9.もう一歩、前へ
それから二人は懸命に働き続け、互いに支えあいながら暮らしていた。
時折、北の国境を越えて蛮族が街の近くまで攻め入ってきた。そのたびにデイヴィッドたち兵士が討伐に駆り出された。幸い、どの戦いも小規模なもので済んでいたが、それでも多くの兵士は大なり小なり負傷することとなった。しかしデイヴィッドは毎回無傷のまま帰還し、順調に戦功をあげていた。
「お帰りなさい、デイヴィッド。あなたが無事でよかった」
「はい。君との約束を破りたくはありませんから」
兵士たちが戦いに駆り出され、そして戻ってくるたびに、キャサリンは涙ぐみながら彼を出迎え、感極まったように彼をしっかりと抱きしめていた。最初は少し戸惑っていたデイヴィッドも、最近ではそっと彼女を抱きしめ返すようになっていた。
そうやって抱き合う二人を、周囲の兵士たちは冷やかすような、温かく見守るような目で遠巻きに見ていた。
一方で、街に残っているキャサリンも目ざましい働きを見せていた。彼女が働くことになった店の店主夫婦は、素晴らしい料理の腕を持っていて人柄も良かったが、商売は少々不得手なようだった。
キャサリンはそこを見抜き、二人に経理のやり方と、仕入れなどについて二、三助言をしてみたのだ。その知識はきっと、いや必ず彼らの助けになる。彼らが望むなら、彼女はいくらでもその知識を分け与えるつもりでいた。
彼らは彼女の助言を歓迎し、大いに感謝した。しかも彼らは、そのまま彼女にそれらの業務を任せると宣言したのだ。自分たちは料理の専門家で、彼女は商売の専門家だ。だから商売については彼女の方が適任だと、二人はそう主張したのだった。
「最近雇ったばかりの給仕にそんな仕事を任せるなんて、君の雇い主は懐が広い方なんですね。……でも、君が大切にされているようで、俺も嬉しいです」
キャサリンの報告を聞いたデイヴィッドは、それを自分のことのように喜んでいた。彼は同僚たちを連れて彼女の働く店に足しげく通うようになり、それをまた同僚たちに冷やかされるようになっていた。
そうやって二人が穏やかに懸命に暮らしていたある日、珍しく緊張した面持ちのデイヴィッドが、帰宅するなり口を開いた。
「あの、キャサリン。折り入って話があるのですが」
「おかえりなさい、デイヴィッド。どうしたの、怖い顔して。……もしかして何か、悪い知らせ?」
先に帰宅していたキャサリンは彼を出迎えると、心配そうな目を向けた。それを聞いたデイヴィッドが肩の力を抜き、あわてて笑ってみせる。
「いえ、違います。……その、君に言っておきたいことがあって。聞いてくれますか?」
「もちろんよ。あなたの頼みを断る訳ないでしょう?」
悪い話ではないと知って安心したのか、キャサリンがほっとしたような顔で笑いかける。しかしデイヴィッドはまた顔をこわばらせると、一つ息を呑み、おそるおそる口を開いた。
「その、俺たちが初めて出会ってから、もう半年近くなりますよね」
「言われてみれば、もうそんなになるのね。あなたといると、時間が経つのが早く感じるわ」
「俺もそうです。君との暮らしはとても楽しくて、あっという間に時間が過ぎていくように思えます。……だから、これからもずっと君と暮らしていきたいと、そう思うんです」
「……デイヴィッド?」
彼の声が真剣な響きを帯びていることに気づいたキャサリンが、戸惑いながら彼を見つめる。デイヴィッドはほんの少し頬を赤らめながら口を一文字に引き結ぶと、一気に言い切った。
「……キャサリン、俺と一緒になってくれませんか」
驚きに目を見張るキャサリンの前で、デイヴィッドは見る見るうちに耳まで真っ赤になっていった。それでも彼は目をそらすことなく、彼女を真っすぐに見つめている。長い前髪の一房がさらりと揺れ、その下から白い傷がのぞいていた。
「前から、ずっと考えていたんです。今は成り行きで一緒に暮らしていますが、このままではいつか、君と別れることになる日が来るかもしれない。そんなことになるのは嫌なんです。俺は君を放したくない、離れたくない。キャサリン、どうか俺の願いを叶えてはくれませんか」
懇願するような目でキャサリンを見る彼の目の前で、キャサリンは花のほころぶような飛び切りの笑顔を見せた。こわばっていたデイヴィッドの顔が、期待に輝く。
「ありがとう、デイヴィッド。その申し出、喜んで受けるわ。……私も、あなたと離れたくなかったから」
それを聞いたデイヴィッドは、感極まったように彼女を力いっぱい抱きしめた。
「ちょっと、苦しいわよ」
そう笑って抗議しながらも、キャサリンもまた同じように思いっきり抱きしめ返していた。
「済みません、嬉しくて、つい。もう少しだけ、こうさせてください」
窓から差し込む夕日がすっかり落ちるまで、二人はそうやって抱きしめあったままでいた。
「そうだ、君にこれを渡そうと思っていたんです」
名残惜しそうに体を離したデイヴィッドが、思い出したように何かをキャサリンに差し出した。
「こういうときは指輪を贈るのが一般的だと知ってはいるのですが、こちらの方が俺たちにはふさわしい気がして」
キャサリンは渡されたものを見て、思わず笑顔になった。彼女の手の中で輝いている小さなそれは、不思議なきらめきを宿した石の耳飾りだったのだ。とろりとした明るい銀色の中に、ちらちらと揺らめく虹色の光が踊っている。その石は、彼女の知るどんな宝石とも違っていた。
「……あの時、私が耳飾りを落としてしまったから、今の私たちがある。そうね、確かに私たちにはこれがふさわしいわ」
感慨深げにそうつぶやくと、キャサリンはそっとそれを身に着けた。そのままデイヴィッドに向かって笑いかける。
「どう、似合う?」
「ええ、似合っています、とても」
デイヴィッドは彼女に笑い返そうとしたが、その目には涙が浮かんでいた。キャサリンは彼を椅子に座らせるとその横に立ち、彼の頭を胸に抱え込むようにして優しく寄り添った。
「私の旦那様は、少し泣き虫なのね。そんなところも素敵よ」
彼女が口にした「旦那様」という言葉にはほんのわずかに苦いものが混ざっていたが、デイヴィッドはあえて気づかないふりをしているようだった。彼は静かに涙を流しながら、キャサリンを守るように彼女の背に腕を回していた。