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3.新たな門出

 ベンダー男爵に離縁されたその日の夕方、キャサリンは屋敷に一番近い宿場町の入り口に一人きりで立っていた。その手には、荷造りを終えたばかりの大きな片手鞄が下がっている。


 荷物を持ってくれる者もおらず、ここまで送ってくれる馬車もなかった。彼女はそうやってたった一人、屋敷から放り出されたのだった。


 彼女が身にまとっているのは今までの古びたドレスではなく、ごく普通の質素な服だった。嫁入り前に持っていた服が残っていたのでひとまずはそれを着ているのだが、その服が少しばかりきつくなっているのを彼女はひしひしと感じていた。


「少し、痩せなきゃね……。体力もつけないと」


 今までずっと極度の運動不足だったこともあって、ここまで歩いてくるだけでも結構息が上がってしまっていた。それを不甲斐なく思いながら、彼女は周囲を見渡した。そろそろ夕方近いこともあって、宿を目指す旅人の姿がちらほらと見える。


 キャサリンはここに来るまでに、そしてここに来てからも、幾人かの旅人とすれ違ってきた。自分が醜いのだと信じている彼女にとって、それはとても恐ろしいことだった。


 あの月夜に出会った男性は自分を人間として扱ってくれた。でも、他の人もそうとは限らない。かつて夫だったあの男のように、醜い自分から目を背けたりさげすんだりする者もいるだろう。彼女はそう覚悟していた。


 けれどすれ違う人たちはキャサリンをちらりと見るだけで、とりたてて顔色を変えるようなことはなかった。その反応に、ようやく彼女は自分の認識こそが間違っていたのかもしれないと思うようになっていた。


 まだ彼女の内に恐ろしさは残っていたが、キャサリンはそんな自分を叱咤しながら、落ち着いた足取りで宿場町の中心に向かって進んでいった。




 ここはごくありふれた田舎の宿場町。ベンダー男爵の領地は大きな街道から遠く、行きかう人もそう多くない。細々と畑を耕す農民たちからの税収、それだけが男爵の収入源だった。そんな事情があったからこそ、男爵は資金援助を求めて豪商の娘であるキャサリンを妻としたのだった。


 けれどあっさりと、自分は捨てられた。そのことを悲しいとは思わなかったが、どうして今男爵は自分と離縁することにしたのか、彼女にはそれが分からなかった。男爵が資金を必要としなくなったのか、自分を妻とすることに耐えられなくなったのか、それとも自分が不義を働いたと本当に思っていたのか。


 考えても答えは出ない。そんなことを気にするよりも、これからのことを考えている方がよっぽど建設的だ。そんな風に前向きになれていることに少しだけ喜びを覚えながら、彼女は小声でつぶやいた。自分を奮い立たせるように。


「さて、これからどうしようかな」


 気を取り直した彼女が思わず口元に笑みを浮かべた時、突然誰かが彼女に歩み寄ってきた。反射的に身構える彼女の前で、その人物は親しげに笑いかけてきた。


「お久しぶりです。……キャサリン様、ですね」




 それは先日の夜、月明かりの下で会ったあの男性だった。明るい灰色の髪が、傾きかけた日に照らされて橙色に輝いている。暗い灰色の瞳は、前と同じように穏やかに彼女を見つめている。


 思いがけない人物に再会した驚きにキャサリンが絶句していると、彼は申し訳なさそうに目を伏せた。


「お話したいことがあるのですが……今、よろしいでしょうか」


 彼はデイヴィッドと名乗り、戸惑うキャサリンにいきなり頭を下げてきた。


「あなたは俺と通じたという疑いをかけられて、ベンダー男爵に離縁されたと聞きました。あの時、俺があそこを通りがからなければ……本当に、申し訳ありません」


「いえ、あなたは何も悪くないのですし、どうか顔を上げてください。……あの、もしかしてそれを言うためにここに?」


「はい。ここで待っていれば、あなたに会えるかもしれないと思って。……それに、俺もラウル子爵のもとを追い出されてしまったんです。他家の夫人に手を出すなど言語道断、と」


 キャサリンは目を見張った。それでは、彼女とデイヴィッドは揃って濡れ衣を着せられ、追放されたのか。彼女は申し訳なさで胸がいっぱいになりながら、頭を下げたままの彼に謝罪した。


「ごめんなさい、デイヴィッド。あの時私が落とし物などしなければ、あなたは今でも騎士でいられたでしょうに」


「いえ、キャサリン様は悪くありません」


 交互に謝罪の言葉を述べながら頭を下げあっているうちに、二人は何とも言えないおかしさを感じたらしく、どちらからともなく小さく笑い始めた。すれ違う旅人がそんな二人に不思議そうな目を向けてきたが、二人はそちらを気にすることもなくただ楽しそうに笑い続けていた。






 それから少し後、二人は一軒の食堂に腰を落ち着けていた。つのる話は食事の後で、と二人の意見が一致したのだった。


 ここに向かう時に、デイヴィッドがキャサリンの大きな片手鞄を率先して運んでくれたことに、キャサリンはまた嬉しさを感じていた。そして同時に、彼女は自分がこれまでどれほど虐げられてきたのか、改めて実感していた。


 多くの人でにぎわう食堂で、二人は様々なことを話し合っていた。ほぼ初対面でしかないのに、まるで長年の知り合い同士のように話は弾んでいた。きっとデイヴィッドの穏やかな物腰がそうさせるのだろうと、キャサリンは考えていた。


 そうしているうちに、気づけばキャサリンは男爵家での辛い過去についてデイヴィッドに打ち明けてしまっていた。彼女自身は自分のそんな振る舞いに驚いていたが、話を聞いたデイヴィッドはただ静かにうなずくだけだった。


 大仰に同情するわけでもなく、うろたえるでもない。そんな彼の態度は、彼女にとってありがたいものだった。


「そうだったんですか。君も苦労していたんですね。けれど、この前よりも元気なようで良かったです」


「あの時の私は、生ける屍のようなものだったから……」


 この前は男爵夫人と騎士という立場だった二人だが、今はもうただの平民で、同じ立場だ。だからお互いに普通の口調で話すことにしようと、二人はそう決めたのだった。デイヴィッドの方はそれでもまだずいぶんと丁寧だが、彼にとってはこれが普通らしい。


「それで、君はこれからどうするつもりなんですか?」


「どこか遠くに行ってやり直そうかなって思っているの。実家に戻る気にはならないし。……できれば、男爵と関係のないどこか遠くに行きたいなって」


「そうなんですか。……もし行く当てがないのなら、俺と来ませんか」


「来ませんか、っていったいどこへ?」


 突然提案されたキャサリンが目を丸くして首をかしげると、彼は微笑んで説明を始めた。


「カーシェ辺境伯の領地へ行こうと思っています。あそこは蛮族による侵攻が絶えないせいで、腕の立つ人間ならいつでも歓迎されるんだそうです。行き詰まったらあそこに行け、というのは、兵士や騎士たちの間では有名な話なんですよ」


「まあ、そうだったの。そうやって男性が多く集まるところだったら、女手も必要とされているはずよね。だったら、私の働き口もあるかもしれない」


「俺もそう思います。だから、君さえ良ければ一緒に行きませんか。……俺のせいで男爵家から放り出されてしまった君を、見捨てたくないんです」


 そうつぶやいたデイヴィッドの目からは、ただ純粋にキャサリンのことを心配しているという思いが伝わってきた。


 他人に対する恐怖感はまだキャサリンの心の中に残っていたが、それでも彼女は決意を込めてうなずくことにした。自分は彼に希望をもらった。彼と共にいれば、自分はもっと変わっていけるかもしれない。彼女はそう感じたのだ。


「……うん、私もあなたと一緒に行くわ。これからよろしくね、デイヴィッド」


「こちらこそよろしくお願いします。ありがとう、キャサリン」


 それから二人はこれからの旅程について熱心に話し込んでいた。そんな二人を他の旅人たちが微笑ましい目で見ていたが、キャサリンはもう彼らの視線を気にしていなかった。

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