52、白いお部屋に グッバイ・・・バイ・・・バイ ――わたしの心はクルクル回る
歴史の授業で習ったマリー・アントワネットという女性は、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったとか言わなかったとかで有名なフランスの王妃だ。
まぁ、彼女の発言が、真実かどうかは別にしても、あの言葉には絶対的な権力者特有の「致命的なまでの想像力の欠如」が凝縮されている。飢えている人間にケーキを勧める無邪気さは、悪意よりもはるかに質が悪い。
そして今、わたしは異世界において、そのマリー・アントワネットすら裸足で逃げ出しそうな、狂気のティーパーティーに招待されていた。
事の発端は、数時間前に村の入り口へ届けられた一通の手紙だ。
純白の封筒に、金の蝋で封がされている。届けてきたのは伝書鳩ではなく、光のエネルギーだけで構成された鳥の形をした何かだった。その光の鳥は、手紙を落とすなり空中に溶けて消滅した。演出が過剰である。
中身は至ってシンプルだった。「膠着状態を憂慮しております。和解の道を模索するため、わたくしの幕舎にてお茶をいかがでしょうか」という、聖女セシールからの招待状だ。
罠だと考えるのが普通だと思う。
カヘージ村長もタマモばあちゃんも、全力で引き止めた。タゴサックさんに至っては、自らが先陣を切って突撃するとまで言い出す始末だった。
だが、わたしは行くことにした。
理由は三つある。
一つ目は、このまま村を包囲され続けて、毎日「奇跡の実演販売」を見せつけられていたら、いずれ村人たちの心が完全に折れるとわかっていたから。
二つ目は、彼女が本気で武力行使に出るなら、お茶会なんて面倒な真似をする必要がないから。
三つ目は、単なる好奇心だ。あの感情を徹底的に排除したような美少女が、一体どんなお茶を淹れるのか、少しだけ気になった。
もちろん、丸腰で行くほどお人好しではない。
わたしはチハたんを従えて、村と彼女のテントの中間地点へ向かった。チハたんは警戒を最大レベルに引き上げ、いつでも主砲を撃てる態勢を維持している。
ただ、チハたんはテントの手前で停止を余儀なくされた。目に見えない強固な防壁が展開されており、戦車の質量では通過できなかったのだ。
仕方なく、わたしは一人でテントの入り口をくぐった。
一歩足を踏み入れた瞬間、自分の感覚器が異常をきたしたのかと疑った。
そこは、野営のテントという概念から最も遠い空間だったからだ。
まず、匂いがない。
草の匂いも、土の匂いも、布の匂いすら存在しない。徹底的に無菌化された手術室のような、あるいは真空の宇宙空間のような、圧倒的な「無」の匂いがする。
そして、異常なほどの白さ。
床に敷き詰められた絨毯も、壁を覆う天蓋も、中央に置かれたテーブルも、すべてが影を持たない純白で統一されている。自然界には存在しない、人工的な白だ。
わたしが足を踏み入れると、靴底についていた泥が、床に触れた瞬間に光の粒子となって消滅した。汚れという概念そのものが、この空間では存在を許されないらしい。
「よくおいでくださいました、千波様」
テーブルの奥で、セシールが優雅に立ち上がった。
彼女の衣装もまた、周囲の景色に溶け込むような純白だ。プラチナブロンドの髪は、重力という物理法則を無視しているかのように、一本の乱れもなく肩に流れている。
彼女が椅子を勧める仕草は、定規と分度器で測ったかのように完璧な角度を保っていた。
「……お邪魔します」
わたしは、無駄に豪華な椅子に腰を下ろした。
座面は柔らかいはずなのに、なぜか反発力を感じない。体が完全に固定されるような、奇妙な座り心地だった。姿勢を崩すことを許さない椅子だ。
テーブルの上には、二つのティーカップが置かれていた。
模様のない、純白の陶器。
その中には、琥珀色の液体が注がれている。
セシールが、無言でカップをわたしの方へ滑らせた。摩擦を一切感じさせない、滑らかな動きだ。
「さあ、どうぞ。長旅でお疲れでしょう。乾きを癒やしてくださいませ」
わたしはカップを見つめた。
湯気が立っている。温かい飲み物であることは間違いない。
だが、紅茶特有の香りが一切しない。ベルガモットの香りも、茶葉の発酵した匂いも、ただの熱気すら感じない。
警戒しながら、カップを手に取る。
液面は、微かな揺れすら見せない。まるでゼリーのように固まっているかのようだ。だが、傾けると確かに液体として流れてくる。
わたしは、意を決してそれを口に含んだ。
そして、全身の毛穴が収縮するような感覚を覚えた。
味がない。
まったく、何も、存在しないのだ。
それは水ではない。水には硬度があり、微かなミネラルの風味がある。
だが、口の中に入ってきたこの液体は、温度だけが存在し、味覚への刺激がゼロだった。苦味も、渋味も、甘味も、酸味もない。ただ「適切な温度の水分が喉を通過した」という物理的な事実だけが、脳に処理される。
飲み込んだ直後、不思議と体の疲労が抜け、視界がクリアになる感覚があった。おそらく、人間が活動するために必要な栄養素や水分が、最も効率的な形で配合されているのだろう。
完璧な補給物質。
だが、これはお茶ではない。
「……これは、何?」
わたしが問いかけると、セシールは首をわずかに傾けた。
「生命維持に最適な水分と、微量元素を配合した溶液です。一般的な紅茶に見られるような、カフェインという神経毒や、タンニンという不要な刺激物はすべて排除してあります。最も純粋で、最も正しい飲み物です」
彼女は、自分が素晴らしいものを提供したと信じて疑わない顔をしていた。
「……これが、あなたたちの言うお茶会なの?」
「はい。対話を行う上で、肉体の不調や栄養の偏りは思考の妨げになります。常に最適な状態を保つことこそが、神の御心に近づく第一歩ですから」
わたしはカップをテーブルに置いた。
硬い陶器と大理石のテーブルがぶつかったはずなのに、音がまったく響かなかった。この空間は、不要な環境音すらも吸収して消去しているらしい。
狂っている。
これがわたしの率直な感想だった。
彼女は「完璧」を追求するあまり、人間が生きる上で欠かせない「雑味」をすべて削ぎ落としてしまっている。
「セシール」
わたしは彼女の蒼い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなた、毎日これを飲んでるの?」
「もちろんです。わたくしの肉体は常に神の器として最適化されなければなりません。不要な老廃物を生み出す『食事』という行為は、極めて非効率的かつ不純です」
「……美味しい?」
わたしがそう尋ねた瞬間、セシールの顔に初めて「理解不能」という微かな疑問の影が浮かんだ。
彼女の目が、瞬きもせずにわたしを観察する。
「美味しい、とは、味覚細胞が特定の化学物質に反応し、脳の報酬系が刺激される現象を指す言葉ですね」
彼女の回答は、辞書を読み上げているようだった。
「その現象は、原始的な生物が毒を避け、カロリーを摂取するために獲得した古い機能に過ぎません。すでに最適解が提供されている状態において、報酬系を過剰に刺激する必要はありません。それは依存や執着を生み出す、エラーの元です」
「だから、美味しいのかって聞いてるの」
「味覚という概念は、わたくしの機能において優先度が低く設定されています。ゆえに、美味しいという感覚は存在しません。必要ありませんから」
背筋が凍る感覚があった。
彼女は強がっているわけではない。本当に、本心からそう言っているのだ。
「じゃあ、楽しいって思うことはある?」
わたしは畳み掛けるように質問した。
「綺麗な景色を見た時とか、誰かと話して笑った時とか。心が弾むような、楽しいって感覚」
セシールの瞳の奥で、再び無数のデータが流れるような光の瞬きが見えた。
彼女は、わたしの質問の意図を検索し、論理的な回答を構築している。
「楽しさ、という感情。それは脳内物質の異常分泌による一時的な錯乱状態です」
彼女の結論は、あまりにも冷酷だった。
「喜びや楽しさは、やがて失われることへの恐怖を生み出します。愛着は執着へ変わり、執着は憎悪へと変質します。感情というものは、常に波のように揺れ動き、システムに致命的な負荷をかけるのです。そのような不安定な状態を『楽しい』と表現するのは、自己破壊を肯定する異常行動と言わざるを得ません」
わたしは絶句した。
彼女の中では、感情そのものが「バグ」なのだ。
だから彼女は、一切の表情を変えない。悲しまない代わりに、喜びもしない。怒らない代わりに、愛しもしない。
ただ平坦な、ノイズのない直線を生きている。
「千波様。貴女の村を見なさい」
セシールが、窓の外を指し示すような仕草をした。テントの壁が透過し、村の様子が映し出される。
泥だらけの畑で作業をする難民たち。怪我の痛みに顔をしかめる獣人。食料の配分で口論をしている若者たち。
「あの泥にまみれた生活の、どこに価値があるのですか? 病に苦しみ、飢えに怯え、互いの感情をぶつけ合って傷つけ合う。それは、未完成で欠陥だらけのシステムが引き起こす悲劇です」
彼女は、憐れむような目をわたしに向けた。
「わたくしの手を取れば、その悲劇はすべて終わります。病は治癒し、飢えは消え、争いのない静寂が訪れます。誰もが最適化され、完全な安らぎを得られるのです。なぜ、それを拒むのですか?」
彼女の言葉は、恐ろしいほどに理路整然としていた。
苦しみを無くす。悲しみを無くす。
それは、誰もが一度は夢見る理想郷だ。
だが、その代償が「喜び」や「楽しさ」まで一緒に削ぎ落とすことだとしたら?
そんなものは、生きているとは言わない。ただ死んでいないだけだ。
わたしは、テーブルの上に置かれた自分のティーカップを見た。
味のしない、完璧な液体。
もしこの液体だけで一生を生きていかなければならないとしたら、わたしは間違いなく発狂するだろう。
焦げて苦い部分があったり、シロップをかけすぎて甘ったるくなったりする、あの不格好なパンケーキの方が、何万倍も価値がある。
わたしは、カップの縁を指で弾いた。
無音の空間に、小さな振動が伝わる。
「……セシール。あなたの言ってることは、理屈としては正しいのかもしれないね」
わたしは、彼女の目を正面から見つめ返した。
「でも、あなたの世界には、決定的なものが欠けてる」
「欠けているものなどありません。女神のシステムは完全です」
「いいや、欠けてるよ」
わたしは、カップを持ち上げた。
そして、琥珀色の液体を、少しだけ傾けた。
「あなたには、無駄がない」
ぽたり、と。
一滴の液体が、純白のテーブルクロスの上に落ちた。
完璧な対称性を保っていたテーブルに、不規則な染みが広がる。
テントの防汚機能が働き、染みは数秒で蒸発して消え去った。だが、その数秒間、間違いなく「汚れ」が存在した。
セシールの眉が、微かにピクリと動いた。
彼女の完璧な顔に、初めて「不快」に近い反応が表れた瞬間だった。
「……何をされるのですか。非合理的な行動です」
「ほらね。今、嫌な気分になったでしょ」
わたしはカップを置いた。今度はわざと、音が出るように強く。
ゴン、という鈍い音が、無音の空間に亀裂を入れた。
「生きるってさ、無駄なことの連続なんだよ。泥で服を汚したり、料理を焦がしたり、どうでもいいことで喧嘩したり。そういう『バグ』みたいなものが集まって、わたしたちの形を作ってるの」
わたしは立ち上がった。
座り心地の悪い椅子を、蹴り飛ばすようにして後ろへ下げる。
「悲しみがあるから、誰かの優しさが嬉しくなる。飢えを知ってるから、みんなで食べるご飯が最高に美味しくなる。あなたの言う通り、感情はシステムに負荷をかけるかもしれない。でもね……」
わたしは、自分自身の胸に手を当てた。
魔素でできた身体の奥で、確かにドクドクと脈打つものがある。
それは心臓ではなく、わたしの「意志」そのものだ。
「その負荷に耐えて、もがいて、泥だらけになって生きるのが、人間なんだよ。バグのないプログラムなんて、ただの機械だ。わたしは、そんな退屈な世界はお断りする」
セシールは、座ったままわたしを見上げていた。
彼女の瞳の奥で、光の輪が猛烈な勢いで回転している。
論理が破綻し、未知のエラーを処理しようとして、彼女の内部システムが過負荷を起こしているのがわかった。
「……貴女は、ウイルスのようですね」
セシールの声が、少しだけ低くなった。
無機質だった声音に、微量だが確かな「敵意」が混ざる。
「世界の調和を乱し、不純物を撒き散らす。その存在そのものが、排除すべき深刻なエラーです」
「ウイルスで結構。あんたのその息苦しい世界を、わたしの雑音でめちゃくちゃにしてやるから」
わたしは、踵を返した。
入り口に向かって歩き出す。汚れを消去する床の機能が追いつかず、わたしの靴の裏からわずかな土埃が落ちて残った。
「交渉は決裂ね。お茶、ごちそうさま。最高に不味かったよ」
背中を向けたまま言い捨てて、わたしはテントの外へ出た。
外の空気は、土と汗と、焚き火の煙の匂いがした。
むせ返るほど雑多で、不衛生で、混沌とした匂い。
わたしは、肺の奥底までその空気を吸い込んだ。
これだ。これが、生きている匂いだ。
『千波。バイタルサインの急激な変動を検知。精神的な疲労値が限界に近いです』
入り口で待機していたチハたんが、心配そうな駆動音を鳴らす。
「……うん、ごめん。ちょっと無理したかも」
わたしはチハたんの冷たい装甲に寄りかかり、大きく息を吐いた。
虚勢を張ってはみたものの、あの圧倒的な「正しさ」と対峙するのは、凄まじい精神力を持っていかれた。
『交渉は決裂したと推測します』
「完全決裂。あの子、やっぱり人間じゃないよ。話が通じる相手じゃない」
『了解しました。今後の敵対行動に備え、防衛ラインを再構築します』
「……チハたん」
『はい』
「村に帰ったら、パンケーキ焼いて。今度は、これでもかってくらい甘くて、カロリーが高くて、胸焼けするようなやつ」
『……栄養学的な観点からは推奨できませんが、あなたの精神的ケアを優先します。材料の合成準備を開始します』
わたしは、チハたんの頼もしい車体を軽く叩き、村の方へと歩き出した。
宣戦布告は済ませた。
相手は、傷つくことも疲れることもない、完璧なシステムだ。
対するこちらは、泥だらけで傷だらけの、不完全な寄せ集め。
それでも、負ける気はしなかった。
完璧な白は、一滴の泥で簡単に汚れる。
なら、わたしたちがやるべきことは一つだ。
あの息苦しいほど綺麗な聖女様を、最高に泥臭い「生きるノイズ」でバグらせてやる。
戦いの第二幕は、物理的な破壊ではなく、存在意義の押し付け合いになりそうだ。
望むところだ。
女子高生の意地とノリを、なめるなよ。




