1.お飾りの妻
ここに一人、誰からもかえりみられずに打ち捨てられた女性がいた。
彼女が暮らしているのはとある貴族の屋敷。今夜は客人をもてなす宴が開かれていて、母屋はとても賑やかだった。
けれど彼女は宴の場には顔を出さず、敷地のはずれにぽつんと建っている陰気な離れの一室で、ただ一人静かに座っていた。宴の喧騒も、彼女の耳には全く届いていなかった。
彼女の名はキャサリン、この屋敷の主であるベンダー男爵の妻だ。元は豪商の娘で、三年前、十七の時にここに嫁いできた。
けれどその結婚に愛はひとかけらもなく、ただ純粋に政略的なものでしかなかった。ベンダー男爵はキャサリンの実家と縁続きになることで、資金援助を受けようと目論んでいたのだった。そしてキャサリンの両親は、商売を拡大する上でどうしても貴族社会との繋がりが欲しかった。
そんな理由もあって、キャサリンは夫となる人と一度も顔を合わせることなく、嫁入りすることが決まったのだった。
当時のキャサリンは貴族との婚姻に恐れはあったものの、これも何かの縁だからと、前向きに頑張っていこうと考えていた。きっかけはどうであれ、これから夫となる人を愛していければいい。そう、自分を奮い立たせていた。
けれど彼女の夫となった男爵は初めて顔を合わせたその日に彼女を一瞥しただけで、彼女に指一本触れようとはしなかった。それどころか彼女をこの離れに押し込むと、ここから一歩も出るなと言い渡したのだ。
この時の彼女には知る由もなかったが、男爵は異常なまでの面食いだったのだ。そして当時のキャサリンは平均よりもほんの少しだけ、わずかにふくよかな体をしていたのだ。それこそが、男爵が彼女にこんな仕打ちをした理由だった。
もちろん、彼女の姿は普通の感覚を持つ男性にとっては何ら問題があるものではなく、むしろ好ましいと思う者も多かっただろう。けれど男爵の目には、彼女はおぞましいほど醜いものに映ったようだった。
輪をかけて悪いことに、男爵には既に愛妾がいた。細身ながらしっかりと張り出た胸をした、なまめかしく派手な顔立ちをした年上の美女は、入念に赤く塗られた唇をにんまりとした笑いの形に歪め、彼女の前で誇らしげに宣言した。
「あなたが正妻? 冴えない女ねえ。私も醜いものは嫌いなの。だからあの離れから、絶対に出てこないでね」
そう言って高らかに笑う愛妾を、男爵はそれは愛おしそうに見ていた。彼の目は、もう一度たりともキャサリンに向けられることはなかった。
その後も男爵は彼女を虐げ続けていた。彼女のもとには滅多に姿を現さず、たまに顔を合わせる羽目になった時は、嬉々として彼女の容姿について罵倒の言葉を浴びせ続けるのが常だった。キャサリンはただ黙って、彼の言葉に耐えていた。
愛妾の女性もまた、キャサリンをさいなむことに喜びを感じているようだった。彼女は、暇を持て余した時などにふらりと離れにやってきては、キャサリン相手に嫌味をたっぷりと交えた自慢話をひとしきり聞かせるだけ聞かせ、またふらりと帰っていくのだった。彼女は、キャサリンの話はかけらほども聞こうとしていなかった。
元々明るく朗らかだったキャサリンはこの仕打ちにひどく傷つき、言いつけ通り離れに引きこもるようになってしまった。ろくに日を浴びることもなく、体を動かすこともない生活。そして何より、たった一人きりの打ち捨てられた生活。
使用人たちも、主人である男爵にそう言いつけられているのか、この離れに長居することはなかった。彼女と目を合わせないように最低限の仕事をこなし、またそそくさと立ち去っていく。彼女は使用人たちと口をきくことすらできなかった。
彼女のたった一つの頼みの綱であった両親からは、何の便りも届かなかった。おそらく男爵が途中で握りつぶしているのだろう、そうキャサリンは考えていた。最初の頃はどうにかして両親と連絡が取れないものかとあがいていたが、今ではもうすっかり諦めてしまっていた。
そんな生活は、彼女の心身をむしばむには十分だった。彼女は結婚当初よりもう少しだけ太ってしまい、元々色の白かった肌は不健康な青白さを帯びていた。いつもきらきらと輝いていた茶色の瞳はどんよりと濁り、ここではないどこかをぼんやりと見つめている。彼女の自慢だった美しい栗色の巻き毛は、今はもうすっかり見る影もなく、あちこちからまったまま放置されていた。
本来の彼女は決して醜くはなかった。むしろ、愛らしい容貌の持ち主だった。けれど男爵に粗略な扱いを受け続けたことで、彼女は自分が醜いのだと思うようになっていた。こんな自分に、価値などないのだと。
そして彼女は今夜も、いつもと同じように離れの二階にある一室の窓際に、虚ろな目をしてぼんやりと座っている。部屋に明かりは灯っておらず、窓から差し込む月の光だけが、古びたドレスをまとった彼女の姿を淡く浮かび上がらせている。
こうして夜中近くまで、ただずっと外の森を眺める。それが彼女の日常だった。毎日何も変わることがない。今夜も、そうなる筈だった。
そうしてキャサリンが焦点の合わない瞳を外に向けていると、窓の下で何かの気配があった。この森には狐や鹿が住んでいるらしいが、彼女はその姿を見たことはなかった。珍しいこともあるものだと、彼女はぼんやりと考える。
もし獣がいるのなら見てみたい。この寂しい心を、ほんの少しでも癒してくれるかもしれない。人と接するのは怖いけれど、獣なら。
彼女はそんな思いにかられながら、物音を立てないようにして慎重に窓の外をのぞき込んだ。気配を殺してゆっくりと動けば、獣に気づかれることなく窓の外を見ることができるだろう。
そうして窓の外に身を乗り出した彼女が見たものは、全く予想もしていないものだった。
離れのすぐ外、森との間に広がるわずかな草地に立っていたのは獣ではなかった。そこにいたのは、肩と胸を守る防具を身に着け剣を帯びた人間だった。離れていてもはっきりと分かるほど鍛えられた体をした、すらりと背の高い男性。
彼は彼女に気づいていないのか、森の方に目をやりながらゆっくりと歩いている。陰になっているせいで、顔は分からない。明るい色の髪が、月明かりを受けて鮮やかにきらめいた。
キャサリンは驚いて、部屋の奥に引っ込もうとした。彼が誰なのかは分からなかったが、今の醜い自分を見られる訳にはいかない。
あわてた拍子に耳飾りが髪に引っ掛かり、外れて落ちた。耳飾りはそのまま窓枠に当たって澄んだ音を立て、窓の外に転がり落ちていった。キャサリンは思わず手を伸ばし、落ちていく耳飾りをつかもうとする。
その時、下に立っていた男性と、キャサリンの視線が正面から交差した。
彼は今の物音で彼女に気づいたらしい。少し驚いたように目を見張り、彼女の顔を真っすぐに見ていた。彼には彼女の醜い姿がはっきりと見えているだろうに、顔色一つ変えなかった。その事実にキャサリンは戸惑う。
月明かりが彼の顔を照らし出していて、キャサリンにも彼の顔がはっきりと見えていた。彼はがっしりとした体に似合わず、繊細で柔和な、中々に整った顔つきをしていた。年の頃はキャサリンと同じか、少し上といったところだろう。
前髪だけを長く伸ばした少し風変わりな髪形をしていて、その顔の右側は頬のあたりまできっちりと隠されている。唯一こちらを見ている左目はまるで月のように、夜の闇の中で静かに輝いているように見えた。その輝きは、今のキャサリンにとっては辛く思えてしまうほど、美しくまぶしかった。
彼は飛びぬけた美男子という訳ではなかったのに、何故かキャサリンの目をとらえて離さなかった。ずっと死んだようになっていた彼女の心に、ざわざわとさざ波が立っているように感じられた。
生まれて初めて抱いたその感情が何か分からず、キャサリンはただ呆然と窓辺で立ち尽くすほかできなかった。




