55、さよならの向こう側
宴の後の静寂というものは、いつだって特有の物悲しさを伴うものだ。
文化祭が終わった直後の教室とか、年末のカウントダウンが過ぎ去った一月一日の朝の空気とか、そういうものに似ている。日常という名の引力が、非日常の浮遊感を力任せに地面へと引きずり下ろす時間帯。
だが、今回の「最高に無駄な大騒音フェスティバル」の後に訪れた静寂は、物悲しいなどという生易しいものではなかった。
それは、導火線に火がついたままの爆弾を前にしたような、極度の緊張感を孕んだ静けさだった。
村を包囲していた威圧的な防壁は、わたしたちが放った無秩序な騒音と魔素の暴力的な乱舞によって、文字通り完全に崩壊した。
白一色で統一されていた教会の陣地は、村人たちが打ち鳴らした鍋の反響と、チハたんが最大出力で放射した電波ソングの重低音によって物理的にも精神的にも蹂躙され、見るも無惨な有様になっている。
聖騎士たちは耳を塞いで蹲り、あるいは自らの平衡感覚を失って地面に這いつくばっていた。彼らの信じていた絶対的な秩序は、泥臭い生命力の奔流の前に、あっけなく機能不全に陥ったのだ。
そして何より、その秩序の中心にいた聖女セシール自身の様子が、決定的に異常だった。
彼女はテントの入り口で、頭を両手で抱え込んだまま硬直していた。
完璧な姿勢で自立することすらできていない。膝は力なく折れ曲がり、今にも地面に倒れ込みそうだ。
彼女の周囲の空間が、まるで水面に油を垂らしたように不気味に歪み、赤や黒の不規則な光の帯が明滅を繰り返している。それは、癒やしや奇跡をもたらす神聖な魔力ではない。
制御を失い、行き場をなくして暴走を始めた、純粋な破壊エネルギーの塊だった。
『千波。対象の生体魔導回路に致命的なエラーが連鎖発生しています』
チハたんの冷徹な電子音声が、わたしの脳内に直接警告を打ち込んでくる。
『彼女のシステムは、これまでに経験したことのない「感情」という名前のノイズを処理しきれず、論理破綻を起こしています。このままでは、彼女自身の魔力キャパシティが臨界点を突破し、半径数キロメートルを巻き込む大規模な熱量崩壊を引き起こします』
「熱量崩壊って、要するに自爆するってこと!?」
『肯定します。彼女という存在自体が、超高圧の魔素爆弾へと変質しつつあります』
なんて迷惑な仕様なのだ。
自分の想定外の事態に直面して処理落ちした挙句、周囲を巻き込んで大爆発を起こすなんて、欠陥品の電化製品よりも性質が悪い。クーリングオフの期間が過ぎていたとしても、絶対に製造元にクレームを入れるレベルだ。
「逃げる時間は?」
『現在地から安全圏まで退避するには、当機の最大速度をもってしても間に合いません。村人たちを誘導する余力は皆無です』
つまり、詰みだ。
あの聖女様のご乱心をここで食い止めない限り、わたしたちの村も、せっかく芽生え始めたばかりの新しい生活も、すべて消し炭になって終わる。
わたしは、深く息を吸い込んだ。
魔素で構成された肺が、周囲の焦げ臭い空気を満たしていく。
やるべきことは一つしかない。極めて非科学的で、非論理的で、わたしの前世の知識を総動員しても絶対に推奨されない無謀な行動だ。
「チハたん、わたしの身体の防御力を最大まで引き上げて。それと、もしわたしが消し飛びそうになったら、力ずくで引っ張り戻してね」
『推奨しません。対象の中心部は、すでに致死量の魔素暴風域です。接触すれば、千波の疑似生体構造そのものが分解される確率が極めて高いです』
「でも、行くしかないでしょ。あの子を一人で壊れさせるわけにはいかない」
わたしは、チハたんの装甲を蹴って、大地へと飛び降りた。
そして、地面を強く蹴り上げ、暴走する光の嵐の中心へと向かって全力で疾走を開始した。
背後でカヘージ村長やタゴサックさんが制止する声を張り上げていたが、振り向いている余裕はなかった。
セシールの周囲十メートル圏内に踏み込んだ瞬間、目に見えない巨大な壁に全身を打ち付けられたような衝撃を受けた。
空気が粘土のように重く、そして熱い。
皮膚の表面が焼け焦げるような幻覚に襲われる。チハたんの防衛プロトコルが全力で稼働し、わたしの身体を覆う虹色の装甲が激しく明滅して魔力の暴風を相殺していく。
それでも、一歩前に進むごとに、全身の骨が軋むような圧力がのしかかってきた。
暴風の中心で、セシールは虚空を見つめていた。
彼女の蒼い瞳からは、もはや知性の光は失われている。プログラムが完全にクラッシュし、意味のない文字列だけが延々とディスプレイに表示され続けているような、空虚で絶望的な瞳。
「こないで……」
彼女の唇が動き、擦れた声が漏れた。
「不純物……わたくしに、触れないで……計算が、計算が合いません……こんな不快な感覚は、データベースに存在しない……排除しなければ……すべて、排除を……」
彼女は両腕を振り上げ、無差別にエネルギーの刃を放とうとする。
わたしは、最後の力を振り絞って跳躍した。
防御をすべて捨て去り、前進することだけにエネルギーを集中させる。
光の刃がわたしの脇腹をかすめ、魔素の肉体を大きく削り取った。痛覚設定を落としているとはいえ、魂の根幹を直接削り取られるような激しい喪失感が襲いかかってくる。
それでも、わたしは止まらなかった。
そのまま彼女の懐に飛び込み、その華奢な身体を両腕で強く拘束した。
いわゆる、力任せのハグである。
彼女の身体は、氷のように冷たかった。
暴走する熱量の中心にいるというのに、彼女自身の肉体には生命の温もりが一切感じられない。冷却水が循環する機械を抱きしめているような錯覚を覚える。
「放しなさい……! 貴女は、ウイルスです! わたくしの清浄な領域を汚す、悪性のバグです!」
セシールはわたしの腕の中で暴れた。
人間離れした筋力でわたしを突き飛ばそうとするが、わたしも魔素ボディの出力を最大にして、絶対に彼女を逃がさないように抱擁の力を強める。
「うるさいな、ちょっと黙ってなさいよ!」
わたしは、彼女の耳元で怒鳴った。
「バグでもウイルスでもなんでもいいから、今はわたしの泥臭さを大人しく受信しなさい!」
わたしは、彼女の冷たい身体に、自分自身の体温を押し付けた。
大騒音フェスで走り回ったせいで、わたしの服は泥だらけだし、獣人たちの汗の匂いも纏っているはずだ。無菌室で育った彼女にとって、それは致死性の猛毒に等しい不快感だろう。
だが、それこそが今の彼女に必要な処方箋なのだ。
処理しきれない感情の波に溺れているなら、もっと強烈で、原始的で、圧倒的な「物理的感覚」で上書きしてやるしかない。
「計算が合わないなら、計算なんてやめちゃえばいいんだよ! ムカつくなら怒ればいいし、泣きたいなら泣けばいい! 自分の気持ちに理由なんて探さなくていいの!」
わたしは、彼女の背中を力強く叩いた。
「あなたは機械じゃない! 生きてる女の子なんでしょ! だったら、もっと人間らしく泥まみれになりなさいよ!」
わたしの声が、彼女の聴覚回路を直撃する。
同時に、わたしの体温と、泥の感触と、生きている人間の生々しい鼓動の振動が、彼女の肌を通じて直接伝達されていく。
彼女の抵抗が、徐々に弱まっていった。
周囲で荒れ狂っていた魔素の嵐が、まるで嘘のように勢いを失っていく。
彼女の体内で暴走していたエネルギーが、わたしという極めて不純で強力なアース線を通じて、地面へと安全に逃がされていくのがわかった。
「……あ……あぁ……」
セシールの口から、意味を成さない嗚咽が漏れた。
彼女の冷たかった身体に、急速に熱が戻ってくる。
それは、システムが正常に再起動した証拠ではない。彼女が初めて、自分の内側から湧き上がる感情という名の熱を、自らの肉体で認識した瞬間だった。
彼女の蒼い瞳から、とめどなく水滴が溢れ出し、わたしの肩を濡らした。
それは、眼球を保護するための生理的な潤滑液などではない。
悔しさ、悲しさ、安堵、そして未知の感情に対する恐怖。それらすべてが混ざり合った、紛れもない本物の涙だった。
わたしは、何も言わずに彼女の背中を撫で続けた。
しばらくの間、破壊の嵐が去った戦場の中心で、彼女のしゃくりあげる声だけが響いていた。
やがて、彼女はゆっくりとわたしを押し返した。
その顔は涙と泥で汚れ、完璧だったプラチナブロンドの髪は乱れきっている。
以前の「美術館の展示品」のような美しさは見る影もない。
だが、赤く腫らした目元と、不満げに歪んだ唇は、今の彼女が間違いなく「生きている人間」であることを証明していた。
「……汚らわしい」
彼女は、自分自身の汚れを気にするでもなく、わたしの顔を睨みつけて言った。
その声には、以前のような無機質な響きはない。明確な敵対心と、そして隠しきれない動揺が含まれていた。
「わたくしの神聖な領域に、これほどの不純物を持ち込むなど……貴女は、やはり最悪のウイルスです」
「どういたしまして。これで少しは、世界が息苦しくなくなったでしょ?」
わたしが皮肉めいた笑みを向けると、彼女は忌々しそうに視線を逸らした。
「……今回は、一時的にシステムが過負荷を起こしただけです。わたくしの敗北ではありません」
典型的な負け惜しみだ。
彼女は乱れた法衣の裾を掴み、ふらつく足取りで背を向けた。
周囲で様子を窺っていた聖騎士たちが、慌てて駆け寄り彼女を保護する。彼らもまた、自分たちの象徴である聖女がこれほど人間くさい姿を晒していることに、深刻な動揺を隠せないようだった。
「王都へ帰還します」
セシールは騎士たちに短い指示を出し、用意された予備の馬に跨った。
そして、最後にもう一度だけ、こちらを振り返った。
「次にお会いする時は、必ずや貴女というウイルスを駆逐するための、完璧なワクチンを持参いたします。それまで、せいぜいその泥濘の中で無様な生を貪惑していることですね」
言葉の刃は鋭い。
だが、彼女の瞳の奥には、以前のような完全な拒絶の壁はなかった。
そこにあるのは、わたしという不可解な存在に対する、強烈な執着だ。
わたしは、手を振ったりはしなかった。
ただ、彼女の姿が森の奥へと消えていくまで、黙って見送った。
さよならは言わない。
彼女が宣言した通り、わたしたちは必ずまた出会うことになる。お互いの存在意義をかけた、本当の意味での対話は、これから始まるのだと確信していた。
敵の軍勢が完全に撤退し、村には再び日常の空気が戻ってきた。
村人たちが駆け寄り、わたしの無事を確認して歓声を上げる。
タゴサックさんが大げさに涙を流し、タマモばあちゃんが安堵のため息をつき、エルドが力なく地面に座り込んだ。
ウールくんがわたしの足に抱きつき、えんやこらさんズが勝利のダンスを踊っている。
ザキだけが、少し離れた場所から腕を組んでこちらを見ていた。
「自己犠牲という名の狂気だな。あの暴走に生身で飛び込むとは、正気の沙汰ではない」
彼は冷ややかな言葉を投げかけてきたが、その表情はどこか柔らかかった。
「結果オーライでしょ。それに、あの子を泣かせたまま放っておくのは、わたしの趣味じゃないの」
わたしは肩をすくめ、背後で待機しているチハたんの装甲をぽんぽんと叩いた。
泥だらけの服のまま、みんなと一緒に村の片付けに取り掛かる。
壊れた鍋を拾い集め、散乱した薪を積み直し、夕食の準備を始める。
騒がしくて、面倒くさくて、決して完璧ではない、わたしたちの日常。
でも、この泥の感触こそが、わたしが命を懸けて守りたかったものなのだ。
その夜。
村が深い眠りにつき、焚き火の煙だけが夜空に立ち昇っている時間。
わたしはチハたんの車体の上で仰向けになり、満天の星空を眺めていた。
戦闘の疲労で身体は泥のように重いが、頭の中は妙に冴え渡っている。
その時、わたしの脳内に、チハたんからの極秘のデータ通信が届いた。
それは、昼間の戦闘の報告書とは異なる、暗号化された特殊なログファイルだった。
『千波。就寝前に、報告を義務付けられている事象が一件あります』
「なに? またどこかの軍隊が攻めてきたの?」
『いいえ。外部からの物理的な接近ではありません』
チハたんの音声が、一段階深く、冷たい響きに変わった。
『昼間、あなたがセシールと物理的接触を果たし、彼女の魔力暴走を相殺したあの瞬間。当機は、彼女の背後にある「女神システム」の深層領域から、意図的に送信されたと思われる微弱な指向性信号を受信しました』
わたしは身体を起こし、眉をひそめた。
「信号? 女神から?」
『送信元は不明です。しかし、その信号は明確に、あなた個人の魂の波長をターゲットにしていました。高度な宗教的暗号をバイパスし、当機が解析した結果、そこには単一の文字列だけが含まれていました』
「……なんて書いてあったの?」
一拍の沈黙。
そして、チハたんはその文字列を読み上げた。
『EVE』
イヴ。
その単語を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
それは、このファンタジーの世界には似つかわしくない、あまりにも人工的で、旧世界的な響きを持った名詞。
女神でも、精霊でもなく。
システムの中枢に潜む、誰かからの呼び声。
『報告はさらに続きます』
チハたんの報告は、それだけでは終わらなかった。
『この信号が発信された瞬間、世界全域の魔素ネットワークに微小な揺らぎが発生しました。そして、当機の広域傍受アンテナが、遥か西方――海を越えた別大陸から、この揺らぎに呼応する強力な通信電波を捉えました』
「別大陸……?」
『通信のフォーマットは、当機のデータベースに登録されているものと完全に一致しています。間違いありません。帝国軍の戦術データリンク網です』
息を呑んだ。
チハたんの故郷。
剣と魔法ではなく、鋼鉄と火薬と高度な演算処理能力で戦争を行う、近代的な軍事国家。
その帝国が、この「EVE」という信号を傍受し、動き始めたというのか。
『彼らの目標は不明です。しかし、この世界における彼らの行動原理が、当機の知る帝国と同じであれば……彼らは必ず、この異常信号の発生源であるこの場所へ、部隊を派遣してくるでしょう』
夜風が、冷たく頬を撫でた。
教会の狂信的な聖騎士たちとは違う。
論理と圧倒的な火力で世界を蹂躙する、機械の軍隊。
わたしは、自分の掌を見つめた。
セシールを抱きしめた時の冷たさが、まだ微かに残っているような気がした。
奇跡の時代は、終わりを告げようとしているのかもしれない。
神の権威の代わりに、分厚い装甲板と排気ガスの匂いを漂わせた鋼鉄の時代が、すぐそこまで迫ってきている。
「……休む暇もないね、まったく」
わたしは小さくため息をつき、再び車体の上に寝転がった。
どんな敵が来ようと、やることは変わらない。
この泥臭い村を守る。それだけだ。
明日は早起きして、チハたんの主砲のメンテナンスを手伝わなければならない。
戦いの予感を星空に溶かしながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。




