第三話 転校生
トラックのヘッドライトが、横断歩道の少年を照らした。
車道の信号機は赤を点している。トラックは雨粒を弾きながら、スピードを落とさぬまま直進し続けた。
「あきら!」
親友の声が聞こえた瞬間、背中に強い衝撃を感じて体が前に飛ばされる。
迫ってくる地面はゆっくり大きくなっていくように見えた。しかし現実には瞬きの間の一瞬で、咄嗟に手を出す間もなかった。水浸しのアスファルトに体を打ち付けた。体中に走る痛みに呻いたのと同時にドンッという大きな音がした。
地面に縫い付けられたように体は動かなかったが、数秒待たずに幼馴染みの叫び声が耳に飛び込んできて、必死に首を持ち上げる。
その声に反射的に振り返った滉が見たのは、
開いたまま転がる傘。
呆然と立ち尽くす、もう一人の幼馴染み。
電柱にぶつかって煙をあげるトラック。
薄暗い夕暮れの中に目立つ、真っ赤な血が雨と混じり合いながら流れていた。
そして、少し離れた場所に倒れた親友。
激しい雨に打たれながら、滉は叫んだ。
「『かいりっ!!』」
血塗れの親友の姿に滉は飛び起きた。
激しい動悸に息を切らせ、喉仏を動かしてゴクリと生唾を飲み込む。額には滝のような汗が伝っていた。布団もシーツも汗でぐっしょりと濡れている。この汗は蒸し暑いからではない。夢のせいだ。もうあれから何年も経つというのに、未だ残る胸の痛み。梅雨前のこの時期には必ず見る夢だ。決して忘れられない過去。忘れたいと思っている友との別れの日。けれど、忘れないと覚悟している自分が罪を背負った瞬間。でも本当は忘れたくないと望んでいる懐かしい友との記憶。そのどれもが、今は夢でしか見ることがかなわない。
滉は両脚を両腕で抱えて三角座りになると、抱えた膝に額を押し当てる。
思い出したい友の笑顔は、血に濡れた過去に塗り替えられて上手く思い出すことができない。
「かいり…」
助けを求めるようなか細い滉の呟きが真っ暗な部屋に木霊した。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「…それで最近、死神課宛ての幽便が多かったのか。」
「ああ。三途の川の老骨に、地獄の閻魔様に獄卒たち。「死を管理するのは死神課の仕事だろう」と苦情の手紙がな。」
言霊幽便局長・縁導と死神課死長・止貼が、静寂に包まれた廊下を闊歩していた。
神との拝謁後、縁導は止貼から詳しい事情を聞いていた。本来死亡者リストには死亡が確定した人間の名前が、死の七日前に浮かび上がる。死神はそのリストの死亡日時に対象の元へ赴き、命を終えた者の“器”と“魂” を切り離し、霊冥界へ案内しなければならない。生きている間に罪を犯した者は地獄がある冥界に、それ以外の魂は霊界へと送るのが主な仕事だ。しかし最近は、リストに名前が浮かんでいないにも関わらず、死んでしまって霊冥界にやって来る者が後を立たない。
「事件に巻き込まれた者も多いが、自殺者が特に多い。おかげで死神課は人事整理を余儀なくされている。まだ、転生にそぐわない死神もいるというのに。」
と止貼がぼやいた。
霊冥界の魂は、条件を満たせば現世に転生することができる。そしてそれは、死神や言霊幽便局員も例外ではない。一般の魂たちと違うのは、彼らが業を背負っていること。それゆえに、転生条件そのものの難易度が高いのである。
「運気の乱れか?」
縁導が核心を突く。
「それしか考えられんな。こればかりは神にも我々にもどうすることもできん。身近な者の死によって乱れた運気は伝染する。それが広がり歪みを生じさせているのだ。運気の歪みはもはや天災…いや、世災とでも言うべきものだ。」
そう言って、止貼が頭を振る。
「だが、どうすることもできんといって放置してしまえば、霊冥界のバランスが崩壊を起こしかねないぞ。」
諦めじみた止貼の言葉に縁導が意見すると、
「そこで、お前たちの出番というわけだ。」
止貼は自慢気な顔を向けて言った。
縁導は指を指すなと視線で抗議し、それでも止めようとしない止貼の手をはたく。何故そうなったのかという疑問はあるが、その考えに至った理由はなんとなく推測ができる。頭を抱えて溜め息をつき、ずっと目の下にくっついていた止貼のクマが消えている。
「ま、運気はそいつの精神状態に左右されるものでもあるからな。しかし、夢入堂もあるだろ。何故言霊幽便局なんだ?」
縁導が尋ねると、
「夢入堂の主人には前に依頼した。ダメだった。」
止貼は遠い目をして言った。
縁導にしてみると何がどうしてダメだったのかが聞きたいことなのだが、止貼は見事に重要な部分を省いた。しかし、その検討はつく。余程の理由でなければ夢枕には入れない。入れたとしても、目覚めたら忘れるようなただの夢になってしまうだろう。それでは意味がない。歪みにまで至った運気の流れを正すには、直接に又は直接に近い間接的な方法で当人の沈んだ精神を良好にしなければならない。
だが――
「しかし、死者が生前に書いていた体を装って、現世の紙と入れ替えるとはなあ。そんな抜け道を思いつくのはお前だけだ。」
「セーフかアウトか、かなり怪しいところだけどな。」
止貼は感心するが、縁導は口元をゆがめた。
「いやいや、お前なら、禁忌に触れぬ方法を見出だしてくれると信じていたぞ。」
止貼はそう言うと何度も頷く。
「死者から生者に直接コンタクト取るなんてのは、それこそ世界のバランスを破壊しかねないことだからな。とりあえず、今回はお試しだ。それで様子を見るしかない。」
協力して事に当たらねばどのみち自分たちの身も危ういのだと、縁導は言い訳にも似た事実を口にする。
「では、この件はそっちに任せるぞ。」
「霊冥界全体に関わることでもあるからな。他を当たってくれとはいかねぇだろ。」
真剣な表情をして頼んだ止貼に、縁導が諦めたように返すと
「これで死神課は、冥界のトラブル解決に専念できる! 恩に着るぞ!」
晴れやかな顔で手を振りながら、止貼は駆けて行った。
肩の荷が軽くなったなら幸いだが、本来の仕事を疎かにしないか、縁導はその後ろ姿に不安を感じる。
(ま、あいつなら大丈夫だろ。)
お調子者ではあるが、やるべきことはしっかりこなす男だ。
「さてと…」
生者に送る手紙の差出人、そしてその配達を一任する配達員は既に決まっている。
「紬にはいい頃合いかもしれないしな。」
そう呟くと、縁導は言霊幽便局へ足を速めた。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン――……
授業終わりのチャイムが鳴り響くと、静かだった校舎に一瞬でざわめきがわき起こる。
黒板に向かう日直、廊下に飛び出した同級生たちの足音など、いつも通りの日常の中にはいつもとは違う光景があった。友人とお喋りを始めるクラスメイトは、転入生の席を取り囲んで質問攻めにしていた。
『鈴風 織です。よろしくお願いします。』
担任の呼びかけに入室してきた転入生は、緊張した様子もなく自己紹介を終えた。
一生に一度あるかないかの珍しい転入生に興味を抱くのは当然の話だった。
こぞって転入生の元へ駆け出して行ったクラスメイトを余所に、滉は授業に使った道具を鞄にしまう。
カチリと鞄を閉じた滉は、主がいなくなったばかりの一つ前の席に視線をやる。
『今日は商店街によって帰ろうぜ、あきら!』
もう何度、こんな風に親友を思い浮かべただろう。
滉と同じように成長した姿。それは滉の想像の中でしか見ることができない。本当なら、一緒に青春を謳歌していたはずなのに。教室で、廊下で、階段で、くだらない話で笑い合って、部活やって、放課後には寄り道したり、バイトしたり。あの日、自分が奪ってしまった。友の命を。そして未来を。
聞き慣れた声に名前を呼ばれて、滉は振り向いた。
幼馴染みの柚樹だ。後ろには、もう一人の幼馴染みが立っている。桜は遠慮がちに、視線を俯かせていた。これから交わされる自分と柚樹のやり取りの結末に不安を感じているのかもしれないと滉は思った。
「……何だよ、柚樹。」
「これ、何?」
ぶっきらぼうに返事をした滉に、柚樹は一枚のプリントを差し出してきた。
平静を装っているが、少し怒っているような雰囲気は隠せていない。滉が視線を落とすと、それは進路希望調査のプリントだった。名前の欄は「月ヶ瀬滉」で、筆跡は当然滉のもの。先週、確かに滉が自分で提出した。
(そういやコイツ確か学級委員だったな。)
担当教員に渡る前に滉の名を目にしたのだろう。
「ただの進路希望だろ。」
「ただのじゃないでしょ!!」
柚樹が何を言いたいのかはなんとなくわかってはいた。
けれど、滉は話題を避けたくて、感情を込めずに短く答える。
(何だよ、突然…)
あの日までは仲良くしていたはずなのに、どう接していいか困惑する。
数年間、お互いに深く関わることを避けてきた。柚樹と桜は同性だからか、滉とよりは付き合いを続けていたようだが、それでも気まずさはあるらしい。端から見ていても、やはり他の仲良しグループのような雰囲気は、この二人にはない。
「何で法学部なの!? それに、勇道大学って…。」
「別に関係ないだろ。」
滉は二人から顔を反らして立ち上がった。
立ち去ろうと背中を見せる滉を、柚樹はなおも引き止めた。滉がその腕を振り払うのは容易だったが、柚樹が渾身の力を込めているのをひしひしと感じた。
「関係なくないよ! だってこれは……」
「ほっといてくれよ!」
柚樹の言葉を遮った。
そして、その手を振り払って叫ぶ。
「俺が選んで、俺が決めた、俺の人生なんだよ。お前に関係ねぇだろ!」
「…っ」
柚樹と桜が息をのむ。
二人の表情に、一瞬傷つけてしまったと感じた罪悪感は「何を今更」という苛立ちに塗り潰される。突き放すかのごとき冷たい瞳を二人にむける。
「どけ。」
滉はそのまま逃げるように廊下へと足を早めた。
「……滉くん!」
立ち尽くしたままの柚樹に代わって、桜が呼び止める。
今振り返れば、瞳を潤わせた物言いたげな顔で見つめられるているのだろうことは容易に想像にできた。しかし、滉はその声を無視して教室から出て行った。
「……チッ。」
教室の戸を叩きつけるように閉めた滉は小さく舌打ちをした。
同級生たちの雑音も耳障りだ。楽しげな賑わいさえ腹立たしい。
早歩きで廊下の突き当たりを曲がると、滉は殴りつけるように壁に拳を置いた。
「くそっ!」
突然の大声に廊下の生徒が一斉に滉に注目する。
二人が何を言わんとしていたのか、滉には予想できていた。だからこそ聞きたくなかったのだ。自分の気持ちなど誰にもわかるはずがない。
(ずっと俺を避けていた癖に、今更口出してくんじゃねぇよ!鬱陶しいんだよ!)
自分も二人を避けていたことは棚に上げて、滉は荒れた心で愚痴る。
自分が選んで、自分が決めた進路だ。それが本来、自分が思い描いていたものとは違っていたとしても。誰にも口出しさせないし、誰にも邪魔させない。これが自分なりの償いなのだと、滉は心を尖らせた。
柚樹は特に海里と仲が良かった。好みや考え方が似ていて、 よく二人だけで会話を弾ませていることも多かった。だから、滉が進もうとしている進路に黙ってはいられなかったのだろう。桜も、結果的には何も言って来なかったけど、滉の言動に不満があるはずだ。きっと自分は二人に恨まれているんだろう。それが滉が二人を避けるようになった理由の一つでもある。何故なら二人は、海里のことが好きだったのだから――。