51、心安らぐ ゆとりの生活 祈り一発 かなえます〜
戦争というのは、もっとこう、鉄と油の匂いがして、怒号と悲鳴が飛び交い、アドレナリンが脳内を駆け巡るものだと思っていた。
少なくとも、映画や漫画で得た知識ではそうだったし、先日の教会軍とのドンパチも、まあそんな感じだった。泥臭くて、必死で、見たくないものがたくさん見える。それが戦争のリアルというやつだ。
けれど、聖女セシールが仕掛けてきた「戦争」は、わたしの知っているそれとは根本的に違っていた。
それは、暴力的なまでに清潔で、吐き気がするほど静かだったのだ。
村を包囲してから三日。
セシールの軍勢は、矢一本射掛けてこなかった。
彼らはただ、村の周囲を完璧な隊列で取り囲み、直立不動で立っているだけだ。その姿は人間というより、精巧に作られた彫像の展示会を見ているようで、夜中にトイレに行くときに目が合うと寿命が縮む。
そして、セシール本人はというと、村の入り口から見える場所に立てた豪奢な天蓋付きテントの中で、優雅に紅茶を飲んでいた。
時折、彼女は立ち上がり、白い手をかざす。
すると、世界がバグるのだ。
文字通り、バグる。
たとえば、昨日まで泥濘んでいた村の前の道が、彼女が指先を振った瞬間に、大理石のような平らで真っ白な舗装路に変わった。
あるいは、季節外れの枯れ木が、一瞬にして満開の花を咲かせた。
極めつけは、怪我をした野鳥が彼女のテントの近くに落ちた時だ。彼女が触れただけで、折れていた翼が動画の逆再生みたいに元通りになり、鳥は何事もなかったかのように飛び去った。
奇跡。
誰もがそう呼ぶ現象を、彼女は呼吸をするように撒き散らしていた。
「……嫌がらせにしては、手が込んでるよね」
わたしは、村の急造見張り台の上で頬杖をつきながらぼやいた。
隣では、チハたんが電子的なため息のような駆動音をさせている。
『あれは嫌がらせではありません。デモンストレーションです』
「わかってるよ。ウチの製品はこんなに高性能ですよっていう、通販番組的な実演販売でしょ」
『購買意欲ではなく、帰属意識を刺激しています。「こちらのほうが快適で安全ですよ」と、無言で圧力をかけているのです』
まさにその通りだ。
泥だらけで、食料もギリギリで、明日の命も知れないわたしたちの村。
対して、彼女のいる場所は、光に満ちていて、美しく、痛みがない。
その対比は、ボディブローのように村人たちの精神を削っていた。
「……みんな、見てるね」
わたしは眼下を見下ろした。
農作業の手を止めて、ぼんやりと外を眺める獣人たち。
その瞳に浮かんでいるのは、敵意ではない。
憧れだ。
苦しみのない世界への、切実な渇望だ。
特に、あの子。
村の広場の隅で、じっと外を見つめている羊の獣人の少年。
名前はウールといったか。
彼は、とても真面目な子だった。
掲示板が設置された時も、誰よりも熱心に文字を覚えようとしていたし、人族の難民たちが来た時も、率先して水運びを手伝っていた。
羊のようにおとなしく、けれど芯の強そうな少年。
そんな彼が今、柵の隙間から、セシールのいる白い世界を、縋るような目で見つめている。
「……ウールくんのお母さん、具合悪いんだっけ」
『はい。慢性の肺疾患です。千波の持ってきた抗生物質も効果が薄く、チハの医療データベースにある薬草調合でも、現状維持が精一杯です』
チハたんの淡々とした報告が、胸に刺さる。
わたしは万能じゃない。チハたんも神様じゃない。
治せない病気はあるし、救えない痛みはある。
それが現実だ。
でも、あの白いテントの中にいる少女は、その現実を「なかったこと」にできる力を見せつけている。
もしわたしがウールの立場だったら。
毎日咳き込んで苦しむ母親を見ていて、目の前に「触れるだけで治せる人」が現れたら。
……迷わないはずがない。
「……性格悪いなぁ、聖女様」
わたしは呟いた。
暴力で脅すよりも、希望をチラつかせて心を折る。
それは、一番残酷な戦い方だ。
その日の午後、わたしは畑に向かった。
農民(仮)ことザキが、相変わらず黙々と土を耕しているのを見るためだ。
彼は、この異常な状況下でも、まったくペースを崩していなかった。
規則正しい鍬の音。無駄のない所作。
彼を見ていると、少しだけ心が落ち着く。少なくとも、彼は「地に足がついている」からだ。
「……精根尽き果てるまで働くつもり?」
わたしが声をかけると、ザキは手を止めずに答えた。
「土は嘘をつかない。手をかければ応える。人間よりもよほど誠実だ」
「人間不信が極まってるね。で、外のあれ、どう思う?」
わたしは顎で村の外をしゃくった。
そこでは相変わらず、セシールが枯れた大地を緑に変えるパフォーマンスを行っている最中だった。
ザキは手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
泥で汚れた頬を拭うこともせず、金色の瞳で遠くを見つめる。
「……お前には、あれが奇跡に見えるか?」
「魔法か、超能力か……とにかく、すごい力だとは思うよ」
「違う」
ザキは短く否定した。
そして、鍬を地面に突き刺し、わたしの方を向いた。
「あれは奇跡ではない。『修正』だ」
「修正?」
「文章の誤字を直すように、計算式の誤りを正すように、彼女は世界を書き換えている。そこには慈悲も、意志すらもない」
ザキの声は冷えていた。
かつて彼が所属していた組織が崇める対象のはずなのに、そこには嫌悪感すら漂っている。
「彼女は……セシールは、人間ではない」
「え?」
「教会の地下深くに眠る『女神システム』。俺たち異端審問官ですら立ち入りを禁じられた最深部で、彼女は作られた。……いや、選ばれたと言うべきか」
ザキは自分の胸元を強く握りしめた。
「彼女には味覚がない。痛覚もない。感情というノイズが徹底的に排除されている。ただ『正解』を出力するためだけの、生体端末。それが聖女の正体だ」
チハたんが言っていた「生体兵器」という言葉と重なる。
「正解を出力する……?」
「そうだ。彼女にとって、病気はエラーだ。飢餓はバグだ。だから修正する。そこに『可哀想だから』という感情はない。ただ、計算式が合わないから直す。それだけだ」
わたしは背筋が寒くなった。
それは、悪意よりも恐ろしい。
悪意には理由がある。理由があれば対処もできる。
けれど、ただ「間違っているから直す」という純粋な論理で動く存在に、説得は通じない。
「……息苦しいね」
わたしは言った。
「雑草一本ない庭なんて、見てて疲れるよ」
「ああ。だが……」
ザキは視線を落とした。
そこには、小さな虫が土の上を這っていた。彼はそれを踏み潰すことなく、避けて通った。
「弱っている者にとって、その完璧さは毒だ。甘くて、致死性の高い毒だ」
その言葉は、予言のように重く響いた。
夜が来た。
村は静まり返っているが、空気は張り詰めている。
外の世界が白く発光しているせいで、村の中にも薄気味悪い影が落ちていた。
セシールのテントからは、夜になっても光が漏れている。彼女は眠らないのだろうか。それとも、光り輝くことが彼女の睡眠なのか。
わたしは眠れなくて、村の境界線あたりを散歩していた。
チハたんはスリープモードに入っているふりをしながら、広域センサーで常時警戒してくれている。
頼もしい相棒だ。パンケーキを焼かせると文句を言うけれど。
ふと、人影が見えた。
柵の切れ目。村と、外の世界を隔てる境界線。
そこに、小さな影が立っていた。
羊のような、くるくるとした白い毛並み。
ウールくんだ。
彼は、柵に手をかけて、じっと外を見ていた。
その視線の先には、セシールのテントがある。
夜風が冷たいのに、彼は薄着のまま、身じろぎもせずに立ち尽くしている。
「……ウールくん?」
わたしは声をかけようとした。
けれど、声が出なかった。
彼の背中が、あまりにも必死だったからだ。
拒絶されるのが怖くて、足が止まった。
その時。
外の白い世界から、声が届いた。
「……迷える子羊ですね」
スピーカーを通したような、クリアで、温度のない声。
セシールだ。
いつの間にか、彼女はテントの前に立っていた。距離は五十メートル以上離れているはずなのに、まるで耳元で囁かれたように鮮明に聞こえる。
ウールくんの肩がびくりと跳ねた。
「貴方の悲しみ、聞こえていますよ」
セシールが、手招きをした。
優雅で、完璧な動作。
「お母様が苦しんでいるのですね。肺の病……毎晩、咳込む音に胸を痛めている。代われるものなら代わりたいと、そう願っている」
「……っ……」
ウールくんが、柵を握りしめる手に力を込める。
どうして知っているの、なんて野暮な疑問は湧かない。彼女は「システム」なのだから。村の状況なんて、スキャン一つで丸裸なのだろう。
「わたくしの元へいらっしゃい」
セシールの言葉は、甘い蜜のように夜気に溶けた。
「わたくしなら、治せます。一瞬で、苦しみを取り除いて差し上げられます。エラーを修正するように、簡単なことです」
ウールくんが、一歩、足を踏み出した。
柵の向こう側へ。
わたしたちの「千波領」から、彼女の「完璧な世界」へ。
「代償はいりません。ただ、正しい場所へ戻るだけ。泥にまみれ、明日をも知れぬ不安の中で生きる必要はありません。わたくしの光の中で、安らかに暮らしなさい」
正しい場所。
安らかな暮らし。
それは、今のわたしたちが一番持っていないものだ。
ウールくんの足が、もう一歩進む。
彼の目には、もう村の風景は映っていないようだった。ただ、母親を助けたいという一心と、圧倒的な「正解」への引力に引き寄せられている。
止めなきゃ……頭ではわかっている。
でも、なんて言って止める?
「行くな」と言えば、彼のお母さんは苦しみ続けるかもしれない。わたしには治せない。チハたんの薬でも完治しない。
わたしの無力が、彼を引き留める言葉を奪っていた。
それでも。
「……待って」
わたしは、走り出した。
魔素の身体を風に乗せて、ウールくんの背中に手を伸ばす。
彼が完全に柵を越える寸前、わたしはその細い腕を掴んだ。
「ウールくん!」
彼は、弾かれたように振り返った。
その目は、泣いていた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、わたしを見ていた。
「……千波様……放して……」
細い声。でも、拒絶の意志は強かった。
「行かなきゃ……母ちゃんが……母ちゃんが死んじゃう……!」
「わかってる。わかってるよ」
わたしは必死で言葉を探した。
「でも、あそこに行ったら……もう戻れないよ。ウールくんだけじゃない。お母さんも、あっち側のルールで生きなきゃいけなくなる」
「それでもいい! 母ちゃんが楽になるなら……!」
「楽になるのと、幸せになるのは違うよ!」
わたしは叫んでいた。
自分でも驚くくらい、大きな声だった。
「痛みがないのが幸せ? 失敗しないのが幸せ? 違うよ。あそこには、きっと『ウールくんの母ちゃん』はいない。ただの『健康な個体』がいるだけになっちゃう」
ザキの言葉が頭をよぎる。
味覚がない。痛覚がない。感情がない。
セシールが施す「修正」は、人間としてのノイズも一緒に消してしまうんじゃないか。そんな予感がした。
苦しみも、悲しみも、全部ひっくるめて「その人」なのに。
それをエラーとして削除されたら、あとに残るのは何だ?
「……千波様には、わかんないよ!」
ウールくんが叫んだ。
わたしを振り払おうとして、小さな拳でわたしの腕を叩く。魔素の身体だから痛くはない。でも、心が痛かった。
「千波様は強いから! すごいから! でも僕らは弱いんだ! 弱いから、縋るしかないんだよ!」
「弱くてもいいじゃん!」
わたしは、彼を抱きしめた。
泥だらけの、羊毛の匂いがする小さな身体を、力いっぱい抱きしめた。
「弱くて、間違ってて、泥だらけで……それでも、みんなでご飯食べて『美味しいね』って言うのが、わたしたちじゃん! あそこの光の中で、パンケーキの味はしないよ! 絶対に!」
論理的じゃない。
めちゃくちゃな理屈だ。
でも、わたしは本気だった。
完璧な世界で飲む紅茶より、泥だらけの村で食べる焦げたパンケーキの方が、絶対に尊い。そう信じている。
ウールくんの抵抗が弱まった。
わたしの胸の中で、彼は声を上げて泣き出した。
「うあぁぁぁん……母ちゃん……母ちゃん……」
わたしは、彼の頭を撫で続けた。
柵の向こう、光の中に立つセシールと目が合った。
彼女は、無表情のまま、首をかしげた。
「……理解不能ですね」
彼女の声が届く。
「苦しみを取り除く機会を、なぜ拒むのですか? なぜ、泥の中に留まろうとするのですか? それは愛ではありません。執着という名の呪いです」
「呪いで上等だよ!」
わたしは言い返した。
ウールくんを背に庇って、聖女を睨みつける。
「わたしたちは、この泥の中で生きていくの。あんたの用意した清潔な無菌室なんて、息が詰まって死んじゃうんだよ!」
セシールは、しばらくわたしを見ていたが、やがて興味を失ったように視線を外した。
「……愚かです。ですが、その愚かさもまた、修正すべきエラーの一つ。時間はあります。じっくりと、悟らせて差し上げましょう」
彼女はテントへと戻っていった。
光のカーテンが下りる。
残されたのは、夜の闇と、泥の匂いと、泣きじゃくる少年の体温だけだった。
わたしは、ウールくんを抱きかかえて村の中へと戻った。
彼は泣き疲れて、わたしの腕の中で眠ってしまった。
その寝顔には、涙の跡が残っている。
助けたつもりだった。
でも、本当にこれで良かったのか……自信はない。
『千波』
チハたんの声が、静かに響く。
『バイタルサインに乱れあり。自己嫌悪のパターンを検出』
「……うるさいな。わかってるよ」
わたしは、眠るウールくんの髪を撫でた。
「わたしは、エゴを通しただけかもしれない」
『エゴとは、自我の確立に不可欠な要素です』
「……慰めになってないよ」
『慰めではありません。事実の提示です』
チハたんは、いつも通り合理的だった。でも、その合理性が今は少しだけ救いだった。
村の空気は、前よりも重くなっている気がした。
今日の出来事は、きっと誰かが見ていた。
「精霊様が、救いを拒絶した」という事実は、歪んだ形で伝わるかもしれない。
それでも。
わたしは、この息苦しい正しさよりも、面倒くさくて泥臭い「生」を選んだ。
それが、千波領の領主としての――いや、ただの千波としての選択だった。
夜空を見上げると、星が滲んで見えた。
明日は、もっと厳しい一日になりそうだ。
セシールの「教導」は、まだ始まったばかりなのだから。




