第六話 猫の目線
雨上がりの爽やかな風が鎖斬を包むように吹き抜けた。雨露に濡れた植物が風に揺られて、暑くなるのを防ごうと打ち水をするかのように雫を散らしている。
道行く人はまるでお互いが見えていないかのように無関心だ。しかし、見えていないなんてことはなく、時折すれ違う時にぶつからないように相手を避けている。通行人の中には鎖斬を見つけて、「可愛い~♡」などと語尾の音を上げて近づいて来る者もいる。特に若い女の子や小さな子供が多く、鎖斬に手を伸ばして撫でようとする。
鎖斬りは、
「ミャア!」
と一鳴きすると、伸びてきた手をかわして距離を取った。
少女たちは残念そうに肩を落として「またね~」と去っていく。
また会う保証もないというのに“また”とはどういうことなのかと、去り行く少女たちに心の中で疑問をぶつけた。そんな鎖斬の目の前を幾つもの足がこちらを向くことなく通りすぎていく。
(無関心と好奇心の差が強すぎないか?)
人間界へ初めてやって来た鎖斬は、まるで感情が無いかのような無機質さと感受性に満ちた快活さが入り乱れている様子に感嘆する。
無機質っぽい霊界の役人と感性豊かな死者に慣れている鎖斬だが、生きている人間達に霊界の役人(自分たち)と同じものを感じて何となく寂しさのようなものが込み上げてきた。
鎖斬は慣れない短い手足で流れる人混みをかわしながら、小さな躰を安全な植樹帯に移動させた。
(不便だな。何で猫なんだ…)
鎖斬は自分には不釣り合いな肉球の手をまじまじと眺めた。
それは、人間界でいうと数時間ほど前のことである――。
局長に呼ばれた鎖斬がデスクの前まで行くと、局長は唐突に死神課の話を始めた。
それから、保留だった海里からの頼まれ事について行う対応が、死神課が抱える問題の解決と深く関連していることを鎖斬に告げた。
「えっ、出張…ですか?」
「そうだ。特別現世出降員として、お前が人間界に行くんだ。これを持ってな。」
鎖斬の質問に応えた局長・縁導は、引き出しから白い紙と封筒、そして筆…ではなくペンを取り出した。
「これは…」
鎖斬はその一式を覗き込むようにして見た。
見えるはずもないだろうに、少し離れた所から粗棄が覗き込んでいる様子を鎖斬は背中で感じ取る。他の局員の中にも、粗棄と同じく気になっている者もいるようだ。手を止めて局長と鎖斬の方顔を向けている。全く気にしていない者が手を動かし続けている微かな音だけがいつもより大きく聞こえた。
別室として局長室はあるのだが、縁導局長は普段、仕分け員や配達員たちが詰めている局員室に在中していることがほとんどだ。
「偲現紙、偲現筆だ。死者が書いた霊界の文字を現世の紙に写すことができる。これに、生者宛の手紙を書いてもらえ。」
「書き上がった手紙を俺が現世に?」
「ああ。」
「わかりました。」
鎖斬は頷く。
局長から偲現紙と偲現筆を受け取った鎖斬は、早速海里の元へ向かった。
…――というやり取りの結果、鎖斬は人間界にやって来た。
何故か猫となって。
鎖斬は海里が事故にあったという場所に降り立つと、そこから少し歩いた大通りへと出たのだ。
しかし、元々言霊幽便局の配達員が人間界に降り立つことはない。死者に届けられる生者の想いが宿った言霊は、霊界に存在する言霊自動収拾機「コトノハくん」が自動で収拾し、自動で記してくれる。言霊幽便局員はそれを仕分けして霊界の住人に配達する。それ故に、魂を回収する死神や、悪魔や妖怪などの人害を狩る獄卒のように、配達員が人間界へ出降する必要がない。そのため人間界で実体を人間に見せる能力は、配達員には与えられていないのだ。
(人の姿に戻るか?でもそれだと見えなくなるしな…。 “アレ”には使用制限がある。無駄遣いもできないか…)
常時人に姿を見せるには猫のままでいるしかない。
人の姿を取るのは最後の手段として取って置くのが堅実だ。鎖斬は人の姿に戻るのを諦めると、海里に教えてもらった月ヶ瀬家へ足を進めることにした。
一匹の野良猫など見えていないかのように、人々は足早に歩いている。
人の波を縫うように駆けるその小さな姿を、電信柱の天辺で一羽のカラスが見つめていた――。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
目的の家を目前に猫鎖斬は、巨大にも見える高層の集合住宅を見上げた。
(月ヶ瀬家がマンションなんて聞いてないんだが…)
猫鎖斬は人型になるかをわずかに思案した。
だが、ここで最終手段を使うわけにはいかない。それに、猫の身体能力なら外壁の出っぱり部分をつたって上ることができるだろう。何より滉の家が一階という可能性も捨てきれない。
猫鎖斬はマンションのエントランスに向かい、集合ポストの中に月ヶ瀬の名前を探す。一番下の段から順番に目を通す。そして五段目に差し掛かると、猫鎖斬の視線が止まった。「月ヶ瀬」と書かれたプレートの上に『503』という数字が印されていた。
(微妙な高さだな…)
猫鎖斬はやれやれと肩をすくめると、外から503号室があるであろう位置を確かめた。
イメージの中で、そこまで上る順序を辿る。
そして、いざ一階の屋根付近にある出っぱりに上ろうと、近くの木によじ上った。
「おい、降りれなくなるぞ。」
突然そう声がしたかと思うと、首根っこを捕まれて地面に下ろされる。
感覚までも猫化しているのだろう。人間ならば痛みが生じたかもしれないが、猫の姿は首を捕まれても痛みはまるでなかった。しかし、体の動きは封じられてしまうようだ。体が固まって自由に動かせない。地面に下ろされて、ようやく声の主を振り返った。学生服の胸ポケットにつけられた名札には「月ヶ瀬」と刻まれている。
「いくら身軽だからって、あんま無茶すんなよ。」
まれで猫鎖斬が長年の友人であるかのように、滉が優しく言った。
突然の遭遇に猫鎖斬は内心で動揺する。滉はそのままマンションの方へ入って行き、猫鎖斬はその後についてエントランスへ行く。
「お前はダメだ。」
後ろから猫鎖斬が追って来ていることに気づいた滉は、再び猫鎖斬の首根っこを掴んだ。
そのまま近くの植え込みで猫鎖斬を降ろすと、猫鎖斬にまたついてこられないようにするためか足早にマンションへ入って行った。
偶然によるものであることは否めないが、とりあえず滉と逢うことはできた。滉の気配を忘れぬようにと、猫鎖斬は心に留める。エントランス近くでは現世の野良猫がマンションの住人とおぼしき人間に追い払われていた。滉の様子を詳しく観察することは、すんなりとあきらめた方が良さそうだ。
続いて猫鎖斬は柚樹の家へ向かったが、人がいる気配はなく留守のようだった。仕方なく猫鎖斬は今度は桜の家へ向かう。庭へと周って敷地内に侵入する。濡れ縁タイプの縁側にスルリと飛び乗り、外から家の中を確認する。どうやら窓越しすぐの部屋はリビングのようだ。その奥に見えるキッチンにいるのは年齢的に桜の母親なのだろう。リビングとキッチンの間に設置された固定電話で誰かと話しているようだ。
『そう、あの子は今日も病院に行ったわ。ええ、あんなことがあって以来、みんな思い悩んでいたんじゃないかしら。』
そんな会話を聞いて、猫鎖斬は部屋の中を注意深く見回した。
カレンダーに井住病院と書かれていた。今日の日付ではないが母親が「今日も」と言っていたことから同じ病院の可能性は高い。猫鎖斬は踵を返して庭から去ると、今度は病院へ向かった。
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