第八話
エマが案内してくれたのは、大きな通り道の右側に面した赤い看板を出している店だった。
内装は白を基調としていて、清潔で明るい印象を受ける。
「いらっしゃいませー」
ふたりを出迎えたのは可愛い制服を着た十代半ばくらいの茶髪の女の子だった。
「おふたりさまですか?」
「ええ」
「こちらへどうぞー」
ふたりは窓際の二人がけの席に案内される。
店内はけっこう広い。
二人がけ用の席が四つ、四人がけの席が三つ、さらにカウンター席が八つだ。
「こちらの店舗は標準くらいの大きさですね。家賃は銀貨四枚くらいでしょう」
とエマは解説する。
(銀貨四枚がどれくらいの価値か判らないけど、覚えておこう)
樹利亜は頭の中でメモをした。
メモ用紙と鉛筆があればいいのだが、こちらの世界で紙はわりと貴重な部類であるらしい。
「メニューをどうぞ」
先ほどの店員がそう言って一枚の獣革紙を持ってくる。
おせじにも上手いとは言えない字で書かれていた。
「パスタ銅貨八枚、オムレツ、銅貨八枚、パンケーキ銅貨七枚、パスタに飲みものとサラダつきで大銅貨一枚に銅貨二枚……銅貨十枚で大銅貨一枚ですか?」
樹利亜は尋ねる。
「ええ、その通りです。理解が早いとシリウス様がおっしゃっただけのことはありますね」
エマは感心したのかオレンジ色の目を丸くした。
「ありがとうございます」
この程度で大げさだと思うものの、こちらの世界の教育水準はまだよく判らない。
褒め言葉を無視するのも感じが悪いだろうと判断し、礼を言っておく。
(大銅貨一枚が約千円って感じなのかしら?)
そう当てはめるとしっくりくる気がする。
「銀貨って大銅貨何枚なのですか?」
次の疑問を口にする。
「大銅貨十枚で銀貨一枚になりますね」
エマは予想していたように答えてくれた。
(ということは銀貨一枚で約一万円かしら……つまりこのお店の家賃は約四万円ってところなのね)
大きな通りに面している上にこの広さであれば、決して高いとは思わない。
(問題は稼ぎのほうだけどね)
当たり前だが、いくら家賃が高くなくとも収入がなければ払えないのだ。
付与魔術が使われた品物はどれくらいで売れて、どれくらいの需要があるのだろう。
(できればエマさん以外の意見も聞けたらいいのだけど)
それを考えたら移動できる露天商は魅力的だ。
もっとも歩き詰めになる上に教えられたリスクを考えれば、どうしてもためらいがある。
(身を守るための魔術、まだ教えてもらっていないし)
樹利亜が独り立ちをしたいという願望を強く持っていると見抜かれたのか、シリウスが教えてくれたのは付与魔術と生きていくために必要な知識だ。
自衛用と思われる魔術は一切習っていない。
(……焦ってはダメ)
焦って失敗しては元も子もない。
もう少し足場を固めておくべきだと自分に言い聞かせる。
「先に注文しないとですよね」
考えていた樹利亜はふと気づき、ずっと待ってくれていたエマに謝った。
「いえいえ、ジュリアさんは何もかもが勉強という状況なのですから、仕方ありませんよ」
エマは落ち着いた笑みを浮かべ、許してくれる。
「では私はパスタで」
「パスタをふたつにしましょうか」
樹利亜が決めるとエマはそう言い、店員を呼ぶ。
「パスタをふたつお願いします」
「この時間ですとサービスで飲み物がつくのですが、いかがなさいますか?」
若い女性店員の質問に、樹利亜は考え込む。
「少し待ってください」
そう断ってメニューを見る。
(リンゴジュース、オレンジジュースはいいとして、バラ水とかなんだろう?)
馴染みのあるものにするか、それとも未知の飲み物にするか。
数秒悩んだ末、彼女は後者を選んだ。
「バラ水で」
「私はリンゴジュースで」
エマは今度は樹利亜の真似をしなかった。
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
店員が下がると、エマが聞いてくる。
「ジュリアさん、バラ水はご存じなのですか?」
「いえ、全然。だからいい機会だし試しに飲んでみようと思いまして」
樹利亜の答えにエマは目を丸くした。
「あら。冒険心がおありなのですね」
「そうかもしれません」
樹利亜はぺろりと舌を出す。
こういう性格だからこそ、異世界に転移して来てもすぐに立ち直って順応できたのではないかと思う。
「なるほど。事情はシリウス様からうかがっていましたが……」
エマの言葉に樹利亜はそうだろうなと納得する。
そうでなければきちんとした女性が、自分のことを全く詮索せず世話をしてくれるとは思えない。
「立派なものです。私があなたくらいの時、そのような心理に至れたかどうか」
「はあ」
感心されて悪い気はしないものの、大げさではないかと樹利亜は感じた。
「ある意味、商売に向いているのかもしれませんね。安定だけを求めると、厳しいこともありますから」
「そういうものなのですか」
商売に関して素人だという自覚がある樹利亜は、素直に相槌を打つ。
(まるで自分が苦労したことあるみたいな言い方だけど……気のせいかしら?)
聞いてみたい気もするが、エマの表情から詳しく話す気はなさそうに思える。
無理に聞こうとして気まずくなってもいけないと思い、樹利亜は別のことを尋ねた。
「こういった店には付与魔術を扱った品はないのですか?」
「……付与魔術というものは、希少価値がありますからね」
エマはどう説明したらいいのか、困っているような表情になる。
「食事が終われば、一度そちらの方面に行ってみましょう。そのほうが早いでしょう」
百聞は一見に如かずということか。
樹利亜はそう思い軽く頭を下げる。
「お世話になります」
エマは黙って笑っただけだった。
やがてパスタとバラ水が届く。
パスタは麺の上に少量のキノコとニンジンが乗っていて、バラ水はずんぐりとしたグラスの中に赤いバラの花びらが浮いた水だった。
「これが……」
樹利亜は小声でつぶやく。
今までの生活で味覚が合わないと思ったことは一度もなかった。
だから大丈夫だろうと判断して手を伸ばす。
「んん……」
ぱくっと食べてみる。
結果は期待ほど美味しくなかった。
「大きな声で言えないけど、エマさんの料理のほうが美味しかったです」
樹利亜が周囲を見ながら小声で言うと、エマは苦笑する。
「ありがとうございます。ただ、これは普通ですよ」
「そうなんですか?」
「少なくともこの店の味が平均より悪いということはありません」
エマはリンゴジュースを飲みながら断言した。
「ごめんなさい」
樹利亜は詫びる。
この店に連れてきたのはエマだ。
だから味に不満を持ったようなことを言うのは、彼女に対して失礼だ。
そのことに今さら思い当たったのである。
「謝ることはありませんが」
エマはちょっと困った顔になった。
「料理を褒められたのは嬉しいですし、ジュリアさんはこちらの世界の水準というものをご存じないわけですから」
「恐れ入ります」
樹利亜は頭を下げる。
フォローしてもらったのは明らかだったからだ。
(そうか、これが普通なんだ)
樹利亜は改めて認識する。
物足りなさは感じるものの、耐えられないほどひどいわけではない。
(日本がそれだけ豊かだったということかしら)
こちらの世界の普通がこれだというならば、それに慣れていこう。