2.月夜の出会い
二階の窓辺と一階の草地。短くも決定的なその距離に阻まれながら、二人はそのまま見つめ合っていた。それはほんの一瞬のことでしかなかったが、キャサリンにとっては永遠のようにも思えるほど長い時間だった。
下に立っていた男性はきびきびとした動きで離れの方に近づくと、かがみこみ何かを拾い上げた。それが何であるかを理解したキャサリンが息を呑む。
「……これは、あなたが落とされたものですか」
彼は拾ったものを彼女に向かって掲げる。それは紛れもなく、先ほどキャサリンが落とした耳飾りだった。
そして彼の口調は、とても優しく礼儀正しいものだった。ベンダー男爵の傲慢な口調とも、使用人たちのうわべだけ丁寧な口調とも違う、温かい感情のこもった声だった。
何か答えを返さなくては。キャサリンはそう思ったが、まるで舌が口の中で張りついたかのように動かない。最後に使用人以外の人間と口をきいたのはいつのことだったのか、それは彼女自身すらもう思い出せないほど前のことだった。
彼は彼女のそんな戸惑いを感じたのか、ほんの少し困ったように笑うとさらに言葉を続けた。
「申し訳ありません、いきなり声をかけたりして。無礼でしたね」
「無礼だなんて、そんなことは」
どうにかそれだけを口にする。彼は親切にも、自分が落とした耳飾りを拾ってくれたのだ。無礼だなんてかけらほども思っていない。感謝しているし、嬉しくてたまらない。そう伝えたいのに、言葉が出ない。
彼女がうまく動かない自分の口をもどかしく思っていると、彼は耳飾りをうやうやしく捧げ持ち、彼女を安心させるかのように笑いかけた。
「これをお返ししたいのですが、どうすればよいでしょうか」
「お待ちください」
キャサリンは久しぶりに、頭がちゃんと回り始めているのを感じていた。ずっと人間扱いされていなかった自分に、優しく話しかけてくれる人がいる。たったそれだけのことが、彼女に驚くほどの力を与えてくれているようだった。
彼女は部屋の中に戻ると、長い房飾りのついたストールを手にして窓辺に姿を現した。外の男性は、まだ穏やかに微笑みながら彼女を見つめている。その視線にどことなくいたたまれないような気持ちになりながら、彼女はそっとストールを窓から外に垂らした。
「それに、結びつけていただけますか」
男性は慎重な手つきでストールの端を手に取り、そこに耳飾りを結びつけた。キャサリンがストールを引き上げると、男性はほっとしたように小さく息を吐いた。
キャサリンは耳飾りを手にすると、勇気を振り絞って男性に話しかけた。
「ありがとうございました。……あなたは、どうしてここに?」
「俺はラウル子爵にお仕えしている騎士です。宴の間、周囲を警護するようにおおせつかりました」
ラウル子爵というのは今日この屋敷に招かれている客人だ。しかし、何故彼は宴に出ずに、こんなところで警護をしているのだろうか。この屋敷にだってちゃんと衛兵はいるし、わざわざ客人の従者を警護に割く必要はないように思える。
キャサリンは不思議に思ったが、それ以上何も尋ねなかった。訳ありというなら、自分の方がよほど訳ありだ。
彼は自分を人間扱いしてくれた。彼には事情を知られることなく、このまま人間として別れたい。キャサリンはそう考えて、会話を切り上げることにした。もう少しだけ話していたい、そんな気持ちを抑えながら。
「そうですか。この辺りには危険な獣はいないと思いますが、どうかお気をつけて」
「お気遣い、ありがとうございます。それでは、これで失礼いたします。……どうか、お体を大事になさってください」
彼が最後に言い残した言葉の意味を考えながら、キャサリンはずっと彼が去っていった方を見つめていた。
この月夜の出会いは、キャサリンの心にほのかに温かいものを残していた。
彼は自分を普通の人間として扱ってくれた。こんなに醜い自分であっても、いつか人間として生きることができるのかもしれないという、そんなかすかな希望を与えてくれた。
あの時のことを思い出してそっと胸を押さえる彼女の口元には、ほんのわずかにではあるが微笑みが浮かんでいた。
けれど事態は彼女が想像もしない形で、あらぬ方に動き始めていた。
「お前は離縁だ、キャサリン」
久しぶりに彼女のもとを訪れたベンダー男爵は、彼女に一枚の紙を投げつけると開口一番にこう宣言した。キャサリンが足元に落ちた紙をのろのろと拾い上げる。その紙は、男爵とキャサリンの婚姻を破棄する旨を証明する書類だった。
うつむいたまま黙っているキャサリンにじれたのか、彼は彼女を威嚇するように大きく足を踏み鳴らして一気にまくしたてた。
「この間の宴の日、お前がほかの男と通じていたのはもうばれているんだぞ。窓越しに親しげに会話をしていたのを、下男の一人が見ていた。まったく、俺の目を盗んでよその男を誘惑するとは、この恥知らずめ」
その言葉に、キャサリンは窓の下に立っていたあの男性のことを思い出した。宴の日に会ったのは彼だけだ。けれど彼とはほんの少し言葉を交わしただけだし、不義を働いたなどと疑われるいわれはどこにもない。
そう考えながら、彼女はふとおかしさがこみあげてくるのを感じていた。離縁してもらえるというのは、よくよく考えてみればいい話なのかもしれない。この牢獄のような屋敷から出られるのであれば、濡れ衣の一つや二つ、どうということはない。
キャサリンはそう腹をくくることにした。彼女はまだうつむいたままだったが、その瞳には昔のような生気が宿り始めていた。月夜に芽生えたかすかな希望が、どんどん胸の中で大きくなっていくのを彼女は感じていた。
そんな彼女の変化には全く気づいていないらしい男爵は、嫌みったらしいねじくれた笑みを浮かべてふんぞり返った。自身の勝利を確信した、そんな様子だった。
「今日のうちに荷物をまとめて出ていけ。それと、このことをお前の両親に伝えたのだが、二人ともひどく立腹していたぞ。お前はもう娘でも何でもない、二度と顔を見せるなと言っていたな」
彼の発言の真偽のほどを知るすべは今の彼女にはなかった。しかし今の彼女にとっては、一刻も早くここを出ることのほうが重要だった。細かいことはその後でじっくり考えればいい。そう彼女は考えていた。
「お前の辛気臭い面をもう見なくて済むかと思うと、胸のすく思いがするな。どこへなりと行ってしまえ、この醜女が」
大きな足音を立てながら男爵が去っていくのを見届けると、キャサリンは今までの生気のないゆっくりとした動きが嘘のように、手際よく機敏に荷造りを始めた。自分一人でぎりぎり持ち運べそうな大きさの片手鞄を引っ張りだし、そう多くはない自分の持ち物をより分けながら詰め込んでいく。
もしかしたら男爵が言うように、もう自分は実家には戻れないのかもしれない。もしそうだとしても、どこかで仕事を見つければいい。昔は両親の仕事も手伝っていたのだし、ちょっとした商売くらいならこなせるだろう。少なくとも、ここでの死んだような生活よりはずっとましだ。
そんな風に将来の計画を立てながら、いつの間にか彼女は自分が小さく鼻歌を歌っていたことに気がついた。
ここから出られるというだけで、こんなにも心が浮き立つなんて。彼女はそのきっかけを作ってくれたあの男性に心の中で感謝しながら、てきぱきと荷造りを終えていった。
彼女の胸の内には、希望が満ちていた。