雪だるまのエール
大晦日の夜、僕は予備校の年末年始特訓に参加していた。
受験生にとって、今日が十二月三十一日だろうが、地球滅亡の日だろうが、最優先事項は志望校の過去問題を演習することだ。
その例に漏れず、僕は授業が終わった後も予備校に残って、ひたすら赤本と格闘する。
文字の羅列を目で追いながら、脳みそをフル回転させて文章の意味を理解していく。
自分が高性能のコンピュータになった気分を味わう。楽しい。
僕は、人間を辞めて、ただ機械的に与えられた仕事を処理している。
その高揚感を繰り返して、どのくらいの時間が経過したのだろうか。
ふと周りを見てみると、自習室に残っている生徒は僕ひとりだけだった。
手元の時計は、夜の八時五十分であることを示している。
あと十分で、帰らなければいけない時間だった。
さすがに予備校の先生たちも、今日は早く帰りたいのだろう。
いつもは夜十時半まで解放されている自習室も、大晦日の今日は夜九時までなのだ。
「……帰るか」
一度集中が切れてしまったから、家に帰ってからやり直した方がいい。
そう考えた僕は、閉室時間より少し早いけれど、机の上に広げられた教材を片付けていった。
よいお年を、予備校の受付に座っていたお姉さんの声を背に、僕は予備校の入り口に立った。
「マジか……」
僕が勉強に熱を上げている間に、外の世界は気温を下げていたらしい。
ふわふわと、たんぽぽの綿毛のように雪が降っている。
降り始めてからかなりの時間が経過していたようで、地面にはしっかりと白い絨毯が敷かれていた。
親に迎えに来てもらおうか、いや、この雪では車は出しづらいだろう。
折りたたみ傘でも持っていればよかったのだけれど。
まあ、雨ならともかく、この水分量の少ない雪だったら、急いで帰ればそこまで濡れることはない。
そう判断した僕は、ダッフルコートのフードを被って、白い世界に足を踏み出した。
ふわふわしている絨毯は、少し気をつけないと滑ってしまいそうだ。
僕は受験生だから、慎重に歩を進める。
「浮かれているやつがいたもんだ……」
すると、予備校の建物の前に、雪だるまが作られていることに気付いた。
たぶん、僕と同じように年末年始特訓に参加して、早く帰った生徒が作ったのだろう。
遊んでいる暇があるなら、僕を見習って勉強しろ。
「山梨くん」
「っ!」
突然にかけられた声に、僕は驚いて雪に足を取られそうになった。
誰も周りにいないと思っていたから、マジで心臓が口から出るかと思った。
「……は?」
僕が声のした方に顔を向けると、雪だるまの上半分が、予備校で僕と同じ授業を取っている長野さんだった。
……いや、なにを言っているのか自分でもよくわからない。
滑らないように地面に集中していたから気付かなかったようだが、木の棒が腕の役割を果たしている大きな雪玉の、上にちょこんと載っているのが白い雪玉ではなく、白いきめ細かい肌を少し赤くした長野さんだった。
長野さんは、タータンチェックのおしゃれなマフラーと、イヤーマフというのだったか、耳に暖かそうな白いもこもこをつけていた。
「いや、寒いだろ!」
僕は思わず声を荒げてから、慌てて長野さんの救出を図る。
もし長野さんが首をちょん切られているのでなければ、長野さんの首から下は、すっぽりと雪玉の中に収まっていることになる。
なんだ? 彼女はいじめられているのか?
そんな素振りは見たことがなかったから、僕の頭は混乱していた。
素手だけれど、致し方あるまい。
僕は、長野さんの下半分を崩すために、それに手をかけた。
しかし、固められてから時間が経過しているのか、素手では、なかなか崩すことができない。つるつるしてしまう。
「山梨くん、勉強がんばってるね」
僕が悪戦苦闘していると、当の本人である長野さんが微笑みとともにそんな言葉をかけてきた。
自分の置かれた状況を把握していないような声音に、僕の手は止まってしまう。
「がんばる姿がかっこいいなぁって、いつも見てたよ」
「え……ありが、とう?」
手に感じていた雪の冷たさを忘れるぐらいに、温かで可愛らしい微笑みだった。
もし彼女が雪だるまじゃなかったら、女の子に慣れていない僕は返事をできなかっただろう。
「私も山梨くんと同じ大学に行きたいから、がんばるね」
そうなんだ、初めて知った。
……あれ? いまの言葉、どういう意味?
「なんで?」
思わずに、僕は頭の中の疑問を声に出していた。
普段は、思慮深さがマリアナ海溝ぐらいの僕なのに、どうやらこの状況にまだ混乱しているようだ。
「なんで、って……」
そう言って、長野さんはしもやけて赤くなっていた頬を、さらに赤く染めて俯いた。
「……いや、違う違う!」
長野さんに見惚れてしまっていた僕を頭から追い出すように、僕は声を上げた。
「とにかく、早く君を出さないと」
僕は、長野さん救出作業を再開した。
取り外した木の棒のところから崩していけば、なんとかなりそうだ。
僕が雪を崩すためにえっちらおっちらしている様子を、長野さんがじーっと見下ろしている視線を感じる。
それに耐えられなくなって、僕は作業を続けながら、この謎の雪だるまとの対話を試みる。
「……えーと、君は、いじめられているの?」
もし僕が心理カウンセラーだったとしたら、こんな聞き方では資格を剥奪されるだろう。
しかし、ただでさえ、雪だるまの解体作業に脳のリソースが奪われている状況で、他の話題が思いつかなかったのだ。
「いじめ……? どうしてそう思ったの?」
心底疑問そうな長野さんの言葉に、僕は二の句が継げられなくなってしまった。
いや、雪だるまにされることがいじめじゃなかったら、なんだというのだとは思うけれど。
「あっ、違うよ。これは、山梨くんを応援するために、知夏ちゃんたちにお願いしたの」
慌てたように、長野さんは言葉を紡いだ。
確か、知夏ちゃんも予備校の生徒で、いつも長野さんといっしょにいる女の子だ。
長野さんとは違って、ギャルギャルしい女の子だ。
しかし、長野さんと同じように、真剣に授業を受けている姿を覚えている。
「いじめじゃないのは、理解できたけど……」
知夏ちゃん――名字を知らないから、親しみがあるような呼び方しかできない――は、誰かをいじめるような人間ではないだろう。
問題は、そこではない。
「僕を応援するためにってところが、理解できない」
僕がそう言って長野さんを見上げると、長野さんは赤い顔で僕から目を逸らした。
その照れた顔を見たら思考が停止してしまうので、僕も長野さんから目を逸らしながら、慌てて言う。
「いや、違う違う」
恋愛感情がどうこう、だという次元の話をしたいのではない。
そもそも、僕にとっては未知の次元、色恋というものは四次元空間を彷徨っているのだから。
「どうして雪だるまになることが、僕を応援することになるのかがわからないってこと」
ちらっと長野さんを見上げると、頬は赤いままだが、きょとんとした顔を浮かべていた。
あれ? 理由がわかっていないの、僕だけ? みんなわかった?
「可愛いものを見たら、がんばろうって思わない?」
……それは、君だけだと思うけれど。
雪だるまのことを可愛いと言っているのか、それとも長野さん自身のことを可愛いと言っているのか、判断が付かない。
僕は驚きなのか呆れなのかよくわからない感情を胸に抱きながら、幾ばくか解体作業を続けた。
つるつるなのは表面だけで、一度崩してしまえば楽に雪が取れていく。
「あっ……すごいところ触ろうとしてるね」
長野さんのつぶやきの意味を頭で理解するより前に、僕は手に柔らかい感触を感じた。
むにっと弾力があり、僕が押す力を弾性エネルギーに変換させて押し返してくる。
「――っ! ごご、ごめんっ!」
いつの間にそこまで雪を崩していたのか。
長野さんの胸を雪のかたまりだと勘違いしていた僕は、その場で土下座をした。
このご時世、男の人権というものは、粉雪のようにふわふわと軽い。
長野さんが僕を訴えたら、僕は大学生になることなく人生を終えるだろう。
……いや、僕は長野さんを助けようとしているのだ。
どうして恩を仇で返されなければならないのか。
冷静さを取り戻した僕は、おそるおそる――怖いものは怖い――顔を上げた。
土下座する僕を見下ろす長野さんは、嬉しそうに微笑んでいた。
怒っていないことの安堵よりも、なぜ長野さんが嬉しそうなのかという疑念が僕の心に渦巻いた。
「山梨くん、気にしてないから」
長野さんの言葉を聞いて、僕は立ち上がり、雪玉を崩す作業に再び取りかかった。
とりあえず、長野さんを助けてから、考えることにしよう。
僕の経験値では、長野さんの思考を攻略することは難しいだろう。
今度は身体に触れないように、慎重に。
しかし、意識してしまってあまり捗らない。僕の顔も真っ赤になっているかもしれない。いや、しもやけだ。
「……よし! 右手、抜けるんじゃない?」
僕の問いかけに、長野さんは雪の中から手を抜くことで応えた。
纏わり付いた雪が落ちた腕を見ると、シンプルな色合いのウールコートと、赤い手袋を着けていた。
意外と、長野さんは寒くなかったのかもしれない。
「じゃあ、あとは自分で……」
得体が知れないというのは、やはり怖いものだ。
長野さんがどういうつもりでこんなことをしたのか――僕を応援するためらしいけど――が定かでない以上、ここに長居するのは危険だと判断する。
しかし、言いかけた僕の顔を、長野さんの悲しそうな視線が射貫いた。
それだけでは飽き足らず、長野さんの視線は僕の心臓をきゅっと握る。
「……左手までだからな」
生命を握られていたら、しょうがない。
僕は長野さんの左手も自由にするために、もう一度手の冷たさを忘れるのだった。
五分ぐらいで、長野さんの左手も雪の中から救出することができた。
その間、長野さんも右手で除雪作業を手伝ってくれていた。
あれ? どうして僕が施工主になっているんだ?
「あとは、自分で崩していけるんじゃないかな?」
さすがに両手が自由になれば、なんとかなるのではないだろうか。
僕の言葉に、長野さんは自由になった両手を広げることで応えた。
「……抜けと?」
僕に向かって両手を差し伸べる長野さんは、こくっと頷いた。
その顔は、恥ずかしさによってだろうか、しもやけによってだろうか、赤らめられている。
「……大きなかぶみたいに、抜けと?」
僕はふざけた物言いをしているけれど、その顔は長野さんと同じように赤くなっているだろう。
「……山梨くん、お尻、冷たくなってきた」
妖艶な上目遣いで、僕を見つめてくる雪だるまに、僕は屈した。
もういくらでも訴えてみろ。
僕は、控訴して上告もして、引き延ばしに引き延ばしてから刑を確定させてやる。
自分だけが安心して受験に臨めると思わないことだな。
僕は雪だるまの残った部分に足をかけてから、長野さんの胸の辺りに腕を回して、引っこ抜く体勢をつくる。
あっちもこっちも柔らかい感触がするけれど、意識の外に追い出す。無理だけど。
長野さんも、僕の首に腕を回して、離れないようにしてくれる。
もしこんな状況でなければ、雪をも溶かす情熱的な抱擁だっただろう。
「行くよ……?」
「うん……」
僕の顔の横から、長野さんの小さな声が耳に届いた。
腕に力を込めると、ぐっと引っかかるように、長野さんの身体が動かない。
どれだけがんばって、雪だるま作ったんだよ。
そんな暇があったら、勉強しろ。
僕はその怒りを力に変えて、長野さんを人間に戻すことにする。
「痛くない?」
「うん……!」
長野さんも力を入れているのか、先ほどよりも大きな声が返ってきた。
よし、一気に行くしかない。
「んっ……!」
僕が精一杯の力をかけると、一瞬止まってから、ぼこっと雪が崩れる音が聞こえて、長野さんの身体が浮き上がった。
長野さんを抱きかかえたまま、僕は勢い余って後ろの地面に倒れる。
「きゃっ……」
「――ぐぇっ」
腕の中から、長野さんの可愛い悲鳴が聞こえたと同時に、僕のみぞおちに長野さんの全体重がかかった。
首の後ろに当たる、雪の冷たさと、長野さんの吐息の温かさを、同時に感じる。
長野さんの背中に回した腕を、放さなければいけないのに、なぜだか動かせない。
あぁ……僕、なにやってるんだろ。
家に帰って、赤本の続きをやらなければいけないのに。
こうしている間にも、同じ大学を目指すライバルたちは、勉強しているのに。
あれ? 長野さんも、志望校は同じって言ってたよね?
二人して、なにを遊んでいるのだろう。
「――ふっ」
「――ふふ」
僕が思わず笑ってしまったと同時に、長野さんも笑った。
お互い、きょとんと不思議な顔で見つめ合い、僕と長野さんは、また笑いはじめる。
「なんだよ、雪だるまになるって。僕がもっと出てくるの遅かったら、どうしてたんだよ」
「いま、私、びゅーんって浮いてたよ。それに、山梨くん、ぐえって、カエルみたいに」
僕の上で、長野さんは楽しそうにはしゃいでいる。
かくいう僕も、よくわからないテンションになっていた。
これは、もしかしたら、楽しいっていう感情なのかな?
勉強以外で、こんな感情を抱いたのは、初めてかもしれない。
「……はぁ」
「ぐぇ」
一頻り笑った後に、僕は、僕の上に寝そべる長野さんを横に投げた。
背中から落ちた長野さんは、僕と同じようにカエルがつぶれるような声を上げた。
「ほら、帰って勉強しないと」
よっと勢いをつけて立ち上がってから、僕は隣に座り込む長野さんに手を差し伸べた。
その手をちらっと見た長野さんは、僕の顔をじっと見上げるだけで、僕の手を取ろうとしない。なんでだよ。
「……雪合戦でもしない?」
すねたような声で、長野さんは僕に提案してきた。
しかし、その顔は不満そうな顔ではなく、不安そうな顔だった。
長野さんは、どうして雪だるまになっていたのだろうか。
あまりに奇想天外で意味深長な気がして、合理的な思考を重んじる僕には理解できない。
「しないよ。いま大切なのは、勉強だろ」
僕の言葉に、長野さんは目を見開いてから俯いてしまう。
理解できないなら、理解できるように勉強すればいいんだ。
僕は、勉強するのは好きなんだ。
「そんなに雪合戦したいなら、受験が終わってからにすればいい」
「……そのときには、もう雪降らないかも」
長野さんがつぶやいた微かな声が、雪で冷えた僕の耳に届いた。
確かに、二月の終わりになると、あまり雪は降らないかもしれないな。
「それなら、来年でもいい。来年に雪が降らなければ、再来年でもいいだろ」
ばっと長野さんが顔を上げた。
その瞳は、少し潤んでいて、僕の心臓をぎゅっとわしづかみにする。
「……山梨くんが、いっしょに、やってくれるの?」
女の子の涙はずるいな……生命を握られていたら、しょうがない。
僕が仕方なさそうに何度か頷くと、一瞬で機嫌を直した長野さんが、僕の手をぐっと引っぱった。
僕は慌てて、長野さんを立たせるために、手に力を入れる。
「約束ね?」
僕の目の前で、雪だるまから人間に戻った長野さんが、右手の小指を僕に向かって立てた。
これは、あれか? 指きりをすることによって、小指を担保にするという呪われた儀式か?
いや、僕に拒否権はない。
おとなしく、長野さんに従おう。
僕も右手を出して、僕の小指を、長野さんの小指と絡ませる。
雪によって、冷たく湿っている赤い手袋が、僕の手の悴みを加速させた。
「指きりげんまん、嘘ついたら――」
拍子をつけながら、長野さんは約束の祝詞を紡いでいく。
僕は黙って、リズムよく揺れる僕と長野さんの手を眺めていた。
「――雪だるまにすぅっるぞっ、指きったっ」
……それは、怖いな。
小指どころか、両腕と両脚を担保にさせられてしまった。
僕は、小悪魔のような微笑みを浮かべる長野さんを見て、心に誓うのだった。




