静心なく花の散るらむ
──唐衣きつつなれにしつましあれば
几帳面な筆跡で黒板に和歌が綴られていく。3限目、古文の授業。担当は小西。猫背でメガネで四十路すぎの、どこにでもいる高校の男性教員だ。
教室の窓の外には雲一つない空が広がり、校舎を囲む金網の向こうに、満開の桜並木が見える。
一方で、俺の机の上には分厚い紙の束。古文の問題集ではなく、昨夜塾で出された三角関数についての課題だ。
俺はいそいそと設問にペンを走らせる。大学受験までもう一年を切っている。俺に残された時間は少ない。
──はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
内職にいそしむ俺をよそに、授業は淡々と進行していく。
小西には申し訳ないが、俺がこの授業から学ぶことはなにもない。とっくに塾で習ったことばかりだから。
塾講師が言うには、受験とは有限の時間との闘い、だそうだ。だから俺はいまやるべきことをやる。
ようやく課題が一区切りついて、ふうと顔を上げた俺の目の前に、小西が立っていた。
「うわっ」
思わず悲鳴を上げてしまう。課題に夢中で小西のことに全く気付かなかった。
「川瀬君、一つ問題を出してもいいかい?」
小西はあくまで穏やかな口調を崩さず、それが逆に不気味だ。
「“ひさかたの光のどけき春の日に”、さて、下の句は?」
えらく唐突な質問に頭が混乱する。質問の意図が掴めない。そもそも今日は百人一首をやる日だっけ?
幸い、答えはすぐ分かった。先週、塾で解いたばかりの問題だったから。
「ええと、“静心なく花の散るらむ”、ですか?」
「うん。正解」
小西が頷く。
考えてみれば、小西がわざわざ生徒に質問するなんて滅多にないことだ。いつもはおとなしく板書しているだけなのに。
でも今日に限って、なぜ?
「川瀬君、内職も結構だけどね。高校生活は短い、本当にあっという間だから。大切に、楽しく、ね?」
小西が小さく笑う。
こいつが笑うの、初めて見た気がする。そもそも笑えたのか、こいつ。
それで満足したのか、小西はくるりと向きを変え、ゆっくりと教壇へ戻っていく。背中が少しずつ遠ざかる。
その後ろ姿はどこか切なくて、歌人のように儚くて、俺はなぜだか胸を締めつけられる。
机の上には相変わらずの課題の山。
脳裏に、受験戦争はもう始まってるんだぞ、と恫喝するように生徒を睨む塾講師の姿が重なる。
あれ? 静心なくって、どういう意味だっけ?
うまく思い出せない。
問うように外を眺めると、満開の桜並木から、ざあと花びらが舞い散るのが見えた。
以上、997字。