30.森の狼
敵意をむき出しにした子供ににらまれたキャサリンは、身動きもできずにじっと向かい合うことしかできなかった。ちょうど、野の獣に出くわした時のように。彼女の胸くらいまでしか身長のないその子供は、まるで大きな狼のような殺気を漂わせていたのだ。
どうにかこの場を逃れようとしてキャサリンがわずかに足を動かすと、子供はその隙をついて彼女に飛び掛かろうとした。
しかし子供は小さく悲鳴を上げ、その場にうずくまった。苦痛に顔をしかめながら、足首を押さえている。
「……怪我、してるの……?」
その悲痛な表情に思わずキャサリンが尋ねると、子供はまた顔を上げて彼女をにらんだ。中々に整った顔立ちをしていて、その目はとても力強かった。
「お前、南の連中だな。そのまま、下がれ。こっちに来るな」
澄んだあどけない声で、低く子供が言い放つ。キャサリンは子供の言う通り、ゆっくりと下がっていった。
この子は自分のことを警戒している。まずは距離をとって、敵意がないことを示さなくては。彼女は子供の食い入るような目線を浴びながらそろそろと慎重に下がり続け、先ほど川原に置いた荷物のところまでたどり着いた。
彼女が十分に離れるのを見届けた子供が、ほっとしたような表情になる。その時、子供のお腹が大きな音を立てた。離れているキャサリンにもはっきりと聞き取れるほどの大きな音だった。緊張したこの場に似合わないのどかな音に、彼女の肩から力が抜ける。
「あなた、お腹空いてるの?」
「お前には関係ない」
言いながらも、子供は恥ずかしそうに顔をそむける。その可愛らしい仕草に、キャサリンは三度尋ねていた。
「少しだけなら食べるものがあるけど、あげましょうか?」
「そうやって、僕に毒を食わせるつもりか。南の連中は、卑怯な手を使うと聞いた」
子供はまだ顔を赤くしながら、噛みつくように歯をむく。しかし、その目つきはほんの少し和らいでいた。それを見て取ったキャサリンは、子供に警戒されないようにゆっくりと荷物から袋を取り出すと、中に入っていたクッキーを一枚手に取った。
それは今朝ポールからもらった試作品だった。何故かやたらと量が多く、二人で食べても余ってしまうほどだったので、彼女はどこかにおすそ分けでもしようかと思い、持ち歩いていたのだ。
キャサリンは子供に見えるようにしながらクッキーを半分に割る。その半分を自分で口にすると、残り半分を子供の方にそっと差し出し、じっと待った。
どうやら子供は彼女の意図を理解したようで、しばらく彼女とクッキーを見ながら戸惑っていた。子供はしばらくそうしていたが、やがて意を決したように片足をかばいながら彼女の傍までやってきた。
無言のままクッキーを奪い取ると、子供はそれを慎重に口に運んだ。ゆっくりとかみしめていた子供の目が、真ん丸に見開かれる。ずっと手負いの獣のような気配を放っていた子供から、殺気が消えたのをキャサリンは見て取った。
口の中のものを飲み込んだ子供は、無言のままキャサリンを見上げた。その目からは先ほどの敵意は消え失せており、代わりに戸惑いと期待が浮かんでいた。
キャサリンが笑いをこらえながらクッキーを袋ごと渡すと、子供はそれを抱え込み、勢いよく食べ始めた。ついさっきまで毒を警戒していたとは思えないほど、豪快な食べっぷりだった。
やがてクッキーを食べ終えた子供は、気まずそうに目線をそらすと小声でつぶやいた。
「……おいしかった。礼を言う」
「どういたしまして」
「……僕はファル。森の狼の氏族の者だ。お前たち南の連中は『蛮族』なんて呼んでるけどな」
不機嫌を装いながら、意外に大人びた口調で子供が名乗る。キャサリンはそんな彼の機嫌を損ねないよう、精いっぱい真面目な顔をして答えた。
「私はキャサリン。そこの街に住んでいるの。ねえファル、足は大丈夫?」
「……良くない。たぶん二日くらい、じっとしていないと駄目だ」
「それは大変ね……あなたがどこから来たのか知らないけれど、それではすぐに戻れないんじゃない? 私でよければ、何かお手伝いしましょうか」
キャサリンは蛮族が恐ろしくはあったが、目の前のファルは少々変わった格好をした、ただの子供にしか見えなかった。それに直接蛮族と戦っているデイヴィッドとは違い、彼女が蛮族の姿を見るのはこれが初めてだったのだ。
だから彼女は、腫れてきた足首をかばいながら顔をしかめているファルをどうしても放っておけなかったのだ。ちょっと手助けをするくらいならいいだろうと、彼女は心の中で言い訳をしていた。それが誰に対する言い訳なのかは、彼女にも分からなかったが。
「そうやって、僕たちの居場所を探るつもりか」
「違うわよ。あなたが無事に家族のところに帰れるように、手伝いたいだけ。……そうだ、あなたのご両親が探しに来たりはしないの?」
「……僕が戻らなかったら、きっと父さんは探しにくる。でも、ここで隠れている僕を見つけるには時間がかかるし、南の連中に見つかるかもしれない。僕が足を治して、家に帰る方が早い」
そう言いながら、ファルは目線を遠くに投げかけた。その先には高い崖があり、すぐ下には彼が落ちた川が流れていた。そちらを見ている彼の顔は、どこか悔しそうだった。
「あなたはあそこから落ちたのね。下が川で良かった」
「……あの上に行こうなんて、思うなよ」
「行かないわよ。そもそも私の足じゃ、あそこまでたどり着けないわ。道も分からないし」
キャサリンが苦笑してみせると、ようやくファルは警戒を解いたようだった。
「だったら、いい。……キャサリン。お前は僕を助けたいのか?」
「ええ、そうよ。食べ物とか薬とか、そういうものを持ってくるくらいならできるわ」
「食べ物」
先ほどのクッキーの味を思い出してしまったのか、ファルの目が輝いた。必死で興味のないふりをしているが、内心の期待をどうにも隠しきれていない。
どうやらファルは、自分と同じでおいしいものに目がないらしい。キャサリンは彼に妙な親近感を覚え始めていた。自然と声が弾むのを感じながら、彼女はファルを説得するように言葉を重ねる。
「さっきのクッキー、気に入った? 私が働いているお店のご主人が作ったのよ。とっても料理が上手な人なの。良ければ、何か買ってきましょうか」
「……頼む」
南の連中にこんなことを頼んでいいのかどうか少し迷っていたようだったが、ファルは結局食欲に負けたようだった。気まずそうにうなずいている。
「分かったわ。何か食べられないものはある? 好きなものは何? あ、それと薬は要る?」
「待て、一度に言うな」
キャサリンがまくしたてると、ファルは目を白黒させた後、ぼそぼそと答え始めた。
「食べられないものはない、肉が好きだ。薬はいらない、自分でなんとかできる」
「ふふ、だったら行ってくるわね。この辺りで待っていて」
笑って答えると、キャサリンは荷物をつかみ、街に向かって走り出した。まだ戸惑った顔のファルをそこに残したまま。




