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10.若夫婦の日常

 結婚の手続き自体は、とてもあっさりと終わった。街の中にある役所に二人で出向いて手続きをする、たったそれだけで二人は夫婦となることができたのだ。多くの夫婦はその後に教会で小さな式を挙げるのだが、キャサリンはそれに難色を示していた。


 結婚式にも、花嫁の白いドレスにも、彼女はいい思い出がない。デイヴィッドはあの男爵とはまるで違う、そのことが分かっていてもなお、彼女はどうしてもあと一歩踏み切れなかったのだ。そんな彼女を、デイヴィッドは優しく見守っていた。


「式を挙げるかどうかなんて、俺たちにとってはささいな問題でしかないでしょう。君につらい思いをさせるくらいなら、式なんて要りませんよ」


 手続きを終えて帰宅した後、珍しく泣きそうな顔をしていた彼女を抱き寄せて、デイヴィッドはきっぱりと断言した。彼女はまだ申し訳なさそうにしながらも、そろそろと顔を上げ、最愛の夫を見つめた。


「ありがとう、デイヴィッド。……あなたと結婚できて、本当に良かった。愛しているわ」


「ええ。俺も愛していますよ、キャサリン」


 そう言うと彼は彼女をさらに引き寄せ、そっと唇を重ねた。二人にとっては、これが誓いの口づけだった。誰にも祝福されなくても、今の二人は十分に幸せだった。






 こうして晴れて夫婦となった二人だったが、二人の生活はさほど大きく変わりはしなかった。もとより二人一緒に住んでいたのだし、周囲の人間はとっくに二人を夫婦同然のものとして扱っていたからだ。


 唯一変わったのは、二人きりの時間がずっと親密で、甘いものになったということだった。キャサリンは確かにデイヴィッドを愛していたし、彼を夫とできたということに喜びを感じていたが、それと同時に前の不幸な結婚の記憶が、時折よみがえってしまっているようだった。


 そうやって彼女が不安げな顔をするたび、デイヴィッドは彼女を抱きしめ、耳元に優しく語りかけていた。


「大丈夫です。俺はずっと君のそばにいて、君を愛し続けますから」


「……ええ、あなたのことは信じているわ。けれど……」


 そうしていると、彼女はまるでかつての虐げられた彼女に戻ってしまっているように見えた。いつもの気丈な姿は見る影もなく、不安げにデイヴィッドの胸元にすがりついている。


「君があの過去を笑い飛ばせるようになるまで、俺はいくらでもこうしていますから。かつて、この傷を隠そうと必死になっていた俺を、君が抱き留めてくれていたように」


 その言葉にキャサリンは顔を上げ、デイヴィッドの顔の傷にそっと触れた。どこかぼんやりとした目をした彼女に彼はさらに笑いかけ、彼女の手に自分の手を重ねた。


「君のおかげで、俺はもうこの傷を醜いと思わなくなりました。……本当は、もう前髪を切ってしまってもいいんですけどね」


「……そうだったの?」


「実は、君に毎日髪を編んでもらえるのが嬉しくて、ついこのままにしていたんです。我ながら子供っぽいとは思うんですが」


「子供っぽくなんかないわ。私も、あなたの髪を編むのが好きだから」


「だったら、ずっとこの髪型でいましょうか」


 手を重ねたまま、デイヴィッドがにこりと微笑む。つられてキャサリンも笑顔になった。彼女の目には、またいつものような強い輝きが戻りつつあった。






 デイヴィッドは、キャサリンが予想していたよりも遥かに良い夫だった。元々彼は良い同居人ではあったが、夫婦となってからの彼は、それはもうまめにキャサリンに愛情を示し続けたのだ。


 彼は仕事が終わると大急ぎで家に戻り、少しでも長くキャサリンと過ごそうとしていた。また帰宅の道中にでも買い求めたのか、小さな花束やちょっとした甘味などを手にしていることもあった。彼は彼女がおいしいものに目がないことをちゃんと覚えていたのだった。


 キャサリンも彼の思いに答えるようにかいがいしく彼の世話をし、デイヴィッドはさらに感謝を重ねていた。二人の間には、ただ愛と幸せだけがあるようだった。




「ただいま、キャサリン。今街に大道芸人が来ているんだそうです。時間を作って、一緒に見に行きませんか?」


 ある日の夕方、彼は相変わらず礼儀正しい口調で、帰宅するなりそう言った。ちょうど夕食の支度をしていたキャサリンはそれを聞いて、ぱっと顔を輝かせる。


「おかえりなさい、デイヴィッド。ええ、ぜひ一緒に行きましょう」


 辺境に位置するこの街には、娯楽の類は多くない。たまに旅芸人などが立ち寄り芸を披露する、それがここの住人にとっては貴重な楽しみだった。




 数日後、うまく休みを合わせた二人は大道芸人が芸を披露しているという広場に向かっていった。仲睦まじく腕を組み、楽しげに話しながら歩く。その姿はとても幸せそうで、すれ違う人も思わず笑顔になるほどだった。


 広場は既に黒山の人だかりだったが、どうにか二人は大道芸人が見える場所を確保することができた。数人の大道芸人が、曲芸や楽器の演奏などの様々な出し物を披露している。


「思っていたよりもずっと、見事な芸ですね」


「そうね。こんな辺境で、こんなちゃんとした芸が見られるなんて思わなかったわ。実家にいた頃にもっと大きな街で見たものと同じくらい、いいえ、もっと素晴らしいかも」


 それはキャサリンが何の気なしに口にした言葉だったが、それを聞いたデイヴィッドはわずかに顔を曇らせた。


「……君は、故郷が懐かしくなったりしませんか」


「どうしたの、急に?」


「今でもたまに思うんです。君はこんな辺境ではなく、もっと平和で栄えた地で暮らした方が良かったんじゃないか、って。俺がこんなところに来ると決めたせいで、君を不幸にしてしまったのかもしれないって、そう思わずにはいられないんです」


「もう、あなたったらまだそんなことを考えてたの」


 キャサリンは明るくそう言うと、彼の腕にからめた自分の腕に力をこめ、彼の体を自分の方に引き寄せた。


「前にも言ったでしょう。あなたは私を救ってくれた。私はあなたと一緒にいたい。あなたといられるのなら、それがどこであろうと関係ないわ。私は今、とても幸せなの」


「……ありがとう。せめて、これからも君が幸せであれるよう、精一杯努力しますね」


「だったら、私も頑張らないとね。私ばっかり幸せだなんて不公平だもの。あなたにも幸せになってもらいたいし」


「キャサリン、俺はもう十分に幸せですよ。君も俺を救ってくれたし、君と一緒にいられるし。これ以上を望んだら、ばちが当たってしまいそうです」


「ばちなんて当たらないわよ。あなたは不幸だった分、人よりも幸せになる権利があるんだから」


「……それは、君も同じですね」


 どこか遠くを見るような目でデイヴィッドが言う。キャサリンは彼のそんな憂いを払うような明るい声で、はっきりと宣言した。


「そうね。だから、二人一緒にもっともっと幸せになりましょう。約束よ」


 キャサリンが優しく微笑みながら、組んでいない方の手を差し出す。デイヴィッドも同じように手を差し出し、そっと小指を絡めた。

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