第一話 生者への手紙
「倉嶋孝蔵様。ご友人の松吉様、福子様より墓前でのお言伝です。」
「松ちゃんも福ちゃんも今年も来てくれたんだね。もう身体もツラいだろうに。本当に有り難いなぁ。鎖斬さんも、いつもありがとう。」
幽便配達員・鎖斬が話しかけると、精悍な顔立ちの青年が振り返って手紙を受け取った。
とても良く仕立てられた着物をピッと着ている彼は、朗らかに幸せそうな顔を見せた。着物は確か遺族が手向けて下さったものだ。ここへ来たばかりの彼に届けたのを鎖斬ははっきりと覚えている。彼は太平洋戦争の最中から此処にいる。当時は、彼のように年若い青年や年端もいかない幼子が此処にやって来ることも多かった。戦争が蔓延るというのはそういうことだと聞いていた。鎖斬は戦争を体験したことはないが、戦争は好きになれそうにない。もともと争いごとは苦手だ。
大槻松吉・福子様ご夫妻は彼の友人だったらしく、約60年間欠かさず彼の墓に参っている。最近は、身内からの供養も途絶えてしまう者が増える一方だが、こうした長く続いている繋がりを見ると胸が落ち着く気がする。
「これが仕事ですから。では、次にお言伝があった際はまたお届けにあがります。」
「よろしくお願いします。」
そっけない鎖斬の挨拶にも、孝蔵は礼儀正しく深々と腰を曲げてお辞儀をする。
鎖斬は、制帽のつばを持って軽く会釈を返してその場を後にした。
言霊幽便局は霊界にある。そこへ届く生者からの「言伝紙」を死者に届けるのが、幽便配達員・鎖斬紡の仕事だ。「言伝紙」は、現世で言うところの手紙である。死者の墓前や仏前などに向かって、生者が死者に話しかけた言葉が言霊になり、霊界への手紙となる。生者の言葉は、ちゃんと死者に届くのだ。
例外を除けば、死んだ人間の魂は必ず此処へやって来る。そして、この霊界での日々を全うした時、転生の準備を始めるのだ。孝蔵氏にはまだ見舞い手がいるが、見舞い手がいても必ず言伝紙を貰えるわけじゃない。話しかけてもらい、言霊が放たれなければ言伝紙にならないからだ。だからこそ、他に生者の近況を知る術のない死者にとって、心残りのある現世からの言伝紙が届くことは、この上なく嬉しいことなのだ。
鎖斬は次の言伝紙を見る。表に「七瀬海里様」とだけ書かれた封筒を見て死者の元へ向かった。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「あーはっははは! お前、そりゃいくらなんでも無理だろ! 通るわけねぇって!!」
鎖斬の背中をバシバシと叩きながら、粗棄が笑い声をあげた。
激しい強打が痛い。粗棄を軽く睨むと「悪ぃ悪ぃ」と頭を掻いた。
本来痛みを感じないはずの零体が、ヒリヒリとした痛みを訴える。生を知らない配達人は感覚の記憶を持たないにも関わらず、鎖斬のように痛覚を知る者が稀にいるのだ。粗棄は痛いという感覚を知らないが、鎖斬には痛みの感覚があるのだ。
「俺だってわかってるよ。でも、しょうがないだろ。頼まれたんだから。」
粗棄の加減の無さに諦観して、会話を続ける。
「で、案の定突っぱねられたと。」
「まあ、禁忌にも触れることだしな。」
「お前、よく持ち帰れたな。普通一発で切り捨てられるってわかってるだろ?そんな怖いもん知らずだったか?」
「だから頼まれたんだって。俺だって最初は断ったんだから。」
「だって無理だろ? 生きてる奴に手紙を送りたいなんて。」
「だよなぁ…」
次の配達の手紙をまとめながら、鎖斬は呟いた。
鎖斬が無理な頼み事をされたのは、孝蔵に言伝紙を届けた後のことだ。鎖斬は言伝紙の宛先人である七瀬海里の元へ向かった。
「七瀬海里様、お言伝てです。」
「あ、鎖斬さん。こんにちは!」
甲高い少年の声が鎖斬を迎えた。
「海里様宛の言伝紙が届きました。どうぞ。」
相手がいかに幼い子供でも、鎖斬は大人と同等の対応をする。
誰が相手であっても鎖斬にとってはお客様であり、生を与えられてその命を全うした勇者たちなのだから。人生というものを知らない鎖斬には、その喜びも痛みもわからない。生命という名の世界でしか生まれない感情に、憧れすら抱くこともできない。言伝紙の配達を繰り返す中で見る、死者たちの表情。皆必ず微笑むのに、その微笑み方はどれも同じではないのだ。先の孝蔵の笑みの中に込められた感情もまた、鎖斬にはわからないものだった。
鎖斬が手渡した言伝紙を、喜びの笑顔で海里は受け取った。言伝紙を受け取った者は、大抵今の海里と同じ顔をする。親しい者との縁が今でも続いているような気がしているのかもしれない。
現世に繋がりのない鎖斬には想像することしかできないが…。
言伝紙を読み始めた海里だったが、その表情が段々と険しいものになっていった。鎖斬は海里の表情が気になって立ち去るタイミングを逃してしまった。
「すみません、鎖斬さん。」
言伝紙を読み終えた海里は、何故か申し訳なさそうに鎖斬を呼んだ。
嫌な予感が全身を駆け巡ったが、鎖斬はいつも通りに返事をする。
「はい。何でしょう?」
「鎖斬さんにお願いがあるんですけど…」
「俺に可能な範囲なら大丈夫かと思いますが…?」
「手紙を書きたいんです。届けてもらえませんか?」
「………誰に、ですか?」
「友達にです。」
「友達、とは?」
「幼馴染です!」
「…………。」
「三通だけ、お願いします!」
「…………。」
鎖斬は口をつぐんだ。
たった今渡したばかりの言伝紙を掲げながら元気よく鎖斬の質問に答える海里は清々しい。
“綿貫桜”。
幼馴染というのは海里に届けた言伝紙の差出人のことだろう。だが、鎖斬が渡したのはただの手紙ではない。鎖斬の担当は、生者から死者に宛てられた言伝紙の配達。つまり、綿貫桜は生きている人間なのだ。
やはり、最初に感じた嫌な予感は大当たりだったらしい。言伝紙を渡してすぐに立ち去るべきだったと、鎖斬は激しく後悔した。すぐ断るべきなのは、考えるまでもなかった。けれどもそうできなかったのは、言伝紙を読み進めるほどに変わっていく海里の表情が、今まで鎖斬が見たことのないものだったからだ。だがどんな事情があっても、結局はこの種の願いに関しては断らなければならないのだ。
何故なら――…。
「やっぱり、ダメですか?」
「ダメですね。」
鎖斬の間髪入れない返答に、海里はあからさまに肩を落とした。
「伝えたいことがあるならば、夢入堂へ行かれてはどうですか?」
項垂れる海里を見かねて鎖斬は提案する。
「あそこは、家族とかそれくらい親しい人の夢にしか入れないじゃないですか。一人だけだし…。それに、どうしても夢枕に立たなければいけない理由がある人だけでしょ?」
夢入堂から夢枕に立つことは、誰でも行えるというわけではない。
死者から生者への接触は、簡単に行えて良いものではないのだ。それが現世との境界線が曖昧になる夢だから成せる業だ。
「どうしても伝えなければいけないことなんでしょう?」
「俺にとっては…そうだけど…、夢入堂の審査にはきっと落っこちちゃう…!」
涙目になってしまった海里にどう言っていいかわからず、行き場のない手が空を漂う。
すると、海里は唐突に顔を上げて鎖斬を見つめた。
「お願いします! どうしても伝えたいことがあるんです!」
怯んだ鎖斬に海里は頭を下げる。
海里の大きな声に、周囲にいた人たちが何だ何だと二人を振り返る。もともと、注目されるのは好きではない鎖斬は、早くこの場を立ち去りたくて仕方がない。そもそも、鎖斬に決定権はないのだから。
「い、いや……。困るんだが…」
「俺が死んじゃったことで、三人とも今でも苦しんでる…。このままじゃ…このままじゃ皆が死んじゃうよ…。だからお願い! お願いします!」
海里は二つ折りと言っていいくらいに体を曲げて、鎖斬に懇願した。
「だから、どうせ持ち帰っても無駄……。って、ちょっ……」
鎖斬はそれでもダメだと断ろうとした。
海里はすかさずその場に座り込むと、地面に頭を擦り付けんばかりに頭を下げる。
「お願いします! お願いします! 鎖斬さんしか頼める人がいません!」
「俺に言われても困るんだって! 頼むから止めてくれ…っ!」
鎖斬は片膝をついて海里を起こそうとする。
動揺で言葉も崩れてしまっていた。
端から見れば、子供に土下座をさせる大人の図の出来上がりだ。というか、鎖斬は幽便局員の制服姿なので子供に土下座をさせる役員の構図だ。これでは、明らかに大人の鎖斬が悪人ではないか。鎖斬は思わずキョロキョロと周りを見渡して、早く立ち上がらせようとする。しかし、無理にしようとすれば、周りの人々にとって更に鎖斬が悪人だ。
「大変そうですね、鎖斬さん。」
慌てる鎖斬の後ろから、孝蔵が笑いながらやって来た。
若々しいはずのその立ち姿には、50も60も歳を重ねたかのように貫禄がある。しかし、笑っている場合ではない鎖斬は、「他人事だと思って」と思わず敬語が外れてしまった。
孝蔵は鎖斬の口調を気にする様子もなく、申し訳ないと本心かどうかわからない謝罪をした。それから鎖斬を制して後ろに下がらせると、海里の前に立ち止まった。
「君、あんまり鎖斬さんを困らせちゃあいけないよ。こう見えて鎖斬さん、人がいいんだから。」
こう見えてって…どう見えているんだ?
思わぬ助け舟にツッコミたくなったが、口には出さない。
「あのね、俺だって、皆だって、できることなら、家族や友人に文を出せるならそうしたいと思っているんだよ、君だけじゃない。そして、君にそれを許して叱られるのは、君じゃなくて鎖斬さんだ。」
「でもっ……」
「順番が違うよ、坊や。」
それまで、笑顔で柔らかい口調だった孝蔵の雰囲気がガラリと変わった。
冷たさを宿した厳しい視線で海里を見下ろす。17歳のままの幼さが残る顔立ちには、若干違和感のある表情だ。
「君がまずやるべきことは、夢入堂に行ってお友達の夢枕に入れるかどうかを確認することだ。それがダメなら別の方法を探して試してみること。鎖斬さんを頼るのは、それらすべてがダメでどうしようもなくなった時だけだ。自分ができる最低限のことをやりもせずに人任せにしているような者は、実は何一つも手に入れることはできない。友達の帳面を丸写しするのと同じ、ただの怠け者さ。」
孝蔵の言葉に海里は反論できずに、再び顔を俯かせた。
「それは…そう、かも…しれないですけど…」
この人の言う通りだと頭では理解できているのだ。
それでも心が追いついてこない。
鎖斬は二人の様子を見守る。少年は自分のせいで大切な友達がいまだに思い悩んでいることに罪悪感というものを感じているのだろうか。思い詰めた友達が取り返しがつかない選択をしそうになっている。そう言っていた。焦ってしまうのも仕方のないことなのかもしれない。現世に生きる者の時はせわしなく流れているのだ。死んでしまった者が生きている人間にできることなど、ほとんど無い。
海里は溜まってしまった涙を意地でもこぼさないようにこらえた。
「とにかく、君は夢入堂へ行きなさい。話はそれからだ。」
「はい……」
孝蔵にそう促された海里は、おずおずと立ち上がった。
すみませんでしたと鎖斬に言うと、夢入堂の方へとぼとぼと歩いて行った。小さな背中が更に小さく見えて、鎖斬は胸が締め付けられるのを感じた。言伝紙を届けた時に、言伝紙を読んだ人の表情に時折感じるものに似ている気がする。
「鎖斬さんは、一応局長に掛け合ってみてくださいませんか?」
振り返った孝蔵が鎖斬に問いかける。
「え?」
「いや、友人を想う気持ちは私にもわかります。あぁ、もちろん、特別扱いはよくありません。私たちには既に夢枕という手段が与えられています。けれど、それには条件を満たさなければならないし、時間もかかる。あの子供が焦って大人に助けを求めたい気持ちもわかる。聞いてみるだけです。一番偉い人にダメだと言われれば、あの子も諦めがつくでしょう。子供とはそういうものです、私も含めてね。」
おそらく孝蔵はそれが通るわけはないとわかっているのだろう。いや、きっと海里少年もそれは理解している。それが鎖斬にはわかる。ならばどうして、無理だと思っていることをやろうとするのか。それが鎖斬にはわからなかった。無駄だとわかっていることを、意味をなさないことを、それでもやろうとするのは、その気持ちを抑えることができないのは何故なのだろう。そんな疑問を胸に抱いたまま、鎖斬は言霊幽便局へ帰社した。
怒られることを覚悟の上で上司の縁導局長に報告した。返答はやはり否。
死者と生者はその存在の概念が異なっている。生者は、時間や空間、物理現象といった様々なものに縛られている。だが死者は、物理的拘束がない。本来、存在概念が違う者がいるべき世界は異なっていなければ、世界のバランスを歪めてしまう。特に縛りが多い現世では、理が少しずれてしまうだけでも危ういのだ。バランスを崩しかねない現世への干渉が許可されるはずがない。
「そうですか…」
そのことを伝えると、海里はしょんぼりと肩を落とした。
仕方がないことだと孝蔵が励ますと、海里は今度こそ諦めを受け入れた様子でありがとうございましたとお辞儀をした。
孝蔵に付き添われ、とぼとぼと去っていく後姿を鎖斬はじっと見つめた。