8.心機一転、再出発
二人が街に住み着いて半月ほど経ち、もう二人ともすっかりこの街での暮らしに慣れてしまっていた。
デイヴィッドは既に兵士として働き始めていた。毎日キャサリンに見送られながら出勤し、一日仕事をこなした後彼女の待つ自宅にいそいそと戻る、それが彼の日常になりつつあった。
「ねえ、兵士の仕事の方はどんな感じ? ……一度は子爵家に仕える騎士にまでなったのに、また兵士からやり直すのって、大変じゃない?」
ある日の夕方、二人分の食事を準備しながらキャサリンが尋ねた。手早く部屋を掃除しながら、デイヴィッドが朗らかに答える。
「順調ですよ。俺は剣の腕だけは立ちますし、兵士の身分も気楽でいいものです。それに他の兵士のみなさんも、とても気さくでいい方ばかりですから」
「もう、デイヴィッドったら。剣の腕だけ、じゃないでしょう? 剣の腕も、よ」
「ああ、また言ってしまいましたね。はい、君の言う通りです。俺、掃除も得意ですから。確かに、剣の腕だけじゃないですね」
久しぶりに自分を卑下するような言葉を口にしたデイヴィッドを、キャサリンが笑いながらたしなめる。デイヴィッドもそれを受けて、少しおどけた口調でやり返した。彼が珍しく口にした冗談に、キャサリンはさらに楽しそうに笑う。
しかし、彼女のその顔が唐突に曇った。デイヴィッドが掃除の手を止めて彼女の方を見つめると、彼女はうつむきながら弱々しい声でつぶやいた。
「……でも、兵士の仕事って街の巡回だけじゃなくて、北の国境を越えて攻めてくる蛮族との戦いもあるんでしょう? あなたが強いのは知っているけど、それでも心配なの」
デイヴィッドが自分を見つめていることに気がついた彼女は、取り繕うような笑顔を浮かべると軽く首を横に振ってみせた。
「ああ、暗くなっちゃったわね、ごめんなさい。あなたが必要とされていて、あなたの力が生かせる場所を得られた、これ以上に喜ばしいことなんてないのにね」
「ありがとう、キャサリン。俺のことを心配してくれて。君がそう思ってくれることが、俺の力になるんです」
あくまでも明るく話をそらそうとしたキャサリンに、デイヴィッドは真正面から礼を言った。そして彼女が何か言うよりも先に、さらに言葉を続ける。
「でも、君が悲しむのは嫌です。だから、一つ約束させてください。俺は必ず、無事に君のもとに戻ってきます」
そう言うと彼はキャサリンの傍に歩み寄り、優雅な仕草で膝をつく。そのまま彼女の手をとり、その甲に唇を落とした。ちょうど、貴婦人に忠誠を誓う騎士のように。
「……デイヴィッド……」
「大仰な振る舞いになってしまって、済みません。でも俺は、それだけ真剣に誓いたいと思ったんです。キャサリン、どうか、俺を信じてください」
ゆっくりと立ち上がり彼女の手をとったまま微笑むデイヴィッドに、キャサリンもぎこちないながら笑い返した。それは先ほどの取り繕うような笑顔とは違った、心からの笑顔だった。
またある日の昼、キャサリンは一人で街を歩いていた。この街は比較的治安はいいが、それでも女性が一人で歩くには不向きな場所もある。彼女はそんな場所を慎重に避け、飲食店が立ち並ぶ区画に足を運んでいた。
この街に来てから、彼女も働く場所を探していた。旅の途中にそうしていたように、飲食店の給仕として働こうと思っていたのだが、どうせならしっかりと店を吟味して、将来性のある店で働きたい。彼女はそう考えていた。
だから連日、彼女はあちこちを歩き回っては一つ一つ店を見て回っていた。昼のみ営業している店で、客層がよく、店主の人柄が良さそうな店。そしてもちろん、美味な料理を出す店。彼女はそんな店を探していた。
豪商の家の生まれであるキャサリンは商売については明るいし、客あしらいについても一通り学んでいる。けれど一方で、夜の食堂にいるような酔客、もっと言うなら酔ってくだを巻くような客に対しては全く耐性がないのだった。だから、彼女は昼間だけ営業する店を意図的に選んでいた。
そうして数日間探し回った結果、一軒の店がどうやら彼女の眼鏡にかなったようだった。
そこは大通りから少し離れた小さな通りにあるこぢんまりとした新しい店で、若くて愛想のいい店主夫婦が二人だけで切り盛りしている。なにより、そこの料理は絶品だった。舌が肥えているキャサリンですら、初めてこの店の料理を口にしたときは思わずうなりそうになってしまった程だった。
その店では手が足りていないらしく、昼時などは店主夫婦が揃っててんてこ舞いになっている。それを確認したキャサリンは、しばらく待って客が減った頃合いを見計らうと店主夫婦に声をかけた。
「それで、そのお店で働くことになったんですね」
その日の夜、帰宅したデイヴィッドにキャサリンが昼間あったことを説明すると、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ええ。そのお店は人手が足りなくて、そろそろ給仕を雇おうと思っていたところだったんですって。ちょうどそこに私が働きたいって申し出たものだから、逆にこっちが感謝されちゃったの」
笑顔を絶やさない店主夫婦が二人揃って喜んでいた姿を思い出し、キャサリンはくすりと笑う。
「それにしても、君が認めたお店なら、きっと素敵なところなのでしょうね。今度、昼の休憩の時にでも行ってみましょうか」
「是非来てちょうだい。どうせなら兵士のみなさんも連れてきてね」
「さっそくお店の宣伝ですか? 熱心なんですね、君は」
「だって、明日からは私も加わるし、もっと多くのお客さんをさばけるわ。少しでも多くの人に、あのお店を知ってもらいたいの。絶対に、あのお店はこの街で一番のお店になる。あそこの料理を食べて、私は確信したの」
そう力説するキャサリンに、デイヴィッドが目を丸くした。
「君って、もしかして結構おいしいものに目がなかったりするんですか?」
「実はそうなの。そのせいで、昔はちょっとふっくらしてたのよ。今はしっかりと体を動かしてるし、また太ることはないと思うんだけど」
「少しくらいふっくらしていても、それはそれで可愛いと思うんですが」
「もう、デイヴィッドったら、からかわないで」
楽しそうに笑うデイヴィッドの前に夕食の皿を並べながら、キャサリンは幸せを噛みしめていた。