つたない結婚の義
恥ずかしい決断だった。
マリー・ルヴォギンス――賢者の孫娘との同居生活が始まって初日のこと。
「イクト、背中流してやるよ」
彼女は僕の愛妻を気取り、こう申し出てきたのだ。
「結構」
「あっそ、こんなチャンス二度とないのに。残念」
ああ、そうだよ。
農民の僕がマリーのような地位ある美少女から背中を流して貰える機会なんてこのさき一生訪れないだろうさ。
けど、前世での死因を考えると、とてもじゃないけど、と思う。
今度は美少女に背中流して貰ってる最中にショック死?
馬鹿げてる。
農民の家と言えど、僕の家には風呂釜がある。
風呂を沸かすために薪割りをしていると。
「原始的だな、私にやらせて」
マリーはそう言うと僕の手から斧を取り、投げ捨てる。
「我が家の薪割りはこうして、こう」
――ッ。
気付いた瞬間には薪は綺麗に割られていた。
彼女がどうやって薪を割ったのか、以前日本人だった僕には想像が付かない。
「今の、どうやった?」
「……さてね」
彼女はそっぽを向き、表情すら悟られないようにしている。
「お風呂が沸いたら呼んでけろ、私はちょっと野暮用思い出した」
「え? 君がどこかへ行ったら呼ぶに呼びに行けないじゃないか」
と言った僕の声が耳に届く暇もなく、彼女は消えてしまった。
「もしかして」
魔法という奴だったりするのか?
――三十分後、お風呂は適温になっていた。
「……マリー、お風呂沸いたよ、一応」
誰もいない空間に声掛けたって、返って来るのは空虚が混じった嫌な静寂だ。
まぁいい、独りで勝手にお風呂にしよう。
唐突に両親がいなくなって、僕は旧来の友を失ったかのような心境だ。
今でも覚えてるよ、僕がこの世に生まれて来た時のことを。
父さんが僕を胸に抱え、僕の名前を呼び、僕は。
「あ、はい。えっと、ここはどこで、僕はどうなったんでしょうか?」
と言えば、その場の空気は凍てつき、両親は素っ頓狂になった。
二人の第一子の誕生という感動の瞬間を僕は台無しにしてしまう。
そこから僕は二人と友情を育むように僻地の農村開拓に精を出した。
表向きは二人を父さん母さんと呼んでいるが、僕達は家族であり友人だった。
で、僕はお風呂に向かった筈なんだけど。
気が付いたら、僕は寝室で眠りこけていた。
「起きたかイクト……」
賢者の孫娘? 彼女だったら僕の隣で寝てるよ。
僕は頭を振って、冷静に考え。
お風呂に向かったはずなのにどうして今ここに居るのか思い起こしている。
「どうして僕はここで君と添い寝してる、何があったんだ?」
するとマリーは僕につられるように上体を起こした。
「私がお風呂場に向かったら、お前は白目を剥いててな、心臓も止まってたぞ」
……ああ、そうか。
肝心な所が思い出せないけど、こうなる前、胸に激震が走った感触がある。
あれは浪川に謀られるように振られた時の衝撃と一緒だった。
「で、私は夫に先立たれないように必死になって助けたわけ。少しは感謝してくれる?」
「ああ、感謝するよ」
「じゃあ結婚してくれる?」
「結婚……するよ」
賢者の孫娘と言えど、彼女はそこまで異常な性格じゃないようで。
僕が結婚話を承諾すると、嬉しがるよう口元を緩ませていた。
「本当か? 本当に結婚してくれるんだな」
少し考えたけど、僕にとって彼女との結婚は一攫千金とも言える。
僕は農民の出で、彼女は賢者の血統。身分の差は歴然だ。
それに何より彼女は命の恩人だ。
「君は命の恩人だ、僕は前世で果たせなかった恩返しって奴をしたいんだ」
だから僕は彼女との結婚を決断したんだけど。
「なら結婚の儀式を始めましょうかね、イクト、そこに立って」
「ああうん」
この世界での結婚って、どうやるのだろう。
前世から引き継いだ現代知識はあっても、この世界の常識はないに等しい。
それは僕の家が辺境にある農家と言うのが大きな理由だった。
「天にまします我らが父よ、私、マリー・ルヴォギンスと彼、イクト・マクスウェル・Jrとの婚儀を認め、どうか幸福をお与えください。以下省略、ってことでイクト、誓いのキスでもしようか」
「いや、キスするにはまだ僕達日が浅いから」
「駄目ですぅー、結婚の儀式にキスは不可欠なんだよ」
と言うと、マリーは僕に詰め寄り。
「生娘じゃねぇんだから、――」
口汚く、僕のファーストキスを奪い去った。
その時僕の身体に怖気が走る。
怖気の正体は謎だけど、得も言えぬ大きな存在が僕の背中に居付いた感じだ。
「……これで結婚の儀式はおしまい。次は夫婦の営みでも、する?」
「いやいや、それはさすがに公序良俗に反する。ソフ倫が黙っちゃいないよ」
「ソフリン? 誰だか知らないけど、私達はお互いの裸身を見てるじゃないか」
お互いの裸身を……っ!?
そうだ、思い出した。
僕はお風呂場へ行き、湯あみから上がった後マリーと遭遇したんだ。
象牙色の肌をした彼女の裸を見て、僕はショックの余り倒れた――
「君って奴はちょっとした嘘つきだな」
「ずいぶんとお早くそこに気付きましたね」
じゃあ何だ、僕は命の恩人と思い込んで、彼女と結婚したけど。
僕を危機的状況に追いやったのは彼女で。
そうとは知らず僕は彼女との結婚を承諾したのか。
だが本質的な問題はそこじゃない。
問題はマリーの裸を見ただけで心肺停止に陥るほどのあがり症を拗らせた僕だ。
エロゲ会社勤務で見慣れていたはずの女性の裸なのに。
僕はどれだけ柔い神経をしているのだろう。
恥ずかしい。