、落ち葉を掃いて、やるべきことはやった。
でも頭の中は——さっきの氷室凛の表情でいっぱいだった。
あの涙。
あの「ありがとう」。
あの——真っ直ぐな目。
もう限界だ。
今日——言わなきゃいけない。
これ以上黙っていたら、嘘になる。
俺が彼女のそばにいる理由。
ボランティアを続ける理由。
花壇の水やり当番に入った理由。
三冊の本を読んだ本当の理由。
全部——彼女が好きだからだ。
それを伝えなきゃいけない。
◇ ◇ ◇
ボランティアが終わった。
夕方の公民館前。解散の挨拶が終わり、参加者がぽつぽつと帰っていく。
氷室凛は——今日は、すぐに帰らなかった。
花壇の前に立って、新しい花を見ている。
今しかない。
「氷室さん」
声をかけた。
彼女が振り返る。
「……少し、時間もらえる?」
「…………」
何も言わない。
でも——立ち去らなかった。
俺は一歩、近づいた。
「今日の感想の話、嬉しかった。氷室さんが大切にしてる作品のことを、少しでもわかれた気がして」
「…………」
「でも——正直に言うと、本を読んだのは、氷室さんと話したかったからだ」
彼女の目が少し見開かれた。
「最初のきっかけはそうだった。でも読み始めたら本気で面白くて、途中からは純粋に物語に引き込まれた。それは本当」
「…………」
「俺はいつも、こうなんだ。動機は不純でも、やってるうちに本気になる。ボランティアもそうだった。最初は罰則で来て、氷室さんに会いたくて続けて——でも今は、ちゃんとやることに意味を感じてる」
言葉を選びながら、でも止まらずに。
彼女の目を見て、話し続けた。
「俺が遊び人だっていう噂、知ってるよな」
「…………うん」
「事実だ。付き合った人数は多いし、長続きしなかった。一ヶ月とか二ヶ月で終わった関係もある。それは否定しない」
「…………」
「でも——毎回本気だった。適当に付き合ったことは一度もない。好きになって、一緒にいて、でも違うって思ったら正直に向き合って終わらせた。元カノたちとは今でも普通に話せる。それが俺の恋愛の全部だ」
氷室凛は黙って聞いている。
表情は読めない。でも——逃げていない。
「で、そんな俺が——氷室凛に、生まれて初めて自分から惚れた」
言った。
心臓がうるさい。手のひらが汗ばんでいる。
こんなに緊張したの、人生で初めてだ。
「自分から好きになったの、初めてなんだ。今まで全部、相手からだった。でも氷室さんには——ボランティアで話した時、あの言葉を聞いた瞬間に、持っていかれた」
「…………」
「俺は遊び人だったし、氷室さんにふさわしい人間じゃないかもしれない。真面目で、強くて、自分を曲げない氷室さんの隣に俺が立つのは——似合わないと思う」
夕焼けが公民館の壁をオレンジ色に染めている。
花壇のマリーゴールドが、風に揺れていた。
「でも——好きだ。氷室さんのことが」
言い切った。
静寂。
風の音。遠くで鳥が鳴いている。
氷室凛は——長い間、何も言わなかった。
俺を見て。
目を伏せて。
花壇を見て。
また俺を見て。
その目は——揺れていた。
嫌悪じゃない。困惑でもない。
もっと複雑な、いくつもの感情が混ざった目。
そして——ようやく、口を開いた。
「……少し、待って」
小さな声。
「今すぐ答えられない。ごめんなさい」
「…………」
「嫌とか、そういうことじゃなくて。ただ——整理する時間がほしい」
嫌じゃない。
嫌じゃないと——今、この人は言った。
「わかった。待つよ」
「…………」
「いくらでも待つ。氷室さんが答えを出すまで」
彼女が息を吸った。
少し震えていた。
「……ずるい」
「え?」
「そうやって——全部正直に言うの、ずるい。逃げ場がなくなる」
「…………」
「私は——自分の目で見て判断する人間だから。噂じゃなくて、藤宮を——あなたを、ちゃんと見てきた」
あなた、と言った。
藤宮じゃなくて、あなた。
「見てきて——わからなくなった。遊び人だと思ってた人が、花壇に水をやって、私の好きな本を読んで、不器用に空回りして」
「…………」
「だから——もう少しだけ、時間をください」
俺は頷いた。
笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。
たぶん——泣きそうだったから。
「待ってる。何日でも、何週間でも」
「……大げさ」
「大げさじゃない。本気だから」
彼女は俺から目を逸らして、鞄を持ち直した。
「じゃあ——帰る」
「うん。気をつけて」
彼女が歩き出した。
三歩。五歩。十歩。
振り返らない。
でも——十五歩目で、足が止まった。
「藤宮」
振り返らずに、背中のまま。
「あの小説の——最後の一文」
「…………」
「『それでも朝は来る』」
「……うん」
「私も——あの一文が一番好き」
それだけ言って、彼女は歩いていった。
今度は振り返らなかった。
俺は——花壇の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
夕焼けが薄暮に変わっていく。
オレンジが紫になって、やがて紺色に染まっていく。
告白した。
返事は保留。
でも——拒絶じゃなかった。
「嫌じゃない」と言ってもらえた。
「あなたをちゃんと見てきた」と言ってもらえた。
それだけで——今は十分だ。
空を見上げた。
雲の切れ間から、月が見えた。
細い三日月。まだ満ちていない月。
俺の恋も——まだ満ちていない。
でも確かに、そこにある。
海斗にLINEを送った。
『告白した』
十秒で既読。五秒で返信。
『どうだった?!』
『保留。でも嫌じゃないって言ってくれた』
『…………』
『…………』
『お前マジですげえよ』
『まだ何もすごくない。待ってるだけだ』
『待てることがすごいんだよ。前のお前なら、もう次行ってた』
……確かに。
前の俺なら、保留された時点で「脈なし」と判断して引いていたかもしれない。
でも今は違う。
待つことに意味がある。
この人の答えなら——どんな答えでも、正面から受け止める。
『海斗。俺、変わったかな』
『変わった。間違いなく。良い方に』
『……ありがとう』
『おう。朗報待ってるぞ』
スマホをしまって、帰り道を歩き出した。
月明かりが、薄く道を照らしている。
藤宮糸、十七歳。
生まれて初めての告白は——返事待ちという、最も心臓に悪い結果で終わった。
でも不思議と、穏やかだった。
言うべきことは全部言った。嘘はひとつもない。
あとは——彼女を信じて、待つだけだ。




