4.本当のキャサリン
カーシェ辺境伯の領地を目指す二人の旅は、とても順調に進んでいた。
「君も大分歩き慣れてきたようですね。最初の頃は大変そうだったので、ずっと心配していたんです」
二人並んで街道を歩きながら、デイヴィッドが笑顔でそうつぶやく。キャサリンは苦笑しながら答えた。
「男爵の屋敷にいた頃は、まともに出歩くことなんてなかったから……体力がひどく落ちてしまっていたの。でもあなたと旅に出て毎日歩いたおかげで、すっかり元の調子を取り戻せたわ。いいえ、前よりも調子が良いくらいよ」
彼女の言う通り、今の彼女は以前とはまるで別人だった。毎日せっせと歩き続けるうちに体もすっかり引き締まっていた。むしろ、嫁入り前よりもほっそりとしているくらいだった。
「それは良かったです。若い女性を長旅に誘ってしまって良かったのか悩んでいたんですが、君が元気になる手助けができたようで、俺も嬉しいです」
デイヴィッドが穏やかに笑う。その右目は厚い前髪で相変わらずきっちりと覆い隠されている。キャサリンは特にそのことは気にしていないようで、生き生きと目を輝かせながら笑い返した。
「ええ、あなたには感謝しているの。あなたと旅に出てから毎日が楽しいし、とても充実しているから」
そう言って彼女がデイヴィッドの方を向くと、長くつやのある栗色の巻き毛がきれいに広がった。少し日に焼けたその頬には健康的な血の色がうっすらと浮かんでいて、かつての不健康な白さはどこにもなかった。
そして健康を取り戻していくうちに、彼女の心からも暗さが消えていった。これについては、いつも穏やかな表情で付き添っているデイヴィッドの存在も大きかったのだろう。
そうやって心身ともに回復していった彼女は、驚くべき変貌をとげていた。生気に乏しくやつれ果てていた男爵夫人は、今では誰が見ても愛らしいと断言できるような、そんな女性になっていたのだ。人懐っこい笑みを浮かべ、明るい声で軽やかに話しながら跳ねるように歩く彼女の姿は、ひときわ人目を引いていた。
日に日に健康を取り戻していく彼女を、デイヴィッドは自分のことのように喜んでいた。そうやって喜ぶ彼を見て、キャサリンも同じように笑顔になっていく。二人の間には、ずっと笑顔が絶えなかった。
長い旅路の途中、二人は大きな街に数日滞在しては路銀を稼ぎ、また旅を続けることを繰り返していた。
キャサリンは嫁入り道具として親から贈られた宝石をいくつも持っていたし、デイヴィッドも今までの俸給のほとんどを堅実に蓄えていた。けれど目的地に着いてからも何かと金が必要になるだろうし、できるだけそれらは温存しておきたい。そう二人の意見が一致したのだ。
デイヴィッドは護衛や荷物運びなどの仕事を着実にこなしていたが、キャサリンも負けてはいなかった。むしろ、金を稼ぐことに関しては彼女の方が上ですらあった。
彼女は食堂の給仕として働くことが多かったが、客あしらいがうまく、金の勘定も早かった。あっという間に店になじんでしまい、いっそここに残ってくれと言われることもあった。
「また、ここに残らないかって引き留められてしまったの。旅の途中ですから、って言って断ったけれど。そうしたらせんべつにお給金をはずんでくれたのよ。助かったわ」
夜も更けた頃、二人は宿の食堂でゆっくりと話し込んでいた。今日あったことをキャサリンが笑いながら話すと、デイヴィッドはわずかに顔を曇らせた。
「……そうやって君が引き留められるのは、これでもう何度目になるんでしょう。いっそ、どこか気に入った街に居ついてしまってもいいんじゃないんですか」
「何を言っているの、デイヴィッド。私はあなたと一緒に行くって決めたのよ。……あなたが私ともう一緒にいたくないっていうのなら、話は別だけど」
暗い顔をしているデイヴィッドに少しいきどおってみせたものの、急に悲しそうな顔になるキャサリン。くるくると表情を変えている彼女に、彼はあわててかぶりを振った。
「とんでもない、俺は君といられて嬉しいんです。ただ……俺が君の足かせになってしまうのは嫌なんです」
「足かせって、それはどういう意味なの?」
「わざわざ不便で戦の多い辺境まで行かなくても、君はもっと平和なところで暮らすことができるでしょう。戦うくらいしか能のない俺と違って。この旅に君を誘ったのは俺ですが、だからといって、旅の最後まで君が俺に付き合う必要もないと思うんです」
左目を伏せながら沈痛な面持ちで説明するデイヴィッド。彼の言葉に引っかかるものを感じたのか、キャサリンがまた眉をひそめた。
「戦うしか能がないなんて、自分を卑下しないで。あなたは私を救ってくれたんだから」
「俺が君を? ……心当たりがないんですが」
デイヴィッドはきょとんとした顔で首をかしげている。どうやら彼は、本気でそう考えているらしい。そう見てとったキャサリンは真っすぐに彼を見つめると、一言一言ゆっくりと彼に言い聞かせるように思いを伝えた。
「私たちが初めて会ったあの夜、あなたは私から目を背けなかった。私に敬意をもって接してくれた。あんな風に、まともに人間として扱われたのは久しぶりだった。あの時、私はあなたから生きる力をもらえたの」
彼女の突然の告白に、うつむいていたデイヴィッドはぱっと顔を上げた。暗い灰色の左目に、困惑するような、すがるような色が浮かんでいる。
「俺はただ、当然のことをしただけで……そんな、君に感謝されるようなことは何もしていません」
「私は、その『当然のこと』が嬉しかったの。あなたに出会えて良かったって思ってる。あなたがいてくれて、本当に良かったって」
「ですが、俺は……」
キャサリンがどれほど必死に言葉を重ねても、デイヴィッドは彼女の感謝の気持ちを受け取ろうとはしなかった。悲しそうにまた目を伏せて、ゆるゆると首を横に振っている。
彼はどうしてこんなに自分を卑下しているのだろう、キャサリンの頭にはそんな疑問が残り続けていた。




