56、鉄と油の匂いがする来訪者が……やってきたやってきた〜ぞ
平和という言葉には、おそらく賞味期限が設定されている。
しかもそれは、スーパーで半額シールを貼られた惣菜パンの消費期限よりもずっと短く、そして容赦なく切れるものらしい。
世界平和、なんて壮大なスローガンを掲げる人がいるけれど、あんなものは冷凍保存でもしない限り維持できない。少なくとも、この異世界において「平和な日常」というのは、次のトラブルがやってくるまでのインターバル、あるいは嵐の前の息継ぎの時間でしかないのだと思い知らされている。
聖女セシールという、歩く完璧主義みたいな厄介なシステムをどうにかこうにかバグらせて追い払ってから、数週間が経った。
村には、束の間の、本当に束の間の平穏が訪れていた。
どれくらい平穏かというと、わたしが今、切り株に腰掛けながら、塩茹でした芋の皮を剥いて、それをただもぐもぐと咀嚼しているくらいには平穏だ。
この芋は、つい数日前に村の畑で収穫されたものだ。魔素の身体だから本来食事は必要ないのだけれど、チハたんが気を利かせて味覚センサーを調整してくれたおかげで、ホクホクとした食感と、塩の塩味、そして芋特有の素朴な甘みをしっかりと感じることができる。
美味しい。普通に美味しい。
タピオカミルクティーの映える甘さもいいけれど、泥にまみれて育った芋の、無骨で飾らない味というのは、疲れた精神に深く染み渡る。
「……スローライフ、悪くないかも」
わたしは、芋を半分ほど平らげたところで、ぽつりと呟いた。
『千波。あなたの言うスローライフの定義が不明確ですが、現状のこの集落の労働時間は、先進国の基準を大きく上回っています。スローというより、ハードサバイバルです』
背後で休眠モードに入っているはずのチハたんが、余計なデータ分析を挟んでくる。
「気持ちの問題だよ。心に余裕があれば、それはスローなの。それに、みんな結構楽しそうじゃない」
わたしの視線の先では、獣人の子どもたちが追いかけっこをしており、大人たちは笑いながら柵の修理や薪割りを行っている。
掲示板システムもすっかり定着し、エルドは今日も真面目に村人からの相談事やタスクを木の板に書き込んでいる。
そして何より、村の食糧事情を劇的に改善させた最大の功労者が、少し離れた畑にいた。
「土の呼吸が乱れている。もっと優しく、かつ深く掘り起こせ。慈悲と容赦は違うと何度言えばわかる」
元・異端審問官であり、現・農民(仮)のザキだ。
彼は今日も今日とて、手作りの鍬を構え、新米農民である人族の難民たちに容赦のないスパルタ指導を行っている。
かつて異端を裁いていたその冷徹な金色の瞳は、今や雑草や害虫を親の仇のように見つけ出し、的確に排除するためのセンサーとして機能している。
彼が育てた芋は、他の村人が育てたものよりも一回り大きく、形も異常なまでに整っていた。農業に対する謎のストイックさが、結果として最高品質の作物を生み出しているのだ。
「あの人、完全に適職を見つけたよね」
『肯定します。彼の身体強化魔法の運用ベクトルが、戦闘から農作業へと完全にシフトしました。鍬を振るう軌道計算の精密さは、当機の火器管制システムに匹敵します』
「戦車に張り合う農民ってどうなのよ」
ザキの姿を見ていると、人間の順応性というのは恐ろしいものだなと思う。信じていた神のシステムに裏切られ、世界の真実に少しだけ触れてフリーズしていた男が、土に触れることでアイデンティティを取り戻している。
土は嘘をつかない。手をかければ応えてくれる。
宗教の教義よりも、肥料と水と太陽の光の方がよほど信頼できると、彼は身をもって証明しているのだ。
そんな平和な風景を眺めながら残りの芋を口に運ぼうとした時、村の入り口の方から、妙に甲高い声が聞こえてきた。
「へへっ、まいどあり! 千波の旦那、いやさ、領主様! 今日も極上の品を仕入れてきやしたぜ!」
現れたのは、もはやこの村の専属業者のような顔をしている行商人、ガメッチ。
彼は以前のようにボロボロのロバを連れているのではなく、立派な荷馬車を引かせていた。わたしたちが買い取り代金として渡した教会騎士のおみやげや、チハたんの装甲の切れ端を元手に、随分と羽振りが良くなったらしい。
身なりも少し小綺麗になり、胡散臭さにより一層の磨きがかかっている。
「ご苦労様。今日は何を持ってきたの?」
わたしが切り株から立ち上がって近づくと、ガメッチは揉み手をしながら荷馬車の幌をまくった。
「へえ、ご注文いただいていた塩と砂糖、薬草の種、それから鉄の釘を少々。あとはあっしの見繕いで、塩漬けの魚なんかも入れときやした。どうです、いい品でしょう?」
確かに、どれも村には必須の物資だ。
「ありがとう。で、お値段は?」
ガメッチの眼球が、右へ左へとせわしなく動く。彼が脳内でそろばんを弾いている証拠だ。
「へへ……これだけの物資を危険な森を抜けて運んでくる手間賃も込みで……前回お渡しいただいたあの金属片、三つ分ってところでどうでさぁ?」
わたしは即座に背後を振り返った。
「チハたん、相場チェック」
『算出完了。提供された物資の総価値に対し、要求されている金属片三つの市場価値は、およそ二・八倍です。相変わらずの不当な利益上乗せを確認』
チハたんの冷酷な音声が響き渡る。
ガメッチはビクッと肩を揺らし、額から滝のような冷や汗を流し始めた。
「い、いやいやいや! 鉄の旦那! これはその、輸送の保険料というやつでして! 決してぼったくろうなんて邪な考えは……!」
「チハたん、主砲の仰角を五度下げて」
『了解。目標、行商人の荷馬車』
重厚な金属の駆動音が響き、巨大な砲身がゆっくりとガメッチの方を向く。
「ひぃぃぃっ! わ、わかりやした! 一つ! 金属片一つで結構です! むしろお釣りを返さなきゃいけないくらいでさぁ!」
見事な土下座である。
この男、何度痛い目を見ても最初は必ず吹っ掛けてくる。その商魂のたくましさには呆れを通り越して感心すら覚える。
「じゃあ、それで取引成立ね。エルド、荷物の受け取りお願い」
わたしが指示を出すと、エルドが若者たちを連れて荷馬車の荷下ろしを始めた。
ガメッチは袖で額の汗を拭いながら、ほっとしたように息を吐く。
「まったく、千波様と鉄の旦那には敵いやせんね。商売あがったりですよ」
「そう言いながら、また来るんでしょ?」
「へえ、もちろん。あっしは利益の匂いがする場所なら、地獄の底まで出向く男ですから」
ガメッチはへらへらと笑った。
だが、その直後、彼の細い目が少しだけ真剣な色を帯びた。
「……ところで、千波様。今日は品物の他に、ちょっとばかり妙な噂を仕入れてきましてね」
「噂?」
わたしは警戒のアンテナを立てた。この男がわざわざ持ち出してくる噂だ。どうせロクな話ではない。
「ええ。西の港町で聞いた話なんでさぁ。最近、海を越えて妙な連中が上陸してきたって」
「妙な連中って、教会の騎士団の増援とか?」
「いやいや、教会じゃあない。そこが妙なんですよ」
ガメッチは声をひそめ、周囲を気にするようにしながら身を乗り出してきた。
「その連中、船で来たらしいんですがね……その船ってのが、帆を張ってないんですよ。それに、魔法使いが風を起こしているわけでもない。ただ真っ黒い煙を吐き出しながら、ものすごい速度で海を渡ってきたっていうんです」
黒い煙を吐く船。
帆も魔法も使わない。
その言葉の組み合わせに、わたしの前世の記憶が刺激される。
それって、もしかして。
「蒸気船、みたいな?」
「ジョーキセン? よくわかりやせんが、とにかく鉄でできた巨大な船だったそうです。で、そこから降りてきた連中も、鎧なんて着ちゃいない。揃いの緑色の服を着て、手には見たこともない鉄の筒を持っていたとか」
背筋に冷たいものが走った。
魔法の存在するこのファンタジー世界において、その描写はあまりにも異質だ。
鉄の船。黒い煙。お揃いの軍服。鉄の筒、つまり銃。
まるで、近代の軍隊じゃない。
「……その連中、どこに向かってるの?」
「それが、どうやらこの内陸部……教会の目が届きにくいこの辺りの森を目指して行軍してるって噂でさぁ」
ガメッチがそう言い終えた瞬間だった。
『千波。広域センサーに異常反応』
チハたんの音声が、緊迫感を伴って脳内に響き渡った。
「チハたん? どうしたの」
『西方約十キロ地点より、複数の熱源が急速に接近中。移動速度、時速約四十キロ。馬や魔獣の生体反応ではありません。これは……』
チハたんが言葉を区切る。
何かを照合し、確認しているような、わずかな演算の空白時間。
『これは、内燃機関の排熱です』
「内燃機関って……エンジン!?」
わたしは思わず大声を上げた。
村人たちが何事かとこちらを見る。ザキも鍬を止めて、鋭い視線を向けてきた。
『肯定します。シリンダーの爆発による物理的な駆動。紛れもない機械文明の産物です』
地面が、微かに揺れ始めた。
最初は気のせいかと思うほどの、ごく小さな振動。
しかし、それは徐々に大きさを増し、足の裏から直接骨を伝わってくるような、重たくて規則的な振動へと変わっていく。
森の奥深くから、聞いたことのない音が響いてきた。
獣の咆哮ではない。雷鳴でもない。
低く、重く、腹の底を直接揺さぶるような、金属と金属が噛み合い、爆発を繰り返す暴力的な音。
それは、わたしの前世の記憶の中にある、大型のトラックや重機が立てる音に酷似していた。
「みんな、作業を止めて! 子供たちを村の奥へ!」
わたしの指示に、村の空気が一気に引き締まる。
タゴサックさんが若者たちをまとめ、武器を手に村の入り口へと集まってくる。
ガメッチは「ひぃっ」と短い悲鳴を上げ、自分の荷馬車の陰に素早く身を隠した。逃げ足の早さだけは一級品だ。
振動がさらに大きくなる。
音が近づいてくる。
空気が、鉄と、そして焦げた油の匂いを含み始めた。
魔法の香りなど微塵もしない。ひたすらに人工的で、工業的な匂いだ。
そして。
村を囲む鬱蒼とした森の木々が、不自然な角度でへし折られ、悲鳴のような木擦れの音を立てて次々と倒れていった。
木々の間から姿を現したのは、馬に跨った騎士じゃない。
暗緑色に塗装された、分厚い装甲板で覆われた鉄の塊だった。
六つの巨大な車輪を持ち、上部には銃座のようなものが据え付けられている。
無骨で、四角くて、ただ相手を蹂躙することだけを目的に設計されたような、暴力の結晶。
その後ろからは、同じような装甲車が三両、さらに、空を飛ぶ奇妙な機械――プロペラを持たない、歪な形をした無人偵察ドローンのようなものが数機、低い羽音を立てながら随伴している。
ファンタジーの世界に、近代兵器が土足で踏み込んできた瞬間だった。
「……嘘でしょ。なんでこんな世界に、あんなものが」
わたしは呆然と呟いた。
教会の聖騎士や、聖女の理不尽な魔法攻撃のほうが、まだこの世界の理にかなっていた。
目の前にいるのは、完全に世界観を間違えた来訪者だ。
チハたんの砲塔が、油圧の音を立ててゆっくりと敵の先頭車両へと向けられた。
その動きには、いつもの冷静さだけでなく、何か別の、強い感情のようなものが混ざっているように見えた。
『千波』
チハたんの電子音声が、今まで聞いたことがないほど冷たく、そして重々しく響いた。
『接近する部隊の所属が判明しました』
「所属って……どこなの。あんなの、教会の軍隊じゃないよね」
『肯定します。彼らの発する暗号通信プロトコル、および車両の識別信号を確認』
チハたんは、一拍の間を置いて、宣告した。
『神聖大八洲魔導帝国。……当機の、母国です』
風が吹き抜け、排気ガスの匂いが村の広場を満たしていく。
平和の賞味期限は、完全に切れた。
それも、今度はカビが生えるとか腐るとかいう次元じゃない。
パッケージごと物理的に爆破されるような、最悪のトラブルの幕開けだった。
宗教の次は、軍隊か。
神様の次は、鉄と火薬か。
わたしは、魔素の身体の奥で小さく息を吐き、足を踏みしめた。
どんな相手だろうと、やることは変わらない。
この村の、泥臭くて騒がしい日常を守るだけだ。
「……チハたん」
『はい』
「同郷のよしみで、手加減する気はある?」
『皆無です。当機の指揮権は現在、あなたにあります』
「そっか。それならいい」
わたしは口角を上げ、不敵な笑みを作ってみせた。
「ようこそ、千波領へ。歓迎の準備は、ちっともできてないけどね」
空には、今日も二つの太陽が並んで輝いている。
でも、その光の下で繰り広げられるのは、剣と魔法のおとぎ話じゃない。
鉄と鉄がぶつかり合う、やかましくて油臭い、新しい戦争の始まりだった。




